臨床コミュニケーションと国際ボランティア
■臨床コミュニケーションと国際ボランティア01
私は大学院生向けの高度教養教育をおこなっている機関でコミュニケーションデザイン科目のいくつかを担当している。その一連の科目の中に「臨 床コミュニケーション」関連科目という対話型の授業があり、私はそれらの授業を担当するだけでなく、担当教員間の連携業務(コーディネイト)もおこなって いる。ここでいう臨床コミュニケーションとは、狭い意味での治療現場(クリニック)のことではない。具体的な成果を求めるために、対人関係を基調として相 互交渉をおこなう人間の活動領域を、臨床コミュケーションと定義している。この観点に立てば「国際ボランティアの活動現場」は具体的な成果をもとめるため の対人関係という相互交渉がおこる場であり、ここで定義した臨床コミュニケーションの現場としてじゅうぶんに当てはまる。
私の専門は文化人類学とりわけ医療人類学という分野で、中央アメリカ先住民や混血のメスティソ(ラディノ)社会の調査研究に長く従事してきた が、この研究を始めるきっかけになったのが、私じしんの国際ボランティア活動であった。文化人類学調査は、長い時間をかけて異郷に住み込み、その土地の言 語を話しながら、観察と対話を続けてゆくという息の長い仕事である。文化人類学者になるということは、好むと好まざるとに関わらず異文化間コミュニケー ションの専門家になるということなのだ。もし文化人類学者に社会に切り込む視点というものがあるとすれば、国際ボランティアの視点も類似なものであるとい うのが私の偽らざる主張である。
私のねらいは、国際ボランティアの活動のなかに、大学の学部や大学院で勉強することと変わらない活動があり、この「学ぶ」という意味について 考えてみることである。国際ボランティアになろうとしている人、現在活躍中の人、さらには活動が終わっている人たちに向けて、私が大学や大学院に(再)入 学することを勧誘しているのではないかと読者は思われるかもしれない。だが私の真意はそこにはない。国際ボランティアになる前、その最中、そして活動を終 了して自分の故郷ないしは新天地で新しい生活を始めたすべての人間の活動のなかに通底する「学び」の経験があり、その活動が永続するものであることを示し たい。
このような着想は少し大げさで根拠のないような主張に思われるかもしれない。国際ボランティアの経験をもった方は、開発途上地域において技能 や知識を双方向で伝達しあうためには、それに先だって現地の人との信頼関係や濃密さをもったコミュニケーションの確立が不可欠であることについてじゅうぶ ん同意してくれるだろう。したがって私が「具体的な成果を求めるために、対人関係を基調としてさまざまな相互交流をおこなう人間の活動領域」と定義した時 に、国際ボランティアの仕事はそれ(=臨床コミュニケーション)にほかならないという主張には妥当性があるはずだ。
このため本章では、国際ボランティアは現地でのコミュケーション能力を陶冶(ルビ:とうや)――学習環境と自らの努力により自己を円熟させて ゆく行為――する過程にあり、ボランティアの帰国後にも、その活動の真価が試されるものであると私は主張する。また国際ボランティアを送り出した社会(本 書では日本)に戻ってから、いかなる環境におかれようとも、現地社会で学んだことが、今度は場所を変えて学び続けられていると見る。学びの幅を広げ、自分 の専門や気づきをさらに深化させるためには、帰国後の大学や大学院は、ボランティアのその後の人生や生き方に決定的な意味をもたらすことも附言しておきた い。私は、他から借りた成人教育学(アンドラゴジー)などの理論の助けを借りずに、自分の経験の自己反省と再解釈からこのことについて「論証」を試みた い。
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