はじめによんでください

応用医療人類学ができあがるまで

Bulding Japanese Applied Medical Anthropology: A Personal Account

 1988年の原稿(歴史資料)

池田光穂


第一部 シナリオ


”私のことを語らせていただきます。私は一九八四年四月より一九八七年の三月まで日本政府の外郭団体の国際協力機関のボランティアーとして中 米のホンジュラス共和国に派遣されていました。赴任一年目は首都にある保健省の媒介動物対策局、平たくいえばマラリア対策局に「生態学者」として受け入れ られました。しかし実際には生態学者としてよりも、監視官とともにマラリアやデング熱対策の現場を視察してレポートにまとめたり、住民教育のセクションで 地域集会の運営を手伝ったり、マラリア対策局の業務を紹介するビデオを制作したりという活動に従事していました。異文化体験のすくない日本人の一人として マラリア対策局の一年間はさまざまなことを感じさせてくれました。その第一は言語の壁です。ホンジュラスの人達のほとんどは母語としてスペイン語を話しま す。政府の高官を除いては英語を話す人は少なく、職場で現地の人達と一緒に仕事を行っていくにはスペイン語でなければなりません。もっともこの問題は私自 身が現地調査を将来的に計画していたために言語の習得を準備していたことや、友人や知人が増えていくことで簡単に解決しました。もっと厄介なことは文化の 壁でした。言葉で説明されてもほとんど了解不能なことがあったり、いろいろ説明されてもその感性がよく分からなかったりで、言語の運用にかんして自信がつ き始めた頃にこのようなことがあると、本当にショックでした。自分は彼らの文化について学びに来たのだと自分に言い聞かせても、時には感情的になり人類学 者にとって「言ってはいけない暴言」を吐いたりした時のバツの悪さは今でも夢にみるほどです。”


”一九八五年四月より私の職場は保健省マラリア対策局から疫学局に変わりました。疫学局の局長は私が立案したホンジュラス西部における農民の医療行動に かんする調査計画に同意はしてくれましたが、財政的理由で調査費の援助はできないと明言しました。しかし幸いなことにボランティアーの現地駐在事務所と相 談の結果、事務所が必要な経費を継続して負担してくれることになりました。これがホンジュラスにおいて私が医療人類学の現地調査を始めることになったきっ かけです。この地にやって来るまえのわたしのキャリアーは、大学で受けた生物学とくに生態学の知識と実地調査経験と、大学院での(私にとって同文化であ る)日本における「医療人類学」の研究と実地調査経験でした。従ってホンジュラスという異文化状況における調査は全く初めての経験です。心配の種だったの は、医療人類学の生みの親である民族学や文化人類学の分野において正統的な学問的訓練を私は受けておらず、それまでほとんど文献を読み漁ったり調査をした りして我流で医療人類学を学んできたことでした。”


”私が一九八五年五月以降帰国まで過ごすことになったサンティアゴは人口約六百、家屋数百あまりの小村でした。正確にはサンティアゴとは人口約三千五百 でいくつかの集落からなる「郡」(ムニシピオ)の名称でもあり、私の住んでいた集落は郡役場の所在地でもあったのです。よく現地の人や保健省の職員から、 どうしてその集落を選んだのかと質問を受けましたが、公式的には「農村であり、人口規模が小さく、かつ住みやすいからだ」と答えました。しかし、それが意 味するものは調査地として選ばれた実利的理由と無関係ではありません。つまり、農村には伝統的な考えや価値観が残っており、社会的に均質で、このホンジュ ラス国の就業人口の大部分を占める農民の「典型的な」集落としてここを想定した。人口規模が小さいことで集落の人々に調査者である自分を知らしめることが でき、また彼らの動態を十分に把握できると考えた。予備調査の段階で村落の簡易保健所の「准看護婦」が現地の事情に精通することが分かったので、彼女をイ ンフォーマント(現地調査における情報提供者)として利用しようと思った。住みやすいとは、私が「病気の調査を試みようとしていたにもかかわらず」、標高 千メートル余りのサンティアゴの気候が調査のための長期滞在に適していたというふうにです。しかし後になってみると、これらの予断の多くは誤っており予想 を裏切ることばかりで、ほとんど当てにならないことがわかりました。もし今、誰かに何故その集落で調査をしたのかと尋ねられれば、私はただ単に最初の印象 が良かったからなのだろうと白状するほかはないのです。”


”私は国際協力に従事するボランティアーとしてホンジュラスに派遣されてきたのです。このことは日本を出発する以前の三カ月にわたる「派遣前訓練」にお いて教育されていましたし、時にはボランティアー自身が自分の行為の正当性を主張する際の「論法」になり、また我々ボランティアーのアイデンティティーの 一部をも構成していました。従って、私の計画した調査は将来的に住民の保健の向上に役立つものであると確信していましたし、またそうでなければならないと も思っていました。医療人類学はもろ刀のやいばです。一方で文化相対主義を楯に、西洋近代医学がひとつの考え方にしかすぎず全体的な医療を考えるときにそ れが桎梏となるのかを教える。他方では西洋近代医学を背景にした制度的医療の枠組みの中で、制度的医療に対する住民の接近性を高めるかを現地調査の資料を 使って対策をたてる。日本においてこの分野の研究を始めた頃に私が関心を持ったのは前者の視点です。しかし現地にいて後者の視点を重要視せざるを得なかっ たのは、先のようなボランティアーの大義名分のほかに、現地の保健衛生状態の「水準の低さ」を目の当たりにした直接的な感情に由来します。ものごとを「客 観的」に観察し、冷静に判断をくださなければならない医療人類学者としてあろうと努力したにもかかわらず、現地の医療は「未熟」で「非効率的」であるとい う印象からは私は逃れることができなかったのです。”


”調査地で生活を始めた当初の私の肩書は保健省の調査官でした。通常は住民の保健行動や信条に関する調査に従事し、保健省の予防接種や産婆の教育強化プ ログラムが実施される時には職員と一緒に仕事をするというものです。今まで述べたようにボランティアー的理想を掲げて調査地に赴いたものですから、私は <この調査はこの地域、ひいてはホンジュラス全体の医療の状態の改善に役立つ研究である>という論理をバックにかなり強引なやり方で調査を続けてきまし た。私は村落に入った最初の「中国人」(日本人も含めて東洋人はこのように呼ばれる)であるという物珍しさも手伝って、最初のうちは人々もいろいろ協力し てくれたのですが、私に保健省行政の苦情を述べ続けても一向に状況が良くならないので、「一体いつになれば(薬不足の)簡易保健所に薬が入荷するのだと」 詰めよられることもありました。調査者の高潔でかつ傲慢な理想は、人々の現実の具体的な問題の前には無力でした。しかし、その代価に住民の要求通りに薬を 一時的に導入することも問題の解決にはつながりません。後になって分かったことですが、保健省以外にも政府系および外国の援助団体の農業振興プロジェクト 等の多数の普及員が右に述べたような「社会正義の論法」を使って村落の状態を調査し、そして去っていったことがあったそうです。”


”そのようなわけで私は調査の方針について変更をすることを余儀なくされました。もっとも私も毎日「医療」のことだけを質問したりすることにうんざりし ていましたので、村落の宗教行事に参加したり、農作業を見たり手伝ったり、他人からみればほとんど遊びに近い活動(?)に従事していました。しかし皮肉な ことにこのようなことによって、人々の生活についてより深く理解しようという反省が生まれましたし、親密につき合うことのできる家族や友人ができました。 調査で得られる資料の質が異なってきたことはいうまでもありません。人々は私を保健省の職員としてあてにすることはなくなり、日常の文脈で彼らの医療を 語ってくれるようになりました。しかしサンティアゴの村落社会の中である特定の家族と親しくつき合うことは、それと敵対する家族と疎遠になることを意味し ます。また詳細に資料を収集していくことは自ずと村落社会の成員のプライバシーにかかわる領域に抵触していく機会が多くなります。つまり社会の中で危険な 存在としてレッテルをはられる原因にもなります。私の場合は調査に対する直接的な嫌がらせは無かったものの、何か良からぬものを企んでいるという噂に坑し ていかねばなりませんでした。このような時、私は完全に人間不信に陥って何度か調査を断念しようかと思いましたが、親しくしている家族や友人の慰めや激励 によってそこに住み続けることができました。私はここでヒューマニズムや共感性の重要性を説いているのではなく、医療人類学がおこなう調査の対象は我々と ともに生きている人間の集団であり、客体として外在するものではないと主張しているのです。”


”私には、自分の調査研究がこの国における医療人類学の関心をひきおこし、現地の人達、特に保健省の行政官にその必要性を感じて欲しいという「野望」が ありました。そのためにサンティアゴで得られた資料は、機会のある度に報告書として製本し現地の研究機関や大学に寄贈してきました。しかしそれは「消極的 な」寄与にすぎませんでした。医療人類学的研究は骨董品収集のような珍しい事例の検討を通して行われるものではなく、日常生活の中の普通の出来事について 知ることです。従ってさまざまな地域のいろいろな人々についての行動や信条について組織的に研究を行われなければなりません。ここで「消極的」と述べたの は、「科学の社会学」が指摘するように、組織的研究が政治的あるいは経済的庇護の基においてのみ推進されうるという視点を私は認めざるを得ないからで す。”


”帰国まであと数カ月となったある日、保健省の役人達から会見したいという連絡を受けました。医療人類学について話を聞きたいというのです。それより二 年前、私が機会を見つけては医療人類学の有効性を説きまわっていた時にはほとんど関心を持ってくれなかったのに。首都のホテルのレストランで彼らと会って この疑問は氷解しました。彼らは世界保健機構の支部・パンアメリカン保健機構が主催する医療人類学の短期研修に参加していたのです。保健省の教育局で医療 人類学と銘打った住民の意識調査の計画を知ったのはそれからほどなくしてからでした。”


第二部 応用問題としての医療人類学


医療人類学は応用という問題意識を持つか持たないかで、応用人類学としての医療人類学と文化理論研究としての医療人類学とに分けられていた時 代がある。実践行為としての「医療」に対してどのように自分の立場を表明するかという疑問を医療人類学者は長い間つきつけられてきた。医療人類学がこの十 数年の間に発展を遂げてきた米国においては「文化研究としての医療についての人類学」は医療人類学という響きからは遠のいてしまった観がある。またそのよ うな研究は民族学や文化人類学の関連の学術雑誌で討論されることがほとんどである。医療人類学が米国において応用面についての考察を主流にしたものになり つつあるのは、その分野が医療の側からの要請を受けて進出していたり大学や研究機関のポストを獲得しつつあることでも明らかであるが、そのようなことを論 じるのがこの節の目的ではない。筆者の目的は、日本において応用医療人類学が発展する余地があるのか、また現在まで発展できなかったのは何故かについて答 えることである。その問題を実践に「かかわる」こと、つまり「コミットメント(commitment)」という概念を鍵にしてまとめてみたい。


最初に「医療」という行為について考えてみよう。通文化的にまた歴史的に、治療者と患者(ないしはその家族の全部または一部)の二項で形成されるものに 対して医療という概念が与えられてきたようだ。現在では医療は「地域医療」や「医療批判」というふうに用いられるように、全体的制度として医療を理解する こともあるので、この治療者ー患者の二項で形成されるものはむしろ「臨床のセッティング」と呼ぶほうが正確かも知れない。いずれにせよ臨床のセッティング も含めて「医療」ということが含意することは、治療者と患者が相互に作用することが不可欠であるということだ。「医療」従事者の中には医療行為の原形とし て、治療者が患者に援助を差し伸べることだと主張する者もあるが、この見解は不完全である。患者の側が治療者に援助を求めるという行為があることを見失っ ているからである。従って、医療においては治療者と患者が相互に作用する、というほうがより正確なのである。患者の援助への期待というメッセージ(言語、 行為、社会的文脈における象徴、等)の存在を抜きにして、治療者が患者に援助を差し伸べる行為のみが医療であるとする発想は、医療が社会統制を可能ならし めるという考え方に連なるのである。


患者が治療者にそして治療者が患者に具体的に相互作用に入っていくこと、つまり相方が互いに「かかわる」ことによって初めて医療が成立する。その相互作 用の編目の中で人々はさまざまな医療というものを構築していくわけであるが、その中で「かかわり」への期待や価値判断というものが生じてくるのである。そ してその「かかわり」は時間的継起や空間的変異の中で維持されたり変容されるのである。つまり我々にとって「かかわり」抜きの医療というものは有り得ない のである。専門家や非専門家を問わず医療に「かかわる」ことは、その中で行為することであり、それは必然的に行為の正当性の検討やそれに伴う価値判断を不 断に要求されることでもある。


それでは医療について研究することは一体どういうことを意味するのだろう。やはり右に述べたように、「かかわり」における実践的問題を引き受けることに なるだろうか。答えはイエスである。応用面を強調しつつある医療人類学であるからそうなるのではなく、むしろ我々の目前に提示されている医療の状況が「か かわり」を抜きにしては語れないところまで実際にきているからである。医療人類学の開拓者達が貢献してきた疾病論についての考察は「医療」という概念で包 括できるものが相当に幅の広いものであることを我々に明らかにしてきた。それにもかかわらず世界の各地で見られる現象は西洋近代医学と現地の医療システム とのダイナミズムで語られることばかりである。「有効性概念」を武器に成長してきた西洋近代医学が、世界的規模において数々の失敗を乗り越えながらさまざ まなスタイルに変貌しながら各地に侵入していることは否定できない事実である。世界保健機構においても伝統的医療や現地の医療システムの復権が主張されて いるにもかかわらず、専門的優位性を保持しているのは西洋近代医学の概念である。このような状況において文化相対主義的な論調で現地の医療システムの重要 性のみを述べることは、時代錯誤的な懐古趣味か現状にたいする楽観論にすぎないと批判されるだろう。医療人類学において「医療」を研究することと実践の問 題に関与することとは不可分なのである。また「文化研究としての医療についての人類学」でさえ、多かれ少なかれ今まで述べたような問題に直面する。なぜな ら研究者という存在も、近代社会における一市民でありそして一個人であると意味で、もはや彼/彼女は「かかわり」の問題からは逃れられないからである。


この問題は日本において(シャーマン研究などの宗教学や民俗学等の研究も含めて)「文化研究としての医療についての人類学」が興隆している一方で、応用 人類学としての医療人類学がさっぱり人気が無いことと実は関連がある。日本の知識人や文化人と称される人々が西欧で流行った事物を自分に都合の良いものだ けを紹介するということが平然と行われているが、その過程の中で応用人類学は意識的・無意識的に排除されてきた。その理由は二つある。ひとつは日本の人類 学者の応用人類学に対する忌避または軽蔑である。これは欧米と同様に日本の人類学も植民地政策に荷担してきたという歴史的経緯があり、それに対するアレル ギー反応と診てよい。また現在、日本の文化人類学において主知主義への著しい傾斜がみられ、人類学者が知識人社会の文化英雄(カルチュラル・ヒーロー)と してもてはやされている現状は、彼らが社会の応用問題という「手を汚す仕事」に着手するだろうという希望を全くもたせない。またもうひとつの理由は日本の 医学界の排除的独占性に由来する。元来医学は専門的独占性を発揮する分野として古くから社会学の研究対象になっているが、そのなかでも日本の医学は異彩を 放っている。その淵源は自然科学的医学に対する絶大な信頼、つまり医学の社会的視点の欠落と医学のあり方を外的に統制する公聴制度が日本において健全に発 達しなかったことに求められよう。このことは医療人類学の先輩格にあたる医療社会学(sociolo-gy in/of medicine)の研究の日米比較において、医学研究者と社会学者の共同研究が量、質ともに米国が凌駕していることでも明らかである。日本の医学界の排 除的独占性を日本の社会学者や文化人類学者が知らないわけがない。彼らの多くにとって、日本の医療の秘儀性の中に入って研究することは、火中の栗を拾い上 げるに等しいことなのである。


このように応用人類学としての医療人類学は、日本の文化的土壌において人類学からも医学からも二重に排除されている。しかし、そうだからといってもこの 分野が全く希望のない研究領域だとも断言できない。たとえば、国際医療交流において応用医療人類学は不可欠な要素になっているからである。医療における国 際援助に伴うさまざまな問題点の指摘は、もともと医療人類学が中心になって考察を深めてきたところである。日本が将来的に援助大国になり続ける以上、そし て欧米諸国の医療協力に人類学者や社会学者が派遣されることが半ば常識化されている現在、日本の医療援助協力が今のままのスタイルをとり続けることは考え られない。もしそうでなかったら欧米諸国からの批判を受けることは明らかであるからだ。いずれにせよ日本において、応用医療人類学の知識の普及とトレーニ ングされた医療人類学者の養成は急務である。医療人類学に対する理解が現状の医療に対する見方の反省になり、さらにそれが医療の変革につながるというのは あまりにも楽観的な見解である。しかし医療が持つ「かかわり」という原初的形態の復権として応用医療人類学をとらえた場合、それが修正主義的という欠陥が あるにもかかわらず、医療のスタイルを変えていこうという批判的営為につながっていることを我々は発見するにちがいない。

 [注]この小論の多くは筆者の国際協力事業団青年海外協力隊での隊員の体験と、大阪大学医学部環境医学教室を中心とした「疾病論研究会」「医 学史研究会」でのいくつかの討論に負うている。それらの関係者に記して謝意を表す。小論での見解はすべて筆者のものであり右にあげたいかなる団体の見解で もないことを明らかにしておきたい。



Anthropologist as Hero, by Susan Sontag, from Introducing Anthropology: A Graphic Guide (Introducing...) (English Edition) Merryl Wyn-Davis, Piero (illustration)

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1988-2020

池田蛙 医人蛙 授業蛙 子供蛙 電脳蛙