あるメスティソ農村社会の医療民族誌
Medical Ethnography of a Honduran Mestizo Rural Society
文献
本稿において筆者が試みようとすることは、ある社会の「医療」についての記述である。我々が医療について語る時、いったい何をもって、ど のような言葉でその社会の医療を語ることができるのだろうか。このような一見あたりまえのような質問してみると、「医療統計」の数字を出して事足れりとし たり、研究者に感じられた印象をもってその社会の医療を語っている場合を意外に多く見かけることができる。我々が実際に住んでいる日本では「日本の医療」 の実態について検証したり反論することが容易であるが、海外の事情となると情報の流れは一方通行であり、筆者の記述に頼らねばならない状況がほとんどであ る。特に開発途上国、いわゆる第三世界の国々の医療事情の報告ではそれが著しい。その意味では本報告やその方法論も再検討される運命にあるわけであるが、 この根底には医療を全体論的に記述する方法論が確立されていないことに原因があると考えられる。そこで筆者がここに提起したいのは医療を人類学的な方法論 で記述する試みである。このような試みが要請されるのは、我々の身近にあるはずの医療が、「医療化(medicalization)」によって外化され、 最後には逆に医療によって我々の生活が規定されていくのではないか、という論者達の主張[1]と発想を共にしている。しかしながら筆者は、医療が社会から 独立した我々の統制のできない自律体であるという悲観的なビジョンを持っているわけではない。むしろ要請されていることは、医療についての記述や分析に多 様な視点を持つことにより、いったいどの程度まで医療と言うものが「社会に埋め込まれている」のかを検討し、その理解を深めることである。筆者は中米ホン ジュラス共和国のメスティーソ(注1)の一農村社会を例に取り、医療人類学的方法論の検討の材料を提出してみたい。
中米における医療人類学とその方法論的枠組
医療を文化的な枠組みの中で批判的に検討し、そこで得られた知識を実践の中で試みていく分野を我々は医療人類学と呼ぶ。一般に言われてい るように、当初医療人類学は民族学あるいは文化人類学の下位分野として一部の特殊な関心しかひき起こさなかったが、この十数年のあいだの理論的な交流は医 療人類学をもってより適正な医療実践にまでたかめようとする傾向が見られるまでになった[2]。この背景には、最近まで一枚岩的なイデオロギーに強固に支 えられていた西洋医学的理想が第三世界へのその適用において躓ずいてきた経験からの反省があることは論を待たない。しかしこの様な解説は医療人類学が学問 的に発展した北米人類学的な視点であり、ラテンアメリカの文脈のなかでは医療人類学は若干趣をこととする発展形態を取ってきた。公刊された医療人類学的研 究は北米人類学者によるものや英語で出版されたものが圧倒的に多い。しかしながらその一方でラテンアメリカ各国の民俗学者や人類学者たちも共同あるいは独 自に自国文化の研究に着手してきた[3]。この様な先駆的研究には明らかに自国の固有の問題(多民族社会、社会階層間の大きな格差、国家のアイデンティ ティー、等)を、応用人類学的に解決していこうという積極的な姿勢があり、応用科学の運用の問題を常に内包しながら発展してきたのである[4]。そして医 療の文化研究の中では施術者や薬草に関する知識の集積が、民俗文化を構成するその国のアイデンティティーの構成要素の一部として理解されることもある。こ れはWHOのアルマ・アター宣言に見られるような伝統的技術の吸収という課題と揆を一にしているように思える。これらは伝統的文化が自国の現在の文化を支 えるために歴史的あるいは基層的に重要なものと理解されることに起源を持つものであろう。もっともその中には、薬草を科学的に分析して「効力がある」と証 明するといった素朴な現代科学の裏づけによって西洋近代医学を補強している面もあるが、伝統文化の復権というアイデンティティー上の問題と政策上の難問に 対して医療人類学が要請されてきていることは注目すべきである。
我々がいま、問題としている研究分野は、広く通文化的に妥当と信じられている近代西洋医療つまり正当化された制度的医療と、それが社会に 浸透するまでに一定の支配権を獲得していた医療(これは先の医療体系ではない残余の物として「非西洋医療」と一括して呼ばれている)を便宜的に区分してき た。実際に西洋ー非西洋で示される二分法は様々な文化の病因論や病気治療のイデオロギー理解には大きく貢献してきた。また応用人類学的には、その様な二元 論を認めた上で西洋医療の概念を世に広めることを是として、西洋医療の普及に当該の文化的背景を考慮すべしとか、伝統的医療を西洋医療の概念の枠組みの中 で復権を試みるということが行われている。文化人類学が、認識論的地平に与えた 貢献は西洋思想の非西洋思想に対する脱西洋化であったが、結局は文化人類学も西洋文化の産物であるので、それは同時に新たな西洋化でもあった。このことは 医療人類学でも全く同じことが言えよう。
近代西洋医学を導入すれば、前近代的な「土着の医療」はなくなる筈であった。しかしながらその結果我々の前に現れたものは、ふたつ以上の 医療システムが共存して社会の中で機能する、いわゆる医療的多元論(medical pluralism)[5]と呼ばれる現象であった。その状況の中で、人々は複数にわたる医療を選択することによって医療行動を形成しているのである。こ の様な視点に立てば我々が問題にしている医療をあらたに全体論的な見方で考察する必要が生じてくる。即ち、この様な当該の文化なり社会が直面している全て の医療体系を「民族医学」(エスノメディシン、ethnomedicine)(注2)と考え、医療に関する事柄をすべて考慮にいれて考察することが本稿の ねらいである。そこにおいては西洋医療も人々が選択する医療の一つの戦略にしかしぎないし、通文化的に一定不変と考えられているこの医療に投影された文化 的側面への理解への第一歩となるかも知れない。
本稿で定義したホンジュラスの一メスティーソ社会の民族医学を分析する枠組みあるいは方法論は民族誌学的方法である。この20世紀初頭に 定立された方法論によると、観察は一定の期間調査地で居住し、現地で使用されている言語を用い、インタビューを行ったり行事に参加することなど、よりなっ ている。つまり、それらには、(1)公的なインタビュー、(2)非公式なインタビュー、(3)会話、(4)観察、(5)参与的観察[6]が含まれる。この 方法において著者が意図したことは、医療の構造を法則定立的に実証することではなく、医療における民族誌を描き出すことである。ある社会の医療の民族誌に よって描かれること、即ち民族医学の実態を知ることである。歴史的視点 から見れば、医療における保護的、および操作的政策からサービスを提供する政策へと転換をはかりつつある西洋近代医療に対する具体的方途のための一次的資 料を提出することにある。
調査地の概要
ホンジュラスは南北アメリカ大陸をつなぐ中米地峡の中央に位置する11万平方キロメートル、およそ日本の面積の約3分の1の面積をもつ、 人口437万人(1985年央推定)の共和国である。西にグアテマラ、南西にエルサルバドル、南東にニカラグアと国境を接している。国の経済活動人口の6 割は農業に従事し、バナナ、コーヒー、タバコ、綿花、砂糖きびのモノカルチャーが主体である。成人の識字率は約60%、推定平均寿命は57.1歳 (1975-80)、人口千人に対する粗死亡率は53、15歳から49歳までの女性千人における出生率は207.5、15歳以下の子供が総人口に占める割 合は47.8%、人口10万人あたりの医師の数は32となっている[7](注3)。
調査がおこなわれたのはホンジュラス西部にありグアテマラとの国境を面するコパン県にあるサンティアゴ郡(仮名)である。調査地はその郡 の役場のある標高1080メートル、人口601の農村である。筆者は国際協力事業団の青年海外協力隊隊員としてホンジュラス共和国保健省疫学局に配属さ れ、1985年の5月より1987年の2月まで当地域における住民の医療行動の調査を行った。住民のほとんどはカトリック教徒であり、トウモロコシ、砂糖 きび、コーヒー、等の栽培および牧畜に従事している。収入の割合に応じて操作的に(1)富裕な自作農、(2)「貧しい」自作農、および(3)小作人ないし は使用人の経済階級に分けられるが、三者の間の階級の移動は(実際には殆ど起こらないが)自由である。人々の主食はトウモロコシ粉で作ったパンであるトル ティーヤと新大陸起源のインゲンマメ(フリホーレス)である。5月から11月までは雨期で12月から4月までは乾期、平均年間降水量は約1,800ミリ、 平均気温は約19.5度の山地性気候のため、同国の太平洋沿岸やカリブ海地方とは異なり比較的しのぎやすい[7]。
ホンジュラスの民族医療
サンティアゴのみにならずホンジュラスの農村における医療は、制度的医療と民間医療の二つに分類できる。制度的医療とは国家政策の一環と しての医療のことであり、その医療サービスの構造は中央集権的で体系的である。またその権力は首都の医療官僚の指揮のもとにある。民間医療とは、住民の生 活に根づいた独自のシステムであり、近代化の波の中で制度的医療の補完的機能を担っている。そしてその構造は分散的で、その知の形態は経験的なものであ る。住民は、基本的にはこの二つのサービスの並存状態の中で治療手段を選択していく。しかしながら、それらは単に与えられたものの中の選択にあるばかりで なく、二つの習合あるいは相互作用の結果、従来の制度的医療の視点からは決して把握されない”複雑な医療の状態”を形成しているのである。
制度的医療
制度的医療を実質的に運営しているのは中央政府である。保健省、国際協力団体、およびマスコミュニケーションが住民の参加や「意識」の向 上等をはかって医療サービスを担う主体は住民であると言う宣伝をしているにもかかわらず、ホンジュラスの他の地域と同様に、サンティアゴの人々も制度的医 療は施されるもの、あるいは与えられるものと固く信じている。そして医療計画を実質的に企画し実行していく保健省が国家の様々な医療サービスに言及する時 には、この国の制度的医療は、保健省から地方の末端の保健センターそして村落の共同体にまで広がって行くような中央集権的な構造になっていると説明される (注4)。すなわち地方の住民レベルで”准看護婦”(後述)が勤務する簡易保健所(CESAR:「田舎の保健センター」の意)や医師が駐在する保健所 (CESAMO:「医師のいる保健センター」の意)、衛生地区(後述)別の地区病院そして大都市や首都にある国立の専門の大病院があり、より国家レベルに 近づくにつれてより高度で統合された医療が受けられるのだと説明されている。また都市を中心にして労働者や公務員に対して社会保険病院等のサービスが提供 されている(注5)。医療スタッフの規模やその技術、および設備の程度から判断するとより上位のレベルに治療の困難な患者を送って行くような統合システム が存在するように思える。また現場の医療従事者は個々の患者について問題があれば、より上位の施設に送るように配慮はするが、それは患者へのサービスとい うよりも治療の選択としてより高次の医療施設へと「推薦」されるにすぎない。また実際に住民も低次より高次の施設に受療行動を拡大するのではなくて、自己 の判断に応じて制度的医療のグレードを選択していく。
ホンジュラスの行政区域には18の県(departamento)があり、全国の県には284の郡が含まれている。しかし保健省はそれとは 別に全国を7つの衛生地域(Region sanitaria)および首都特別区に分割して、その下に23の衛生地区(Area sanitaria)を定めている。とはいえ概ねひとつの衛生地域には平均して二ないしは三の県が包含されている。各衛生地域は各々の衛生事情に応じた保 健行政の裁量権が認められているが、基本的には中央政庁の統括下にある。従ってホンジュラスには地方自治体が独自に行う医療行政というものはなく、すべて 政府の保健省がそれを担当する。コパン県は隣接するレンピーラ県、オコテペケ県とともに第5衛生地区に属し、県庁所在地のサンタロサには200床の地区病 院と衛生地区の事務所がある。他の衛生地域と同様、衛生地区の下には更にセクター(sector)という最小の医療行政単位がある。つまり簡易保健所 (CESAR)のある地域が集まりひとつのセクターを成し、そのセクターは医師のいる保健所(CESAMO)で統轄される。この地域には49万5千の住民 に対して73のCESARと20のCESAMOがあるので(1986年現在)、5千3百の住民に対してひとつの保健所が設置されていることになる。 CESAMOには医師の他に大学出の専門看護婦(enfermera profecional)がおり、臨床検査技師、歯科医等が配備されることがある。幾つかのセクターは衛生地区という上位のレベルにまとめられ、専門の監 視官(医師)が付く。第5衛生地域では12のセクターと4つの地区を包含している。この様に衛生地域における制度的医療のヒエラルキー的構造は、より上位 のレベルの下位に対する監視指導というシステムを容易に機能させていると言えよう。しかし当然のことながら逆に下位のレベルで問題になっている事柄がより 上位のレベルにまで伝わらず、理想的な保健計画が形式的な実行に終ったり、計画の期日が大幅に延びたりする例が見受けられる。
大部分の農村部において地域医療の担い手となっている准看護婦は、全国に3ヶ所設置されている養成所で1年間の研修を受けた後、「社会奉 仕」(servicio social)と言う名目で1年間保健省の指定する機関で働いた後にその資格が授与される。この様なかたちの"准看護婦"(正確な名称は「看護助手」: auxiliador de enfermeria)の養成は地域保健の担い手になるには未だ不十分であると考えられているようである。従って保健省の企画する様々な地域保健プログラ ム実施の際には、各衛生地域のレベルで様々な講習(curso)という形の卒後教育が行われる。1985年には急性呼吸器感染症、結核、家族計画の3種の 講習が行われた。
以上がこの地域を含めたホンジュラスの制度的医療の概観であるが、一般の住民がこの制度について知る機会はほとんどない。住民と制度的医 療の接点は村落レベルでの医療関係者であり、これらの人達との具体的な交流を通して公的な医療のイメージが住民の中に形成される。今まで述べたように、従 来の保健計画では近代西洋医学的治療の窓口として2種類の保健所、CESARとCESAMOが設置されている。その他に保健省派遣の「農村の水道と衛生プ ロジェクト」(PRASAR)の普及員やマラリア対策の巡回員が農村を回っている。さらに保健省の指導のもとに住民から構成される医療奉仕者「健康の番 人」(guardian de salud)、「指導を受けた産婆」(partera adiestrada)、マラリア採血奉仕者(colaborador voluntario)、家族計画奉仕者等が共同体の中におり機能していることになっている。しかし実際は配置してあるのみで、うまく運営されていないの が現状である。保健省の地方事務所は常にそれらの役割の機能強化のプログラムを立案の必要に迫られるが、財政的、人資源的な問題によって苦慮しているのが 現状である。「指導を受けた産婆」は民間医療のセクターを制度的医療に取り入れるプライマリーヘルスケアの戦略に沿った試みである点でユニークである(注 6)。
通常住民が病気になったと感じかつ公的医療を求める時にはCESARやCESAMOを訪れる。調査した地域では特別な例外(准看護婦との 個人的なトラブルや感情的対立等)を除いてこの行動に異を唱える人はなく、保健所の制度は住民の間に定着したものとなっている。農村の人々の日常会話の中 にも健康や病気のテーマが多く現れ、これらが重要な日常の関心事のひとつになっていることは明らかである。
簡易保健所が通常に機能している場合、午前8時から12時までは外来患者の診療に充てられ、午後2時から5時までは予約していた患者への 診療や病人のいる家への訪問にその活動が充てられる。しかしそのプログラムはいろいろな事情で変動する。たとえば子供と妊婦のための予防接種計画のために 近隣の村に出張したり、准看護婦に対する研修などで簡易保健所が一時的に閉鎖されることがある。この場合准看護婦の人的補填はないので、それを予め知らさ れていない遠隔地に住む人々は、長い道のりを制度的医療を求めて簡易保健所にやって来ても、結局は空しく帰らざるを得ないことも稀ではない。患者は近隣の 村から簡易保健所のある所までは通常徒歩でやって来るが、重症の場合は(個人的にチャーターした)車か家畜、或は急ごしらえの担架で運ばれる。所用時間は 調査地においては1時間から1時間半程度であるが、新しい簡易保健所が設立される2年前までは3時間もかかる所も稀ではなかった。
人々が病気の治療を求めて保健所にやって来るのは明らかであるが、患者が医療従事者に期待する行動は注射や飲み薬で代表される医薬品の処 方である。簡易保健所は保健省の地域事務所から定期的に医薬品の供給を受けているが、調査者の滞在中にその供給が途絶えたことがたびたびあった。この時、 簡易保健所を訪れる人々は次第に減少し、最後には急患か、近隣の町の薬局で自分が判断したりあるいは他人に薦められて購入した注射薬を打って貰いに来る人 だけになった。後者の場合、民間の注射処方師(la gente que puede injectar)に打って貰うとお金がかかるが公的機関に勤める准看護婦ならば無料だからである。しかし医薬品が供給されると人々は「くちコミ」を通じ て再び簡易保健所を訪れるようになった。
民俗的医療
本稿のはじめに定義したように民族医学を全体論的に捉える立場から見れば、先に述べた制度的医療も民族医学を構成するひとつの環境にしか 過ぎないことが分かる。民族医学を構成する重要な要因は住民の医療的概念や信条体系であり、その中で一定の機能を果している民俗的医療である。民俗的医療 は制度的医療と異なり政治的な介入によって定着したものではなくて、その地域の住民固有の「土着」のシステムの一部である故に住民の「考え方」を知る上で 重要なものとなる。既に幾度も触れているがサンティアゴでも民俗的医療と制度的医療が共存している。住民は各々の医療を機会的に利用しているのではない。 各々の医療やそれに含まれる施術者(近代医学の医師、呪術師、産婆等)に対するイメージや役割期待が明確に区分されている。すなわち人々は病気の症状や状 態、あるいはその状態からそれにふさわしいと考える医療を選択する。
ホンジュラスの民俗治療師には次のようなものがあると言う。つまり、膏薬師または、呪術師(parcheros, curanderos)、民間マッサージ師(sobadores)、妖術師(brujos)、スピリチュアリスト(espirituistas)、注射の できる経験的看護婦及び薬剤師、産婆である[8]。しかしながら我々はこの類型に対する十分な議論なしには、それを受け入れるわけにはいかない。例えば、 ホンジュラスのラディーノ(つまりメスティーソ)社会において呪術師(curandero)という言葉は好んで使われない。人々が職能者として curandero を使う場合には、公的な会話では誹謗や中傷と言った負のイメージで、非公的な会話では「神秘的な治癒技術」[9]を褒めたたえると言うような、両義的な意 味が随伴してくる。どちらにしてもこの用語は他人あるいは社会からその役割に対して付けられるレッテルであることが多く、自称として使われることは極めて 稀である。従って、その呼び名の代わりに「賢者(interigente)」という言葉を住民が好んで使うことがよく理解されよう。妖術師(brujoま たは bruja)はサンティアゴ住民にとって災いをもたらす存在以外の何者でもなく、またその存在が社会の公の場に登場することがほとんど無いので本稿 では議論しない。ただし我々が統制できないような力を持つ妖術師や諸霊(espiritus)に対して病気平癒等を祈念するような行為は非公的に見られ る。スピリチュアリストは信仰治療による治癒を助けたり指導する人であるが、サンティアゴでは見られない。 以上のことを踏まえてサンティアゴ周辺で見ら れる民間療法師は大別して次の様に分けられることができる。すなわち、(1)呪術師(curandero)、(2)民間マッサージ師(sobador または sobadora)、(3)注射処方師、(4)産婆(partera または comadrona)、である。以下にその内容を述べる。なお、以上の如何なる民間療法者もそれを専業として生計を立てているわけではなく、病人ないしは その家族の要請によって機会的な雇われ仕事あるいは副業として行っている。
(1)呪術師
どの村でも必ず一人は薬草の知識を持った人がいる。彼ないしは彼女は伝統的な考え方に従って病気の診断と薬草の処方を等を行う。そのほと んどはマッサージを行うことができる産婆であることが多い。しかしそれは産婆という仕事のレパートリーの一つであり、自称他称を問わず「呪術師」と言われ ることは無い。従って共同体の中でマッサージを行わずまた産婆でも無い「呪術師」を見つけることは困難である。しかし占いや特別な宗教的祈祷文をもって治 病的な行為を行える人(これが本来の意味での curandero なのである)は産婆よりもかなり低い頻度で存在する。つまり長い距離を歩くか、バス等を利用してその人を訪問しなければならない。
(2)民間マッサージ師
産婆よりもより高い頻度で、またその技術が専門外の人々でも使えると言う点で一番専門性が低いのがこの療法師である。マッサージ師が呼ば れるのは、後述するエンパチョという「民俗的病い」の治療か、手足の捻挫等のリハビリテーションのためのどちらかである。特に前者は極めて一般的な治病の パターンを形成し、その考え方は中米に広範に分布している。両方のマッサージができる者なのか、その一方しかできない者なのかを共同体の人々は熟知してい る。
(3)注射処方師または経験的看護婦
市販の医薬品を取り扱ったり、患者が持参した注射薬を処方(多くは筋肉注射)する。相談に来る人は彼女達を治療者ではなく、薬を売ってく れたり注射のできる技術者として評価している。
(4)産婆(伝統的出産介助者)
民間療法師の中でも層が厚く専門性が高く、かつ伝統的な知識の担い手である点で重要である。彼女達は多くの場合、宗教的祈祷文を用いかつ マッサージ(特に子供のエンパチョのためのもの)ができる。他の多くのメソアメリカ社会と同様に共同体の成員から尊敬される地位にあるとも言えなくはない が[10]、専門職と認められていることは事実である。彼女達自身も「責任のある」天職として産婆の仕事をとらえている。彼女達の多くは保健省の一定の研 修を受けて登録されている、いわゆる「指導を受けた産婆」である。多くのインタビューを通して、自分達が産婆術の経験の獲得に何ら教育を受けたことがなく 自ら学んだのだと表明している。しかし、彼女達の生活史を調べてみると必ず親族の中に産婆や「呪術師」がいることから(図1)、産婆の人的補給は彼女の親 族から展開されていることを我々に教えている。
伝統的疾病概念
ホンジュラス各地で調査された「民俗的病い」を列挙すると表1のようになる[11][12][13][14]。この表に記入された各々の 病いの内容は細部に於て微妙な差異を持つが、基本的な「病いの像」は共通している。興味深いのはラディーノとは異なる民族集団であるアフリカおよび西イン ド諸島に起源をもつガリフナ族の人々の間にもempacho、 vista fuerte、 caida de mollera等の共通した病いを見い出せることである。これらの病いに対する考え方は広くメソアメリカに分布しており、ホンジュラスの民俗文化もその延 長上にあることを示唆している。サンティアゴにおいても各々の病いの説明の内容がインフォーマント(民族誌調査における情報提供者)によって微妙な差異が あるものの、表にあげた病いの語彙の中のほとんどを見い出した。
病いの個々の説明については機会を改めて言及し、本稿では代表的な四つの民俗的病い:エンパチョ(empacho)、caida de mollera(「落ちたひよめき」の意)、aire(「空気」を表す西語)、ojo (「目」を表す西語)について解説し、疾病概念という点から分析を試みたい。
(1)エンパチョ(empacho)
エンパチョは当地では最も代表的な民俗的病いのひとつである。消化不良とも訳されるそれは便秘、下痢、食欲不振などの広範な消化管症状を 伴う。人々はエンパチョの原因を(a)正しい食事時間を守らずに空腹を長い間辛抱したり、(b)象徴的に「熱い(caliente)」食べ物と「冷たい (frio)」食べ物を同時に食べたり(注7)、と言ったような食養生の不摂生から生じるものと考えている。しかしこの病気は日常生活を送る上で不可避的 に生じる問題であり、エンパチョになった人に道義的責任は問われない。エンパチョの治療にはほとんど常にマッサージと下剤の処方がセットになって行われ る。「エンパチョのためのマッサージ」を知っているマッサージ師によって、手足の末端から最終的には腹部に至るマッサージがおこなわれる。この病いを持つ 人には腕や足に「ブツブツ(chibolas)」があり、それを腹部の方に押し出すようにして、最後に下剤を処方するのである。下剤は以前は薬草が使われ たが現在では市販のマグネシウム剤等が用いられる。
(2)「落ちたひよめき」(caida de mollera)
文字通り子供の泉門(ひよめき、おどりこ)が頭の内側へ落ちることを意味する病いである。この病いは、親の不注意により子供の取扱が悪 く、外部よりショックを与えた時に突然泉門が内側へ落込み、その結果、発熱やおう吐などの症状を起こすと考えられているものである。治療はその子供を取り 上げた産婆(多くは子供の病気治療のエキスパートである)等が口蓋を頭頂の方へ押し戻したり、子供を逆さにしたり、泉門を直接口で吸ったりという、落ち込 んだ部分を元に戻すというプロセスが試みられる。
(3)aire
aireは「空気」のことをさす西語であるが、病いとしてこの語を使うときには「体の中にaireが入った(Se metio aire)」と言うにもかかわらず、人々は実際に空気が入っているとは考えない。aireは体の中に入って不調、特に痛みを起こす邪悪な実体であるが、人 格的な実体ではなく機会的に体の中に侵入する。また人々がこの病いを語る時、aire は自然に体の中に入り、人為的に入れられるものではないと考えている。我々が「神経痛」や「筋肉痛」として理解しているような痛みがそれに相当する。
(4)ojo
mal de ojo と呼ばれることもあるが、人類学者の間で「邪視」(evil eye)[15]と呼ばれているものに相当する。人々の中には本人の意志とはかかわりなく「強い視線(vista fuerte)」を持つ人がいて、その人に見られた子供や小動物のような弱い存在は何らかの不調や病いになるというものである。また妊娠すると「強い視 線」を持つようになるとも言われる。ホンジュラスのある地方では、「邪悪な空気(mal aire)」とよばれる病いがある。それは、汗をかいて山中を歩いた人が子供を見たり、子供に話しかけることによって、病気を引き起こすものと考えられて いる[16]。この事例では aire という言葉こそあれ概念的にはこの ojo に相当するものである。これらの考え方によると、人々の中に先天的および後天的に呪術力のある眼差しを持った人がいて、それが本人の意志とはかかわりなく 病いの原因となる危険性を含んでいるのである。ojo の治療法は呪術的な方法によるものが中心となる。しかしojo の疾病論において重要なのはその予防法であり、人々は「強い視線」を持っている人に対して子供に直接「祝福してもらう」(例えば、子供の額に十字を切って もらう)ように頼むか、強力な視線をはね返す赤い色の服や下着を着せるのである。
以上の四つの民俗的病いについて概説したが、今度はそれらを病因論の観点から分析してみよう。その為にここでは病気の形態と病気の原因とい う二つの視点から眺めてみる。
第一の視点である病気の形態という次元では、その病いが(a)生体内の調和の乱れなのか、(b)外来からの侵襲を受けているものか、の違 いに注目する。前者の考え方によると、病気でない健康的な体とはひとつの調和の取れた状態であるのに対して、何らかの原因でその平衡が乱されたことにより 異常を生じるのである。あるいは、「体の部分が外れる疾病論](the displaced-parts of the body etiology )[17]がそれに相当する。また後者は病気の原因を生体を脅かす外来のものに帰する、前者と同様に(西洋医学を含めて)通文化的に存在する疾病論であ る。そうすると(a)にはエンパチョや「落ちたひよめき」が、(b)にはaireとojoが分類されることが分かる。
第二の視点である病気の原因という次元では、具体的に原因とされるものを(i)人為的なものと、(ii)人間以外の自然的なものに分ける のである。この二分法はフォスター達のいうpersonalistic と naturalistic な病因論の区分[18]に相当する。そうすると、「強い視線」を持つ人に見つめられる時におこるojoや、親の過失によってその責任が問題になる「落ちた ひよめき」は人為的な原因となる。一方、(食事という人間の行為にもかかわらず)食事の種類とタイミングの異常によって引き起こされるエンパチョや、非人 格的存在の侵襲の結果起こるaireは(ii)の自然的原因に分類されよう。
つまり、これらの一群の病いは表2のように、(a),(b)および(i)(ii)で出来る2X2のマトリクスに布置できる。これをホン ジュラスの民俗医学的文献から得られた病いを四つの次元に振り分けてみると表3のようになる。そうして見ると病気の形態が外界からの侵襲によるものは人為 的、自然的を問わずたくさんの種類があり、平衡からの乱れによるものは比較的少ないと言うことである。これは原因を外在化する説明体系は、外界の因子が常 に多様であり説明しやすいのに対して、内因を考えるにはかなり洗練されたそれ自体の体系(例えば古代ギリシャの四体液説や中医学など)を必要とするからで あろう。しかしながら、このことと病気の出現頻度は無関係であり、サンティアゴで最も頻繁に見られる民俗的病いは内因を重視するエンパチョである。(「病 気」の反構造の一部は健康である故に)そこに見られる「健康の平衡モデル('equilibrium' model of health)」[19]はサンティアゴひいてはメソアメリカの文化における健康観を考える上でも非常に重要である。
「世俗化された」近代医学概念
伝統的医学の概念や施術の実際は近年著しく変容してきている。そして伝統的疾病概念の変容に最も影響を及ぼしているのは、制度的医療が導 入してきた西洋近代医学の概念である。医療がその専門の知識を独占して権力構造上の政治的および経済的優位を保とうとする側面[20]は開発国のみなら ず、ホンジュラスにおいても同様に存在する。しかしながらホンジュラスの農村地区においては西洋近代医学概念よりも先に述べた伝統的な医療概念のほうが優 位であり、制度的医療セクターは知識の独占よりも住民の側に彼らを必要とさせるような西洋近代医学概念の普及に努めている。勿論それだけの理由だけでな く、制度的医療の保健計画の円滑な実施、国民の医療費のコストの抑制、国際援助の機関や団体からの影響等の様々な思惑の中でその概念の普及が行われている のである。具体的には、(a)保健省の職員や同省派遣の普及員などの人間や、(b)公教育を受けている小学生達を通して、あるいは(c)普及員が配布する 絵入りのパンフレットやビラ、および(d)ラジオでの歌入りの宣伝や教養番組によって共同体の中に近代医療の概念が入ってくる。それにもかかわらず住民が 共有している「近代医学の概念」は制度的医療が考えているそれではなく、住民によって解釈され、(我々から見れば)変形された新しい文化複合的医療概念の 生成である。そして制度的医療からみると、それはまさに「世俗化された」近代医学概念なのである。観察者である筆者の眼から見ると住民達が共有している 「世俗化された」近代医学の概念は、近代医学と伝統的疾病概念が習合していると言うよりもむしろ、近代医学の用語や形該化した概念が伝統的疾病概念に取り 込まれていると言ったほうが正しいように思われる。その例としてエンパチョと下剤の処方をあげてみよう。
サンティアゴでは下剤が大変重宝されている。下剤の使用は、すでに伝統的疾病概念のところで述べた民族的病であるエンパチョ (empacho)に関係している。この地域のみならずメソアメリカ全域に分布している消化不良を伴う幅広い症状をもつエンパチョは研究者によって、「胃 が詰まる」[21]とか「ブロックされた消化」[22]とも説明されている。現地の民族学者や医師達はなんとかこの病いを近代医学的疾病概念で説明しよう とするが、時には正反対の病像があらわれることもあり成功には至ってない。しかしこれは個々のエンパチョの事例を検討すれば分かるように、人々はこの病い をレッテルづけ(診断)する時に一連の消化管症状という”病像”よりも”原因”に関心があるのである。多くの文化人類学的研究が指摘するように、ある我々 独自の概念カテゴリーを他の社会に当てはめて混乱をおこしている例をここでも見ることができる。さてエンパチョはどの住民に聞いても「医師には治せない病 気」で、先に述べたような特別なマッサージと下剤の処方というステレオタイプの治療がおこなわれる。現在保健省が問題にしているのは、脱水症状を伴う小児 の下痢に対して母親達がこの病のカテゴリーをあてはめ下剤を処方することである。保健省や国際援助団体は経口補水塩(sal de la rehidracion oral)の普及を通してこの問題に取り組んでいるが充分な成果はあがっていない。ホンジュラスの他の地域での調査によると、エンパチョになった場合(調 査事例の内の8割が)消化管が傷ついていると主張され、消化管を浄化し傷による汚れを避けるために治療が行われると言う[23]。それはエンパチョの治療 が身体の「汚れ」を完全にきれいにするという住民の医療的信条に則ったかたちで遂行されるからである。
世俗化した近代医学概念を促進する要素の中で制度的医療以上に大きな影響力を持つのが自己投薬行為(self-medication,西 語ではautomedicacion)である。この行動は「医療の監督の圏外で民間の人々によって行われる自己判断に基ずく投薬行為のことを指し、治療選 択や保健追求行動(health seeking behavior)のヴァリエーションの一つである」[7]。共同体内の小雑貨店(pulperiaまたはtrucha)ではおよそ27種類の医薬品が購 入でき、その内容はアセチルサリチル酸製剤を中心とする鎮痛解熱剤、マイナートランキライザー、坑マラリア剤、坑生物質やサルファ剤等である。サンチアゴ においては、医薬品の購入に関する情報の入手はラジオと住民の「くちコミ」によっており、自己投薬行為は住民に対してかなりの経済的医療負担を強いること が分かっている。そして民間療法と近代医薬品が併存する医療的多元論(medical pluralism)が、他の多くのラテンアメリカ諸国と同様、本調査地でも見られる[7]。
結論
筆者は、ある社会の「医療」について全体論的に記述する方法として人類学で用いられている民族誌的方法論を提起した。その試みとして中米 の一メスティーソ農村社会における事例をあげた。「医療」は国家から村落共同体、さらには個人に至るまで様々なレベルにおいて機能しており、それに対応す る住民の行動も多様である。またこの医療は貫徹した一つの論理が支配しているのではなく、様々な医療の概念とそれに基づく行動の原理が見られるのである (「医療的多元論」)。従来、ある地域の医療についての記述は制度的医療や疾病統計、およびその地域の(地理的、時には社会的な)環境条件の解説に留まっ ていた。しかし「医療」と言うものが先に述べたように極めて多様な実態であると分かった現在、民俗的医療や住民の伝統的疾病概念等についても把握すること が必要となってくるだろう。特に第三世界における全体論的な保健改革運動を考える際にはこの視点は不可欠なものになるであろう。また開発諸国においては医 療と無縁のものと考えられている宗教、疾病に関する住民の概念、身体観等の研究を通じて、我々の生活にかかわる”社会の中に埋め込まれた”「医療」と言う ものを再考することもできるのではないかと考える。
文献注
[1]Zola,I.K., 1972, Medicine as an institution of social control. Sociological Review 20:487-504 や Illich,Ivan, 1976, Medical Nemesis :The Exploriation of health, Pantheon.の論者の著作を参照のこと。
[2]医療人類学の概説は池田光穂、1981、医学史研究と医療人類学、医学史研究、55号、19-27。また「臨床的応用人類学」の名の もとに実践的な医療人類学を推進していく動向については、N.J.Chrisman と T.W.Maretzki編の同名のClinically Applied Anthropology,1982,D.Reidel Publishing Co.を参照。
[3]その代表格であるのがメキシコの国立インディヘナ研究所の前所長の Gonzalo Aguirre B.や R.レッドフィールドと一緒にユカタン半島の調査をしたAlfonso Villa R. である。
[4]インディヘニスモと言う原住民擁護と復権を目指した運動のなかでこの様な諸研究が発展した。落合一泰、「人類学」(「ラテンアメリカ を知る事典」p.215-216、1987、平凡社)はその事情を明解にまとめている。またラテンアメリカを調査地にした北米人類学者の中でグアテマラの 国民文化を論じたものに、R.N.Adams,1970,Crucifixion by Power: Esseys on Guatemalan National Social Structure,1944-1966,Chandlerがある。
[5]医療的多元論は現在までに多数の研究報告が蓄積されているが、その研究動向を推進させた一人にレスリーがいる。C. Leslie ed., 1987, Asian Medical System, University of California Pressを参照のこと。
[6]Scrimshaw,S, and E. Hurtado, 1984,Field guide for the study of health-seeking behavior at the household level , Food and Nutrition Bulletin,6(2),p.27-45.
[7]池田光穂、投稿中、自己投薬行為への医療人類学的アプローチ。
[8]Teller,C ,1972, Internal Migration, Socio-Economic Status and Health,Ph.Dissertation,Cornell University,p.52-53
[9]Adams,R.N.,1957,Cultural Surveys of Panama,Nicaragua,Guatemala, El Salvador honduras,Pan American Health Organization,p.603
[10]Cosminsky,S, 1977, El papel de la Comadrona en Mesoamerica, America Indigena,XXXVII(2),p.305-355
「11」Adams,R.N.,ibid.,
[12]Ortega, H, 1977, Estudios realizados sobre Manipuladores de Alimentos y Medicina Popular en la Ciudad de Nueva Ocotepeque, ホンジュラス 国立自治大学医学部学士論文
[13]Nazar,N,1984,Estudio de la Medicina Folklorica en el Municipio de San Nicolas,Santa Barbara,Memoria Primer Seminario sobre Medicina Tradicional,ホンジュラス 国立自治大学
[14]Cohen,M, 1984,The Ethnomedicine of the Garifuna(Black Caribs) of Rio Tinto,Anthropological Quaterley,57(1),p.16-27
[15]Maloney,C,1976,The Evil Eye,Columbia University Press によると邪視の概念はヨーロッパや北アフリカを中核として世界中に広がっている。
[16]Herrera,1984,p.52-54,[13]で紹介した論文集に収録
[17]Foster,G, and B.Anderson, 1978, Medical Anthroplogy, Alfred A. Knopf,p.75-76 [18]ibid,p.53-65
[19]ibid,p.74
[20]Freidson,E,1970,Professinal Donimance:The Social Structure of Medical Care,Atherton
[21]Foster and Anderson,op.cit.,p.76
[22]Young, J, 1981, Medical Choice in a Mexican Village, Rutgers University Press,p.62
[23]Kendall,C.et al.,1983,Anthropology,Communications,and Health, Human Organization,42(4)p.356
脚注
注1:メスティーソとはアメリカ原住民であったインディオと白人の征服者達の混血を意味する。しかしメスティーソ(中米ではラディーノと も呼ばれる)は「人種」ではなく、文化的なカテゴリーとして捉えた方が妥当である。ホンジュラスでは総人口の9割がメスティーソとされる。
注2:民族医学(ethnomedicine)と言う語は、もともと民族誌的関心からの未開社会の疾病論やその類型の分類についてであっ た。また、1960年代に交流したエスノサイエンス(ethnoscience)あるいは認識人類学の一分科に相当すると理解されることもある。最近で は、この語は非西洋の医学体系の総称のことのようにも定義される。この様に多元的な意味を持つ民族医学という言葉を敢えて「当該の社会を包括するすべての 医療体系」と定義したのは、ひとえに他に相当する語がないという消極的な事情ばかりであく、医療の文化的側面を強調したい為でもある。
注3: 例えば医療統計を見ても、各国政府および国際組織や国際的援助機関の諸統計が同じ年度でも互いに異なることが稀ではない。第三世 界諸国の公的な医療統計は開発諸国のそれに比べて厳密なものとは言いがたいが、全くのでたらめと言うわけではない。しかしながら、ここで著者が述べておき たいのは、(私を含めて)研究者達が統計的な検討を抜きにして第三世界における「感染症による高い幼児死亡率」等を列挙する時には、その世界の「悲惨な」 医療状況を読者に訴えるための「記号」として数値を挙げているのだということを銘記しておこう。
注4:制度的医療がこのような中央集権的構造を持っていると考えるのは保健省当局であり、保健計画の実施もこの体系に準拠して行われる。 しかし現実の保健行政における中央と末端の権力関係は図式的な簡単なものではない。これに関しては別の視点からの考察が必要である。
注5:保健省が管轄している社会保険(IHSS: Instituto Hondureno de Seguridad Social)の1984年の被保健者数は343,361(加入者数134,800)である。
注6:プライマリーケアに現地の民間医療セクターを組み込む構想はアルマ・アター宣言に既に見られるが、本文中で述べられているように制 度的医療と民間医療の概念は著しく異なるのでこの計画が容易に成功をおさめるとは考え難い。事実、保健所で働くのスタッフも産婆の制度的医療への直接の参 加ということを意識してはおらず、産婆の登録を通してその人数を把握したり共同体へのアクセスを確保する手段として考えているようである。
注7:ラテンアメリカに広く分布している考え方に、食物、薬草、病気、時には色などの属性に対して「熱い」ものと「冷たい」ものがあると
考えられている。これは実際にその温度がそうであると言うのではなく、ショウガは「熱い」がジャガイモは「冷たい」食べ物であるというように説明される。
本研究の調査地であるサンティアゴは他の地域に比べてその概念は比較的希薄であるが、エンパチョの説明の際には人々はそれを妥当なものとして受け入れてい
る。
池田光穂, Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1988-2099