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医療人類学者・鎮忘斎(池田光穂)の

呪術論の四季【夏】なつ


【夏】

日本の夏といえば海水浴である。海水浴という名称がダサければビーチ・リゾートである。ハワイやグアムはもはや日本人にとっては定番のリゾート地域に なってしまった。あるいはダイビングやウインドサーフィンなどのマリン・スポーツである。海で遊ぶことが普遍的なレジャーであることを疑う人はいまい。

しかしながら明治初期ごろまでは、海浜が娯楽の対象であると考える人はいなかった。1882年に後藤新平は『海水功用論』を著した。彼の執筆の動機は海 水浴の医学的効果を説き、人びとを啓蒙するためだった。海水に浸かることは、病気を治療し、健康を増進させると。

治療として海水浴という発想は、じつはそれよりも百年以上も前のイングランドのある地方に遡れる。この国の南岸の町であるブライトン。1754年ここに 居住し、療養所を開設したリチャード・ラッセルは海水の治療作用に関心をもちその研究の成果を「海水療法」として完成させた。これがイングランドの人々を 虜にさせ、この土地を海水治療の聖地として一躍有名にさせた。

海水療法は、海浜の空気を呼吸し、海水を飲み、また海水に浸かることによって医療的効果をえることである。ラッセルから一世紀以上もたってフランスの医 師ラ・ボナディエールは、1869年にギリシャ神話で海を表わすタラサと治療という語テラピを合成したタラソテラピという治療用語を提唱した。当時は生物 の起源としての海という考え方がひろく受け入れられた。また、人間の体液と海の組成の類似が指摘され、科学の権威づけによって、海の治癒効果が信じられる ようになった。後藤の主張もこれらの論調に連なる。 しかし、海がもつ魅力に人びとが気づいたとき、その医学的効用にその理由を求めることは、もはやしな くなったのだ。海浜はもとからレジャーの対象ではあったのではなく、かつては治療の場であった。それを人は忘却しているに過ぎない。

呪術論の四季


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池田蛙  医療人類学蛙