和平合意後のグアテマラ
——政治暴力のゆくえ——
(日本ラテンアメリカ学会、2001年6月3日分科会D:「グアテマラ—和平合意後のゆくえ—」発表原稿)
「聞き手の語り手に対する素朴な関係は語ら
れたことを覚えておこうという関心によって支配されている、ということは、これまでほとんど顧みられることがなかった。無心な聞き手にとって重要な点は、
話を再現する可能性を確保することだ。記憶(ゲデヒトニス)こそ、他の何ものにもまして叙事的な能力である。すべてを包括する記憶によってのみ、叙事文学
は、一方では事物の成り行きをわがものとし、他方ではそれら事物の消滅、すなわち死の暴力と和解することができる」——ヴァルター・ベンヤミン「ニコライ・レスコフの作品についての考察」
本発表は、現代のグアテマラの人びとが内戦時代(1960-96年)の暴力をどのように語ってきたのか、ま た、具体的な諸相を帯びた暴力がどのような影響をもたらしたのか、について、1987年と1996年末の和平合意前後に私が得ることのできた民族誌的叙述 の紹介とそれに関する考察です。本発表で用いられた資料は、グアテマラ西部のウェウェテナンゴ県やトトニカパン県での現地調査のほかに、首都グアテマラ・ シティやサカテペケス県などさまざまなところで私が経験したものから得られたものです。
内戦時の暴力が、和平合意後のグアテマラの社会、とくに村落生活にもたらした影響は多岐にわたります。グア テマラ全土におよぶ、この悼むべき史実を明ら かにし、次世代に伝えてゆく公式記録の編纂もすすんでおり、「グアテマラ政府の歴史の真相究明委員会(CEH)」や、グアテマラ司教区の「歴史的記憶の回 復プロジェクト(REMHI)」が、膨大な証言記録とその原因と責任の所在の究明について報告出版しています。
今回報告は、それらの記録と重複しつつも、歴史の真相究明ならびに被害者と加害者の和解を通して、グアテマ ラの来るべく社会を建設しようと目論むこれら の報告書とは多少異なる立場をとります。それは人類学者が望んで止まない、現在の人びとの暮らしの中にぬぐい去ることのできない暴力の記憶に対して、人び とはどのように理解可能なかたちで受け止めているのか——これを馴化とよぶことができます——ということを明らかにすること、そして、そのような知識を受 け止める人類学者が今度は逆に人びととどのような主体的関与を取り結ぼうとするのかという関心ということです。
私は次の3つの具体例に即して紹介したいと思います。
まず、人びとのトラウマとその語りが生みだすものです。
1990年代後半とは異なり、1987年末当時は、公共の場でクチュマタン高原のある町においてさまざまな 政治的暴力、特に虐殺のことについて話すこと はタブーでした。しかし、その沈黙は、受けた苦しみを忘れるためのものだったとは決して思われません。むしろ、いつもどこかでグアテマラで起こっていた 「恐ろしいこと」の何かを伝えようとしていたのではないか。しかし、「恐ろしいこと」を伝えようとすることと同時に、それに耳を傾けることができる機会が いつも訪れるわけではありません。それはほとんど意図しない時に全く唐突に訪れます。今からおよそ10年前にキチェ県で仕事をしていた先住民(マム)の男 性——彼はサン・マルコス県出身——は次のように語ります。
1991年ごろ私が清涼飲料会社の調査員として、キチェ県で住民にアンケートをとっていた頃だ。いろいろな ところを回ったが、どこの町でも、町はずれに木製の十字架が立っている。その数は数えられないほどだ。ある日、その村の出身の若者と歩いている時、彼は十 字架の立っている墓場の横で立ち止まり、やがてうずくまって泣き始めた。私は、彼がなぜ泣いているのか最初はわからなかった。私は当惑して「どうして、君 は泣き始めたんだい」とたずねた。「俺がどうして悲しんでいるのか、お前("vos")は知りたいか?」と言って次のようなことを語りはじめんたんだ。 “ここから見える、あの場所(町の中心地)に、軍隊がやってきた時、俺はここにいた。軍隊は町にいた人たちに銃をタタタタタ……と撃った。人びとはみんな うずくまっていたが、結局全部殺された。その中に、俺の両親やおじさん、兄弟姉妹も皆いたんだ。皆殺されてしまった。それでとうとう俺は独りぼっちになっ たんだ”と。私はそれを聞きながら涙ぐまざるをえなかった、そうだろう? 本当に貰い泣きせずに聞けることなんてできだろうか。
あることを説明するために意図的に打ち明ける、あるいはたまたま「その話」が出て打ち明けてしまった。しか
し、打ち明け話は、いつも対話者が2人だけの時である。意図的に打ち明ける者は「君はもう知っていると思うけど・・」「もう他の連中から聞いたかな?」と
いう糸口を聞き手に与えます。何かの話の文脈で、結果的に打ち明けた人は、周りの状況をちゃんと把握してから、あるいは、声を潜めたり、トーンを変えたり
して、明らかに聞き手に注意を喚起するようにして話しました。打ち明け話は、話法における儀礼的な手続きを踏んで開示されます。
暴力について語る者と、それを聞こうとする者の間にはさまざまな障壁がありました。それはいわゆる「信頼関係」の有無というパラメータでは測れない別種
のものだったように思えます。私には、このような暴力の話を聞きたいという欲望がありました。それが覗き見趣味に由来するのか、「恐ろしいもの」をみたい
私の欲望に由来するのか、それとも他者に伝えるという社会的使命を成就したいのか、それ以外の理由によるのか、私も理解しかねる時があります。しかし、も
ちろん私の欲望のままにそれは成就されるわけではありません。
さらに、全く矛盾することですが、その欲望をもつことを抑制しようする気持ちもまた私にはあり、それらが同時に共存しています。苦しみを受けること(受
苦)に対して敬意を払うこと、だが何のための敬意なのでしょうか?、想い起させることで二重の苦しみを味あわせること、しかし果たしてそれらは同じ種類の
苦しみなのか? 「慎み」という快い響きの言葉がその感情をカモフラージュします。犠牲者に「語らせようとする意志」は、拷問にもとづいた尋問と同時にす
でに結果を予見しています。しかし「語らせようとする意思」が、暴力ではなく両者の合意に基づいているとするならば、それは語ってもらわなければ、決して
歴史は明らかにはならないという「説得する意志」にもなりえます。だが、このような意志を行使する権利はいったい誰が、そして、どのような時に持ち得るの
でしょうか?
仮にこの「説得する意志」を行使する権利が私には無いものとしても、なぜ相手は私に打ち明けてきたのでしょ うか? 相手の「語る意志」は満たされたので しょうか? ここでの問題は、打ち明け話や内緒話という、一種の信頼を担保とする話法には限界があることです。しかし不思議なことに打ち明け話は、一度な りとも対話者の間に共有されると、発話する者だけの言説に留まることをやめて、解釈の共同体における通貨のように、理解の尺度になり、流通してゆきます。 この作業を通して、打ち明け話は、対話者だけの財産から人間全体の共通の資産に形を変えてゆくのかもしれません。
他方で、打ち明け話がもつ、何かを他者に伝えたいという動機は依然として重要であると私は考えます。対話者 どうしの理解の共有をとおして、発話者と聴取 者のお互いの主体的関与を認めあうからです。そして、和平が達成されたと言われているグアテマラにおいて、未だに政治的暴力の歴史について語ることがはば かられる今こそ、また恐怖を再体験するという意味では永遠に、人びとの打ち明け話に耳を傾けることの意義はなくなりません。
ここで、グアテマラの人類学者と私との対話の中でおこった、打ち明け話の「伝染 (communication)」について私はここで実践したいと思いま す。
人類学者のミルナ(仮名)がマサテナンゴ市サマヤックにいるエスピリトゥイスタつまり交霊術者のところに出 かけたのは、1980年代の中ごろです。とい うのは、当時は「とても暴力的(muy violento)」な社会状況の中で、同じ職場の同僚で、当時26歳の秘書が「誘拐」されました。どうして「行方不明」ではなくて、「誘拐」と言えるの でしょうか、と私が質問すると、ちょうど彼女が失踪した時に目撃者がいて、数人の男が彼女を自動車に押し込め連行したと、ミルナは答えました。
秘書が誘拐されて彼女の家族は手をつくして探しましたが彼女はいっこうに戻ってきませんでした。ミルナは、
この失踪した秘書について手がかりを得るため
に、サマヤックにいる著名な女性の交霊術者のところを同僚とともに訪れました。ミルナは、探している秘書が「誘拐」されたということを隠して、この女性交
霊術者に相談しましたが、交霊術者はすぐに彼女が誘拐されていることを指摘しました。ミルナは、彼女に相談している間にエスピリトゥイスタが、憑依してい
ることに気づきました。交霊術者の声色が変わり、やがて<彼女>が呻きながら「お、お・・・私は痛い」と言い始めました。そして「皆さん、私を探すのはも
う止めてください・・・・私は、もう遠いところにいます・・私はもう休みにつきました・・・」と途切れ途切れに発話するようになったといいます。ミルナの
表現によると、彼女は、その時には「研究者でも人類学者でもなくミルナ自身その人」になって、涙を流しながら聞いていたといいます。
犠牲者の父親は、彼女の失踪後、軍隊の事務所にある調査申請記録簿に娘の名前を記載し、娘の写真を拡大しポスターにして、さまざまなところで彼女の消息
をいろいろなところに訊ねていましたが、とうとう娘の消息を知ることなく、死んでいったといいます。ミルナによると、彼は失踪した娘を探すことで、命を縮
めて死んでいったのです。ミルナは、犠牲者の父親には、このエスピリトゥイスタへの相談の内容を一切話はしませんでした。「話すことなどできるものです
か!」
これが、サマヤックにおけるミルナと交霊術者との出会いであり、彼女は、この種の話をたくさん知っているが、
1999年当時でもなお、グアテマラ人として公表することには、「恐怖」を覚えるといいます。だから、外国人である私が、この種の話を発掘して、より多く
の海外の人に伝えて、このような恐怖が、二度と起こらないように、知らしめてほしいと話終えました。その2年後の現在、私はレミーの報告書の翻訳書を使っ
てグアテマラでおきた暴力の現象を学生たちと一緒に考えています。
次に人びとが生きることに与える意味とその変容についてです。
なぜ自分たちの身の回りに政治的暴力が吹き荒れるのか? なぜ、我々はこれほどの苦しみを受けなければなら ないのか? という構成的当事者たちによる質 問。なぜ、彼/彼女らの身の回りに政治的暴力が吹き荒れたのか? なぜ、彼/彼女らはこれほどの苦しみを受けなければならないのか? という我々にとって の質問。
これらの答えは無数にあります。そして、すべての答えが、その生成にかんする因果論というものを含んでいま す。その現場に居合わせた者には、ほとんど理 解不能なもの(=暴力)が、その経験を語り、伝えていくという作業の中で、その理由すなわち因果論を付け加えていく。それは、単に身の回りにおこった事象 を説明し、納得するだけにとどまりません。その因果論にもとづいて、未来にむかってなんらかの投企(projet)をおこなうためでもあります。因果論を 語ることは生きるための実践そのものです。
ウェウェテナンゴ県のある町については1945-7年に調査されたマヤ系先住民の世界観について記載された マウド・オークスの古典的民族誌『トドス・サ ントスの2つの十字架』があります。彼女の著作の書名にみられる2つの十字架とは、ひとつはキリスト教の、そしてもうひとつはマヤの世界観を表象するもの であると説明されています。1987年および1998年の調査時において、この町ではプリンストン大学出版局から出たペーパーバックのリプリント版 (1969)を所有する人たちがおり、時にそれを取り出して、本にある写真を指さしながら解説してくれることもあります。
しかしながら、写真にある教会の正面の高い木製(マヤ)の十字架と低い白いセメント製(キリスト教)の2つ の十字架は、1960年代初頭には、メリノー ル修道会神父たちによって撤去されています。伝統的マヤの儀礼執行者(chman)は教会から追い出され、教会内にあった聖像は撤去され、そして教会の外 における聖地のひとつの遺跡において儀礼をおこなうことも禁止されました。このようなマヤ宗教に対する弾圧によって、マヤ儀礼は公共儀礼として性格を急速 に失い、わずかに守護聖人の祭りや信徒講社(cofradia)のための儀礼としてあるいは個人や家族単位の相談に応えるものへと変貌していきました。
この伝統宗教の軽視傾向は、グアテマラ全土ではじまったカトリック教会の刷新運動——アクション・カトリカ ——や、アメリカ合衆国由来のエバンヘリコと 呼ばれる福音主義のプロテスタント布教活動の台頭で、さらにその加速度が増していきました。この町で1970年初頭にはじまるカトリック教会の刷新運動で は、神父たちは在俗の教理教育者(catequista)を養成したり、土地不足に悩む農民たちにイシュカン地区への移民を薦めたり、保健普及員を養成し かつ簡易診療所を設置しました。また教会敷地内にバスケットボールコートをつくって若者の親睦とカトリック青年組織の養成に力を注ぎました。
さて、1981年初頭にはじまる紛争も82年3月23日頃を境として、この町にもたらされれた激しい暴力は 次第に変化——住民にとっては沈静化——して いきました。実際には国内難民化によってこの時期の町の人口は極度に少なく、未だ再び暴力が横溢するといった不安が解消されない暗い時期です。そのような 時期に、儀礼執行者たちのグループが1982年4月15日付で等身大の木製十字架を、教会の前と儀礼の聖地である遺跡にひとつづつ設置しました。このお互 いに離れた2つの十字架を設置した彼らの動機とは次のようなことでした。この町に空前絶後の暴力が降り注いだのは、かつてあった2つの十字架が当時から数 えて20年前に撤去され、昔からつづいてきた「父なる祖先」と「四つの山の峰の神々」が、この町の人たちに天罰を下したからである。したがって「二度とこ のような暴力がおこらないように」と2つの十字架をそれぞれ教会の前と遺跡の聖地に再び敷設したといいます。
このような努力にも関わらず、マヤの儀礼は以前のような公共性を取り戻すことはできませんでした。すでに 1982年、エバンヘリコの別の宗派が、以前よ りもより攻撃的な布教をはじめていました。その翌年の守護聖人の祭りの時期に、カトリック教徒の人たちが宗教行列をしていた時に、それを非難したエバンヘ リコの在俗説教師(predicador)と諍いになり、彼をリンチにかけ重傷を負わすという事件もおこっていました。ところが、まったく複雑なことに、 このリンチ事件の被害者はカトリック神父たちが1970年代初頭に起こしたイシュカン地区への開拓移民に参加し、76年にエバンヘリコに改宗しました。彼 は1982年にイシュカンで激しさを増した虐殺を逃れてメキシコ領内を3ヶ月間ジャングルの中——本人の弁によると「難民キャンプはまだなかったのだ」 ——を彷徨ったあげく、夢見による啓示を受け説教師として、この町に布教する使命をもって同じ年に帰還したばかりだったのです。
内戦によって撤退したメリノール派の神父が去った後、1980年代を通して教勢を保っていたカトリックも 90年代に入ると急速に影響力が衰退し、エバン ヘリコが共同体内で一定の地歩を築くようになりました。この時点でマヤの伝統的儀礼とは、実質的に個人的呪術としか見なされなくなっていました。しかしな がら、全国レベルでのマヤ運動の展開、とくに西部高地中央でのマヤ司祭による儀礼復権運動が進むにつれて、儀礼執行者の共同体における公共的性格を復活さ せようとする動きが出てきました。1997年当時、今は亡き高齢かつ著名な儀礼執行者にかわって、最強の呪術をもつと信じられて尊敬を集めていた中年の儀 礼執行者がいました。彼は、98年初頭に町の人びとに対して教会の前に新たな十字架をつくろうと提案し、それまでばらばらに活動をしていた儀礼執行者を組 織して、町の人びとから寄付金を募る運動を開始しました。同年7月には、それまであった82年製の十字架を取り去り、2つの十字架——それらは以前とは 違ってひとつは巨大で他のひとつは腰の丈ほどのもので互いにぴったりと密着しています——が新たに建てられました。ところが、十字架がある教会前の広場 は、すでに毎土曜ごとの定期市の際のトラックやバスの駐車場と化し、家畜を繋いだり、時には男たちが小便をかけるというありさまでした。とうとう十字架に は小さな注意書き「この十字架を汚すものには罰金が科せられる」が貼られる始末です。そして現在では中年の儀礼執行者もまた、もはやこの世にはいません。 人びとの説明では、呪術力ゆえ人びとがあまりにも彼に儀礼をたくさん依頼するので、そのための飲酒による中毒——儀礼では供犠のために蒸留酒を大量に消費 する——で死んだという。
ところが、全国レベルでのマヤ文化運動の影響を受けて、地下活動化していた儀礼は、現在では、むしろマヤ人 の正当な文化活動であるという評価を受けて、 儀礼は再び公然と行われるようになりました。もっとも、誰がマヤ司祭の代表であるかということが、村落での論争のテーマになるという副産物を伴ってです。
最後に、人びとの政治生活の保守化を説明するということについてです。
36年間におよぶ内戦が終わり4年が過ぎてもグアテマラに暴力はなくならない。これは紋切り型の表現だが真 実です。1998年4月のファン・ヘラルディ 司教の暗殺をはじめ、労働運動や人権擁護運動の関係者への度重なる脅迫や殺害。99年5月の国民投票における先住民族権利を憲法改正に盛り込む案の否決、 そして2000年1月右派のFRG(グアテマラ共和戦線)のアルフォンソ・ポルティジョ大統領とリオス・モント将軍の国会議長就任。グアテマラの政治につ いて国内外の人権擁護派を自認する者には「憂慮すべき事態」はいっこうに変わっていません。伝え聞くところによると、京都外国語大学当局者はまったく恥ず べきことにポルティジョ大統領に名誉博士号を贈ったということです。これがグアテマラにおける現政権がかかえる問題性を知った上での判断であれば、それは 悪い冗談であり、アルフォンソには笑って学位記を屑籠に放り込んでもらわねばなりません。そして人権派にとっての精神的ストレスの原因は、このような異常 事態が続く社会的理由が「分からない」あるいは「分かりにくくされている」ということです。他方、西部高地での先住民族を中心とする人びとと話せば、その 「憂慮すべき事態」の指示内容は変わります。貧富の差の増大、物価の高騰、犯罪とくに強盗、誘拐、殺人の増加がそれであり、人びとの不満はこれらの原因で ある「悪者たち」を取り締まり厳罰をくだせない政府の「無責任さ」にぶつけられます。
1999年の大統領選挙キャンペーンでは、グアテマラの主要なメディアは右派政党FRGと、それまでの中道 右派で政権政党だったPAN(国民行動党)と はほとんど互角だと報道していました。また実際に、その年の暮れにあった最初の投票では双方の候補者は過半数に足らず、決戦再投票の際には投票率の低さも あったがFRG候補のポルティジョが圧勝し、FRGは初めての政権与党になりました。
私はグアテマラの3つの先住民地域でさまざまな人に選挙のことを聞きましたが、FRG支持者以外の人を含め て、すべての人がFRGの勝利を予測していま した。その理由は、異口同音に「FRGはリオス・モント将軍の党」であり「グアテマラは強い政府を求めている」というものです。そこにはPANが進めてき た地方分権や公共機関の民営化への非難が込められていました。それに反射的におこなう私の次の質問も紋切り型のものです。つまり「どうしてたくさんのイン ディヘナを殺した将軍をインディヘナ自身が支持するのか?」。ところが、今度は人びとの返答は多様です。ある者は「わからない」と言うか沈黙する、ある者 は「我々のところではそうでは(=将軍の軍隊が虐殺し)なかった」「軍部が先住民を洗脳しているから」「彼はグアテマラのために実際によく働いている」 「他に誰がいる?」等々、と返答しました。
クチュマタン高原の西側の狭隘な谷間の町に地元のNPOの語学学校(PLEM)があります。受講者はマヤ諸 語のひとつであるマム語とスペイン語のバイリ ンガルの先住民家族の家に下宿し学校ではスペイン語を学びます。先住民族の生活にも親しめるという普通では味わえない民族観光もできる利点があり、そのた めに人気を博してきた学校です。1997年には、この学校で働いていた講師が独立して別のNPOの学校(EENA)を創設し、同様の教育をおこなっていま す。この町の住民もまた虐殺の経験をもつために、スペイン語の課外授業として「この町の歴史と文化を学ぶ」カンファレンスが夜間に行われます。老若男女の 外国人受講生のうち、一般的傾向ですが、中高年でかつ北米から来た人たちは、グアテマラにおける先住民への虐殺の歴史的事実についてある程度知っており、 このカンファレンスの討議に積極的に参加します。このカンファレンスに受講しつつもコーディネーターのボランティアをしていた私も含めてこれらの人たちは 人権擁護派であることを自他共に許す存在です。1999年当時もっとも沸騰した話題は、「人民の味方であるはずのゲリラがなぜこの町で暗殺行為に加わるこ とが多かったのか?」という歴史的な事情(池田 1998)と、「どうして人びとはFRGを支持するのか?」という臍を噛むような難問でした。
私は自分が知るかぎりの情報を動員してこの難問について解釈します——もちろん私にも全体像は分かりませ ん。いくら説明をしても、彼らには合点がいかな かったようです。それは、結局のところ、その事態について納得がいくような説明を与えても、人権派にとって快く思わない状態(=不満)は解消されないとい うことでした。このような解消されない不満は、不幸なことに、一般住民へのルサンチマンとなります。例えば、この学校で以前、講義に参加したことのある受 講生からは、「現在の講師はちょっと右傾化したのではないか」という非難や、「ゲリラが殺人を犯した」ことを軍部による完全な謀略としたり、単に「ゲリラ が悪いことがするとは信じられない」という反応を示す人もいました。これは内戦中において軍隊が反ゲリラキャンペーンとして盛んに<彼らは破壊者 (subversivos)の野獣である>というプロパガンダを繰り返していましたが、私には人権派のルサンチマンは、軍隊の反ゲリラキャンペーンの「歪 んだ鏡像」として映ります。
このようなルサンチマンは人権派観光客たちのものであると同時に私自身のものでもあったので、私はさらにこ の問題を解くことに執着していました。そして 当時のFRGの選挙運動キャンペーン当事者や、「恐ろしさに抗して」FRGの国会議員候補に面談したり集会に参加しました——私は1980年代初頭の当時 の将軍の軍隊の残虐性と98年当時の党派イデオロギーを同一視するという錯認をしていました。しかし、ラディノ(あるいはクリオージョ)の候補者が先住民 に対して親切に発話する行為を見れば、それは人種主義のカモフラージュとして見え、「ひとつの国民になる」という主張を聞けば、それは「国民統合を妨げ る」先住民運動への非難として聞こえ、「強い国」というフレーズは全体主義的な軍国国家と、それこそ偏執的に聞いてしまうのです。
町でのFRGの大統領選挙キャンペーンの幹事を務める友人に、それこそ2人きりになった時、「私は信頼する 君がFRGを支持する理由が依然としてわから ないのだが」と、それこそ勇気を出して聞いてみました。彼の口から出たのは意外な、そしてアイロニーに満ちた次のような趣旨の内容の言葉でした。彼は毒づ くほどではないにせよ、私にたいして、どうしてそんなことがわからないのかといった口ぶりでした。
君は現在の状況をよく理解しなければならない。私はリオス・モントがこの国で何をしてきたのか、よく知って いるつもりだ。しかしFRGは現在全国を支配しようとしてきている(=大統領選挙に勝利しようとしている)。この町でFRGが勝利すれば(=同じ党派の町 長が当選すれば)、同盟関係ゆえに中央政府からの援助を期待することができる。長い間「インディオ(蔑称)」と呼ばれ抑圧されてきた我らの町に、実際に利 益を誘導するため、戦略的にFRGを支持することが、なぜそれほど悪いのか? 君も知っているように、リゴベルタ・メンチュは先住民の苦境を訴えるため に、支配者の言語たるスペイン語を学んだ。我々も同じようにしているのさ。
翌年、彼の予言通りFRG派の町長が誕生し、現在に至っています。
以上のことから、私たちは、過度の一般化に陥らずに、どのようなことを教訓として学ぶことができるでしょう か? それはトラウマの深さに対する「語り」の浅さです。つまり語りの少なさと、議論の平板さです。これは、真相究明活動における語りの少なさのことでは ありません。苦悩の語りが、多様性を失い、極めて紋切り型に整理されつつあり、それについての人びとの感性の馴化がおこりつつあります。「トラウマの語 り」をふくめた人びとの語りの多様さと個々の語りの重要性に焦点をあてた継承活動を新たにおこす必要があると思います。この方法はグアテマラの保守化を危 惧するリベラルな人たちの、紋切り型のルサンチマンに陥ることを回避させるひとつの方法であり、グアテマラの為政者たちに内政干渉の口実をもたせないスタ イルであり、グアテマラの人びとの生活に関与してゆく、すべての局外者の戦術であるように思われます。このような方法は、本日の他のパネリストの皆さんか らも提案されることでしょう。私の発表は以上です。
和平合意後のグアテマラ
——政治暴力のゆくえ——
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