フーコー『知への意志』ノート
La volonté de
savoir
Anne Frank 1929-1945, La volonté de l'écriture.
池田光穂
「権力の知への不断の連
接、知の権力への不断の連接が存在するのであり……権力はしかじかの発見を必要とする、しかじかの知の形を必要とする、といって満足していてはならないの
であって、権力を行使することは、知の対象を創造し、これを浮きあがらせ、情報を集積し、これを利用する、といわねばならないのです」(ミッシェル・フー
コー 1975)。
パッキウスは「お願いだ、忠告が必要だ、 一刻も早く忠告が必要だ」と書いてきたようなのですが、それに対してプルタルコスはこう答えます。私は 絶望的に忙しいので、完全な論を君のために書いている時間はない。だから僕のヒュポムネーマタ[覚書]から無秩序にお送りしよう。つまり爽快な気分 (Peri euthummias)について書いた覚え書きを君に送ろう、と。……いずれにせよ読 むこと、書くこと、自分のために覚え書きをつけること、文通、著作 送付といった一連の実践の実践が、自己への配慮というきわめて重要な活動を構成していることがおわかりでしょう[ミッシェル・フーコー 1982年3月3日 講義,廣瀬・原 訳:410]。
章立 1.我らヴィクトリア朝の人間2.抑圧の言説 2.1 言説の煽動 2.2 倒錯の確立 3.性の科学 4.性的欲望の装置 4.1 目的 4.2 方法 4.3 領域 4.4 時代区分 5.死に対する権利と生に対する権利 |
解説 1.我らヴィクトリア朝の人間 性の抑圧言説(近代の〜)への疑義 「抑圧の仮説」に対する3つの疑い(pp.18-) 疑いを差し挟む目的は誤っていることを示すのではなく、17世紀以来の近代社会の性についての仮説を、言説全体のエコノミーの 中に置き直す ことである(p.19) 「権力の多形的技術」p.20 16世紀以降、性の言説は、抑圧どころか、増大する煽動のメカニズムに従属する(p.21) 2.抑圧の言説 2.1 言説の煽動 17世紀=性についての言説の増大(p.26) 2.2 倒錯の確立 18,19世紀=一夫一婦制の異性愛、少年期/狂人/犯罪人の性行動 禁止とは異なる権力の4つの操作(pp.53-) 周辺的性現象への追求や介入、倒錯がもたらす意味の社会的産出、告白を通しての言説の交換、夫婦の性=性的飽和の装置 「権力の拡大による性的欲望の増殖であり、これらの特定領域の性的欲望の一つ一つが介入の表面を提出している権力というも のの増加であ る」(p.62) 3.性の科学 これまでのまとめ:性言説の減少ではなく増大、散乱ではなく定着化を通して性的アノマリーを確実なものにする。 「道徳律の命令に従属した科学」(p.70) 公衆衛生:社会構成体の「肉体的壮健と精神的清潔を保証する使命」を担い「欠陥の持ち主、変質者、堕落した住民を除去すること を約束」する (p.71)。 性現象を見たり、聞いたりすることの拒否:性科学の徹底化? アルス・エロチカ(=性愛術)とスキエンチア・セクスアリス(=性科学):pp.74- “西洋の文明はアルス・エロチカを所有しておらず、そのかわりにスキエンチア・セクスアリスを実践する唯一の文明である” (→p.75) ただし、アルス・エロチカが完全に消失したわけではない(p.92) これが、独自の知=権力の行使形態にほかならない(と、 い うのか?)し、<告白=告解=自白>の様式と深く関連するものである。 (pp.75-6) 1215年 ラティーノ公会議:悔悛の秘蹟の規則化 「他者によってある人間に与えられる、身分、本性価値の保証としての「告白」——たとえば告解——から、ある人間による、 自分自身の行 為と思考の認知としての「告白」——自白——へと移った」(p.76) 「真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきた」(p.76)。 性の科学と<告白>との結びつきは、どのように説明されるのか?? 「権力について全く転倒したイメージを抱かない限りは、我々の文明においてあれほど久しい以前から、自分が何者であるの か、自分が何を したのか、自分が何を覚えているのか、何を忘れたのか、隠しているもの、隠れているもの、考えの及ばないもの、考えなかったと考えるもの、こういうすべて が何かを語れという途方もない要請を執拗に繰り返すあれらすべての声が、我々に自由を語っているなどとは考えられないはずだ」(p.79)。 主体化のプロセス:人間の二重の産出行為——主体=服従体を形成し、資本蓄積を可能にするもの。 性〜告白〜主体化:<権力>の生産(pp.79-) 「告白は、性に関する真理の言説の産出を律している最も広く適用される母型であったし、現在でもそれは変わらない」 (p.82) 「告白とは、語る主体と語られる文の主語が合致する言説の儀式である」(p.80)。 19世紀の「性をめぐっての知の意志が、告白の儀式的規則を科学的規則性の図式のなかで機能させたその手法」を時間的に位 置づける と・・・ (1)語らせることの臨床医学的コード化によって(p.85) (2)すべてに適応可能で、拡散した因果関係を公準として立てることによって (3)性現象には本質的に潜在性といものが内在するという原理によって(p.86) (4)解釈という方法によって(p.87) (5)告白の効果を医学的レベルに組み込むことによって(p.88) 4.性的欲望の装置 「我々の社会は、その数ある紋章の中に、語る性器(=sexe)という紋章をもっている」(p.101) ディドロ『口軽な宝石』から論をはじめることの意味について、要チェック!! 我々に対する知の請願、それも二重の請願:(1)我々は性=性器がどのようになっているか調べることを強いられる。(2)性= 性器のほうか ら、我々がどのようになっているかを知っているはずだと疑念をもたれている。(→これは私にとっては、異文化の隠喩だな?) 4.1 目的 権力の「分析学」(p.107) フーコーは「権力のある種の表象」である「法律的=言説的」権力表象から自由になることを前提にして、分析学が成立す るという (p.108)。 (a)抑圧というテーマ系と(b)欲望を成立させる法、と2つながらに統率する。(p.108) これまでの、問題のある権力表象[理解]の一覧、つまり抑圧権力のイメージのリスト、ということになるか? (1)否定的な関係(p.108) (2)規律の決定機関(p.109) (3)禁忌のサイクル(p.109) (4)検閲の論理 (5)装置の統一性(p.110) これに代替する権力観:「生産的効力、戦術的資力、積極的はたらき」(p.112) 古典的権力が存在する歴史的理由(pp.113-) pax et justitia 権力表象がシステムの内部にとらわれたままでいる2つの事例 I )18世紀、王政制度への批判:「権力は常に法律的権利の形において行使されるものだという原理」そのものが問題にはされなかった(pp.114-5) II)19世紀のマルクス主義による批判:「現実の権力は法律的権利の規則には縛られない」し、法律的権力にもとづく 体制が暴力を 行使することを明らかにした。しかし「法律的権利に対するこの批判もまだ、権力は本質的かつ理念的には、根本的な法律的権利に従って行使されるべきである 公準」をいまだ持っている点で限界があるという(p.115)。 抑圧的権力のモデル=法律的王政(pp.115-6) 生産的権力モデルは、権力表象の超歴史的モデルではない。つまり、みんなは生産的権力について知らなかった訳ではない。生 産的権力が、 ある歴史的編成体の中で登場するのである。だから、フーコーは次のように宣言する。 「我々はすでに数世紀以来、法律的なものが権力をコード化し、権力にとって表象の体系となることがいよいよ少なくなる ような型の社 会に突入しているのである」(p.116)。 つまり、新しい権力のモードである「生産的権力」が社会の編成にとって不可欠なものとして、すでにあるというのだ。 権力と欲望の関係について(これ重要!) 「欲望がどういうものであれ、いずれにせよ人は相変わらず欲望というものを、常に法律的で言説的な権力との関係で、つ まり法の言表 作用のなかに中心点を見いだすような権力との関係で考えるのだ。人は<法である権力>、<主権である権力>という一つのイメージに相変わらず固執している のだが、そのようなイメージは法律的権利の理論化と王制度が描き出していたものだ。……権力の分析をその技法の具体的かつ歴史的な働き=ゲームの中で行お うとするなら、それは是非とも(このようなイメージから脱却することが——引用者)必要である。もはや法律的権利をモデルともコードとも見なさないような 権力の分析学を打ち立てねばならないのだ」(p.117)。 解法へのヒント:法的規制という観点なしで性を考える、王政制度というモデルを忘却して権力を考える(p.118)。 4.2 方法 「問題は性についてのある種の知の形成を、抑圧や法という関係においてではなく、権力の関係において分析することである」 (p.119) 権力とは、「無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなもの」 であり「絶え ざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲーム」なのである(p.119)。 権力の遍在論:権力が遍在するのは、それ自体が特権的な統一体であるからではなく、「あらゆる瞬間に、あらゆる地点 で、というかむ しろ、一つの点から他の地点への関係のあるところならどこにでも発生するからである」(p.120)。 う〜ん、方法というよりも、生産的権力のイメージをフーコーは語るのだ(pp.121)。 ——ダイナミックで無数のゲーム ——内在する相互作用の結果、直接に働く力 ——下からくるもの ——意図的であると同時に非−主観的、計算しつくされている ——抵抗の存在:「権力のあるところには抵抗がある」(p.123):抵抗については記述を重ねる(pp.123- 4) 性的欲望(〜性と権力のシステム?)の4つの規則(pp.126-) 1.内在性の規則 2.不断の変化という規則 3.二重の条件づけという規則(pp.128-) 4.言説の戦術的多義性という規則 性のアノマリー/倒錯についての、権力論的布置(pp.131-) 戦略目標 > 法の特権視 戦術的有効性 > 禁忌の特権視 力関係の多様かつ流動的な場の分析 > 主権の特権視 つまり、「総体的ではあるが決して全的に安定したものとはならない支配の作用が生み出されるような……力関係の場の分 析」 (p.132)が求められる。 4.3 領域 普遍で唯一かつ総括的な戦略というものはない。 18世紀以降の「性についての知と権力の特殊な装置を発展させた四つの重大な戦略的集合」を区分する。 I ) 女の身体のヒステリー化 II ) 子供の性の教育化 III) 生殖行為の社会的管理化(p.135) IV) 倒錯的快楽の精神医学への組み込み 性的欲望の産出(p.136) 「西洋近代社会は、特に18世紀以降、この婚姻の装置に重なりつつ、それを排除することなしにその重要さを削減するの に貢献するこ ととなる一つの新しい装置を発明した。それが性的欲望の装置である」(p.136)。 家族〜婚姻〜性的欲望システムにおけるシャルコーの存在(pp.143-) 19世紀に展開する「あの四つのおおきな戦略」(p.145)、そしてすべての戦略は家族を通して成立する。 I ) 女のヒステリー化 II ) 人口調整 III) <性的欲望への組み込み> IV) 性的倒錯者の特殊区分の確立 労働力を構成する必要性、後期資本主義 4.4 時代区分 1.技術の淵源:キリスト教の告解の実践:ラティーノ公会議から、18世紀末の断絶、新しい<性のテクノロジー>が教育/ 医学/経済を 媒介にして登場。 2.<性のテクノロジー>の普及と適用の歴史:(pp.153−) ・ ・(展開が散漫でみえてこない) ・ 5.死に対する権利と生に対する権力 かつての君主の至上権:生殺与奪 17世紀以降の2つの権力形態(pp.176-):ビオ・プヴォワールの時代の到来 1)人間の身体のアナトモ・ポリチック(解剖=政治学) 2)人口のビオ・ポリチック(生=政治学) |
(121)この方向に沿って、幾つかの提言を
することができよう。 |
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——権力とは手に入れることができるような、奪って得られるような、分
割されるような何物か、
人が保有したり手放したりするような何物かではない。権力は、無数の点を出発点として、
不平等かつ可動的な勝負(ゲーム)の中で行使されるのだということ。 |
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——権力の関係は他の形の関係(経済的プロセス、知識の関係、性的関 係)に対して外在的な位 置にあるものではなく、それらに内在するものだということ。そこに生じる分割、不平等、 不均衡の直接的結果としての作用であり、また相互的に、これらの差異化構造の内的条件と なる。権力の関係は、単に禁止や拒絶の役割を担わされた上部構造の位置にはない。それが 働く場所で、直接的に生産的役割を持っているのだ。 | |
——権力は下から来るということ。すなわち、権力の関係の原理には、一 般的な母型として、支 配する者と支配される者という一―項的かつ総体的な対立はない。その二項対立が上から下へ、 (122) ますます局限された集団へと及んで、ついに社会体〔社会構成員〕の深部にもないのである。むしろ次のように想定すべきなのだ、すなわち生産の機れた集団、 諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体のな効果に対して支えとなっているのだと。このような効果が、そこでそれを結びつける全般的な力線を 形作る。もちろん、その代わりに、こ局地的対決に働きかけて、再分配し、列に整え、均質化し、系の調整規模な支配とは、これらすべての対決の強度が、継続 して支える支配権=結果なので ある。 | |
——権力の関係は、意図的であると同時に、非-主観的であること。事実
としてそれが理解可能
なのは、それを「説明して」くれるような別の決定機関の、因果関係におらではなく、それが隅から隅まで計算に貫かれているからである。一連の行使される権
力はない。しかしそれは、権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に
由来することを意味しない。権力の合理性を司る司令部のようなものをカースト
統治する階級(カースト)も、国家の諸機関を統御する集団も、最も重要な経済的社会において機能し(そしてその社会を機能させている)権力の網のすること
はない。権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもき込まれる特定のレベルで贋々極めてあからさまなものとなる戦術術とは、互いに連鎖をなし、呼び
あい、増大しあい、己れの支えと条件とを他所に見出し(123)
つつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ。そこでは、論理はなお完全に明晰
であり、目標もはっきり読み取れるが、しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物は
いず、それを言葉に表わした者もほとんどいない、ということが生ずるのだ。無名でほとん
ど言葉を発しない大いなる戦略のもつ暗黙の性格であって、そのような戦略が多弁な戦術を
調整するが、その「発明者」あるいは責任者は、隠々偽善的な性格を全く欠いているのだ。 |
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——権力のある所には抵抗があること、そして、それにもかかわらず、と
いうかむしろまさにそ
の故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。人は必然的に権
カの「中に」いて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものは
ない、何故なら人は否応なしに法に従属させられているから、と言うべきであろうか。それ
とも、歴史は理性の詐術であり、権力のほうは歴史の詐術だが、これはいつも勝負に勝つ者
だと。それは権力の関係のもつ厳密に関係的な性格を無視するものだ。権力の関係は、無数
の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の
相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の
網の目の中には至る所に現前している。権力に対して、偉大な企拒絶》の場が一っ反抗
の魂、すべての叛乱の中心、革命家の純粋な掟といったものがあるわけではない。そう
ではなくて、複数の抵抗があって、それらがすべて特殊事件なのである。可能であり、必然
的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるか
と思えば共謀している、這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引きに素(124)
早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場
においてしか存在し得ない。しかしそれは、抵抗が単なる反動力、窪んだ印にすぎず、本質
的な支配に対して、常に受動的で、際限のない挫折へと定められた裏側を構成するのだ、と
いうことを意味しはしない。抵抗は、幾つかの異質な原理に属するのではない。しかしそれ
にもかかわらず、必然的に失敗する囮(おとり)あるいは約束というのとは違う。それは権力の関係に
おけるもう一方の項であり、そこに排除不可能な相手として書き込まれている。それ故、抵
抗のほうもまた、不規則な仕方で配分されている。抵抗の点、その節目、その中心は、時間
と空間の中に、程度の差はあれ、強度をもって散らばらされており、時として、集団あるい
は個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつける
のだ。重大な根底的断絶であり、大々的な二項対立的分割であろうか。履々そうである。し
かし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移
動する断層を作り出し、統一体を破壊し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切
り刻み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめるこ
とのできない領域を定める。権力の関係の網の目が、機関と制度を貫く厚い織物を最終的に
形成しつつ、しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、群をな
す抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである。そしておそらく、これ、
ら抵抗点の戦略的コード化が、革命を可能にするのだ、いささか、同家が権力の関係の制度
的統合の上に成り立っているように。
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ページは、知への意志 / ミシェル・フーコー [著] ;
渡辺守章訳、東京 : 新潮社 , 1986.9. - (性の歴史 / ミシェル・フーコー著 ; 1) |
"JUDENTRANSPORT AUS DEN NIEDERLANDEN," c.a. 1945