か ならず読んでください

妖怪 ドゥエ ンデ

Duende (folklore)

いのちの民族学(10)

池田光穂


 怪談を語るにはすこし季節 外れかもしれないが、中央アメリカの農村に伝わる小妖怪について‥‥。


ドウェンデ(duende)とは、スペイン語で小悪魔、妖精、いたずら者の意味である。それより転 じたのであろうか、抗し難い魔力や魅力のことを意味することもある。この言葉のもともとは、家主や持ち主をことをいうドウエーニョ(due<o)に 由来するドウェン(duen)からきているという。だから、スペインでは、日本の民話や昔話にみられる「座敷わらし」のような、「家についている妖怪」の ようなものであったのだろうか。ドウェンデは男性形で、女性形はドウェンダ(duenda)である。

さて、中央アメリカのメスティーソ農民によると、座敷わらしのように家屋の一定の場所に現れるとい うような存在ではない。むしろ特定のある個人にまとわりつき、その人を悩ます存在とみなされている。しかしながら、ドウェンデは我々の眼には映らない。見 えないものを「あるかのごとく」表現できるのも奇妙だが、そのイメージもある。粗末な紙に印刷された「魔力に満ちたドウェンデへの祈りの言葉」という異端 的な呪文の表紙にみられる姿は、ネクタイを締め正装して巨大な帽子を被っている。

ドウェンデは人を悩ませる存在である。村の年老いたある女性は、子供とくに可愛い子供が生まれたら ドウェンデが連れ去るのだ、と聞かされて育ったという。 彼女は、この妖怪について私に語ってくれたとき、「実際にあった話」として具体的な土地名——大概は語られた当地ではなく近隣の村の名が出ることが多い ——を挙げながら次のようなことを語ってくれた。

山を越えた隣の集落にとても可愛い女の子が生まれた。ある時、子どもが寝ている枕をどけてみても、 その女の子の頭は寝床に落ちずに宙に浮いたようになっていた。ドウェンデの「見えざる手」が彼女の頭を寝床にぶつけないように支えていたのだった——どの ようにそれを確かめたのかは分からない。その意味では、ドウェンデは守護霊のように子どもを守ってくれるような存在かもしれない。しかしながら、ドウェン デの女の子への愛情は嫉妬深いものであった。

女の子が大きく成長してやがて年頃になった。農村では一年のうちにそのチャンスはなかなか巡ってこ ないが、守護聖人のお祭りの時などには楽師たちが音楽を奏で、村人たちがダンスに興ずる時がある。可愛いその彼女が村の男性の誘いに応じてダンスを踊った りすると、部屋の片隅にあった誰も触れていないギターが勝手に鳴ったという。ドウェンデは彼女と長い年月共にいて、彼女の恋人を自認しているという。だか ら、彼は村の男に嫉妬して奇怪な現象が起こったというわけである。

この程度であれば問題はない。もっと悲惨で重症な「症例」(?)を紹介しよう。今度は隣の大きな村 のその先にある小さな集落に住んでいる初老の男性に起こった話である——こちらも伝聞のかたちで語られた。

今を去ることおよそ14年前——この話を聞いた当時から遡る過去である——彼がまだ働き盛りの頃の 話だ。ずっと遠方にある○○(実在する山の名称)で働いていた男性は、山中でとても美しい女性と出会った。彼女は実はドウェンダ(女の妖怪)であったのだ が、その男性に恋をしてしまった。彼女は夜毎にその男性の寝床の現れて、男性の体を触っていたずらしていた——ちなみに村の人びとの常識からみると、夜中 に成人の男女が出会っているのにもかかわらず性交渉に至らないという状況はかなり奇異に思われる。

男性には恋人——むろん人間の!——がいたが、彼がそこに出向こうとすると、決まって道には茨のあ る植物が敷いてあって行けない。さらに彼は、自分がどんな仕事についているか思い出せないでいた——ふつう男は野外で農作業に従事するから、仕事以外の用 事でもない限り家にいることになる。ともにドウェンダの仕業である。だが、彼は彼女がドウェンダであることを知らなかった。

ドウェンダとのエロティックな夜を過ごして12日目の夜、それは彼女の訪問の最後の日であった。彼 女は男性に「私はドウェンダなの」とその正体を告げた。驚いたのは男性で、恐ろしさのあまり寝床から飛び起きて逃げた。ドウェンダは怒り狂いながら男性の あとを追いかけた。彼女は火炎を吹きながら、男性の体の右側に火を浴びせたという。男性の体の右側とは、ドウェンダとの最後の夜に彼女が添い寝していた側 である。男性の体の右側が冷たくなったのはその時である。

彼はそれ以来視力を失い、また身体の右側が麻痺してしまったという——人びとが体の部分が「麻痺」 したり「しびれ」たりするとき、その部分が「死ぬ(morir)」あるいは「眠る(dormir)」と表現する。

このような話を聞かされたとき、私は自分の知的な興味に赴くままにいろいろなことを確かめたくなる 誘惑に駆られた。なぜ、異邦人である私に人びとがそれを語ったのか?——むろん私がその種の話に興味をもち、彼らが話すのを手ぐすね引いて待っていたのも 事実だ。なぜそれらの「実話」が伝聞のかたちで語られたのか?、(すでに文中でコメントしたように)眼に見えない妖怪の手をどうして確かめたのか?、また ドウェンデやドウェンダはなぜ魅力のある異性の人間に興味をもつのか?、妖怪が人間に抱いた思慕と嫉妬、あるいはエロティックな感情や体験の代償とは何 か?——寓話が聞き手に教訓を与えるようにドウェンデ/ドウェンダの「彼らの言う実話」にもメッセージがあるのか?

あるいは、ぐっと臨床めいた話に引きつけて、ドウェンダに魅入られた男性の身体の偏麻痺は卒中の結 果なのだろうか?、彼が体験した「火を浴びた経験」はそのときのアウラのようなものだったのか?

ドウェンデは、決して身の毛のよだつ怪物では ない。それは奇譚めいた噂話の登場人物——登場妖 怪?!——にすぎない。そんなことを、人びとの話を書き溜めたフィールドノートを繰りながら思い起こした。彼らにとって取るに足らない(?)話に興味をも ち、次々と質問を浴びせかけた私も、実は彼らにとって十分に「妖怪」たる資格をもっていたのかも知れない。奇怪な話以上に、その話をあれこれと解釈し理由 づける営為もなかなか奇怪であると言うことが、この怪談のオチである。


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