はじめによんでね

近代日本における未完のプロジェクト:帝国医療
Unaccomplished Project in Modern Japan: Japanese Imperial Medicine.

[発表原稿]

(日本民族学会研究大会, 2003/05/24, Sat. B会場, G102,15:15-17:15)

池田光穂

「なにしろ帝国主義というシステムは、べつの可能性をにべもなく消し去り、それを思考で きないものにしているからだ」サイード(大橋洋一訳、『文化と帝国主義』p.66)

まず最初に私の理解する帝国医療(imperial medicine)という制度システムについてお話しましょう。

近代医療や熱帯医療には教科書があり、教育内容にはディシプリンがあります。しかし、帝国医療や植民地医療には教科書はありません。また教 育内容におい ても独自のディシプリンは存在しないように思われます。ディシプリンとは、ここでは原理にもとづいた訓練と理論の混成集合体のことを指します。近代医療と 帝国医療の違いは、まず単純にそう言えるのではないでしょうか。

前者、つまり近代医療や熱帯医療は実体化された医療であり、後者である帝国医療や植民地医療は抽象化された分析概念です。帝国医療は、ある 政治空間のな かに居場所をみつけた医療であり、統治という技術体系と隠喩的連関から払拭できない医療のことです。

したがって、近代社会の統治術概念から導き出された植民地の医療システムとしての「帝国医療」を研究するとは、なによりもそれが使われる歴 史・社会的文 脈の中に位置づけて具体的に議論しなければなりません。歴史家のデイビッド・アーノルドや脇村孝平らが、この用語を鍵概念にして解き明かそうとしているの は、英国のインドを中心とする帝国統治のシステムが、中心地で論じられていたイデオロギー以上に、臣民(subject)への身体や集団への管理の具体的 諸相にありました。

他方、人類学研究において、何か生産的議論を導く装置として帝国医療の概念を流用することは可能でしょうか。その際には、歴史家たちが提唱 していた概念 にもともと含まれていた歴史・社会的文脈から自由になれる代償として、帝国医療を近代医療や熱帯医療と同一視したり、それらの相互の「医療」に含まれる諸 々の特徴を相互に交換可能な要素として拡大解釈するという危険を手に入れるかも知れません。

あるいは、もはや歴史的には終了したと宣言されている事柄に、人類学者は異議を申し立てているのかも知れません。かつての新帝国主義論や新 植民地主義 (neo-colonialism)による世界経済批判のように、帝国医療や植民地医療は終わっていないと人類学者は自分のフィールドでの経験をもとに、 敢えて主張しているのかも知れません。

そのような理論の無制限な拡張および用語の政治化という危険を承知で、今しばらく知的冒険を試みることが許されるならば、我々は帝国医療が もつ主要な特 徴をさまざまな諸事例から抽出・検討し、ある歴史・社会的文脈の中でその医療システムが帝国医療として作動可能になる社会的条件を明らかにしなければなり ません。歴史学における帝国医療という専門用語と区別して、このような医療システムのモデルを「帝国医療システム」というふうに呼び、帝国医療という用語 と緩やかに(ルーズに)使い分けておきます。

さて、帝国医療や植民地医療は分析概念としてよく引用されるようになってきましたが、かつては近代生物医療(modern bio-medicine)による帝国支配や植民地支配への非難や罵倒という価値判断をたっぷり含んだ政治用語でした。他方、近代医療は西欧の由緒正しき 医療であり、それを利用する民族や人種を超えて利用可能なコスモポリタンな医療と見なされています。熱帯医療(tropical medicine)は、帝国や植民地統治のエージェントが関与したという点では手垢にまみれていますが、研究対象と達成すべき目標——熱帯病の征圧——が 社会的合意を得られやすかったゆえに、旧植民地からの非難を受けることはこれまで少なかったと言えます。しかし、現在においてもなお、熱帯医学/熱帯医療 の研究の随所に、熱帯起源の病気と現地の社会を「未開な文化的慣習」「遅れた社会制度」「怠惰な住民」といった植民地言説に無反省に関連づけることをしば しば目撃することがあります。

そういう中に、我々の医療はどのように位置づけられるのでしょうか。日本の医療は、独自な文化慣習や行動様式によって今なおその進歩を妨げ られているの でしょうか。日本の旧態依然とした医療制度によって日本人は健康の達成を妨げられているのでしょうか。日本の帝国医療における日本人とは、それを実施する 主体でしょうか、それとも帝国医療の対象だったのでしょうか。そしてまた、私が日本ないしは日本人という用語を連発する時、それらはどのような空間を指 し、どのような種類の人間のことを言っているのでしょうか。

表題にも掲げた、私の結論を先に指摘しておきます。

後発帝国主義国であった日本は、欧米の帝国主義的近代の様々な社会的諸装置をパッチワークのように導入しながら、つよい人種拝外主義によっ て、日本の独 自でユニークなシステムを作り上げました。その中で医療制度、すなわち帝国医療も創意工夫され独自の発展を遂げてゆきます。しかしながら、制度や理念の変 化に社会の側は追いついていかず、医療はつねに未来に向かう健康達成のプロジェクトであるという幻想を人々に懐かせたまま、第二次大戦の終結を迎えます。 これが「未完のプロジェクト」という意味です。
 
この未完のプロジェクトは、西欧の近代化プログラムの模倣であり、普遍的な方法を現地社会に適合させようとする時におきる、現地側からの反応に基づい て、独自の展開をとげて行きました。西洋近代医療の普及過程にみられる、ユニークな特性を3つ指摘しておきます。つまり、まず最初に(1)医療の西洋近代 化の過程は、かつて言われてきたようなシステムの全面入れ替えではなく、試行錯誤を踏まえた漸進的な変化であった。そのため、漢方のような医療システムも 完全に駆逐されることなく、むしろ医療の多元化をおしすすめることに貢献したということ。つぎに(2)統治技術としての西洋近代医療は最初から成功を収め ていたという認識は、医療者たちの間には、それほどなかったということ。そして(3)医療化を推進させる根拠としては、医療を通して国民および帝国の臣民 を壮健にする目的よりも、医療をより科学化することに強い動機が置かれていたということ。これらのプロジェクトの理念は、帝国医療そのものの枠組みが消滅 しても、つまり大日本帝国が実質上消滅しても、戦後一貫して継承されていったというのが私の見解です。

いましばらく、この帝国医療システムの3つの特性の現在までの継承性について、言葉を重ねてゆきます。

(1)近代日本の医療は、明治維新以降、激烈にシステム変換したと言われるが、これは国家が採用する公的な医療システムにおいてです。実際 には近代医療を採用する以前から蘭方医療が存在し、天然痘対策の種痘にはこの医療システムが有効性を発揮しました。また、公的医療から排除された漢方医も 直接根絶対象となったわけでもありません。漢方医の教育が公教育によってなされなかったゆえに、リクルートができず、影響力の基盤であるマンパワーが枯渇 していったのです。医療システムの移行という観点から見れば、近代医療への移行は緩やかに進行したと考えられます。これは、今日における多元的医療状況の 原因であり、クライアントも治療資源の選択には仮定法的態度がひろくみられるという医療行為からも示唆することができます。

(2)国家の統治技術としての近代医療の適用が、もっとも激烈におこなわれたのは、「避病院」(伝染病隔離)や「癲狂院」(精神病者の理性 的拘禁)への収容政策であり、当初は患者や家族による抵抗に出会います。しかしながら、共同体は国家政策のエージェント機能の末端としてその役割を十全に 担い、全国で広範囲に行われた散発的な反抗——たとえばコレラ騒動における外国人や医療者さらには癩病者へのリンチ事件など——が集合的な行為としての医 療批判運動に発展し、制度を機能不全にまで陥らせるには至りませんでした。これらの住民の偶発的な反発に対して、国家は警察権力をもって鎮圧しただけで、 統治システム改善のための教訓とはせず、また法的な整備も行いませんでした。これらの歴史的伝統は、今日における病者差別や国家賠償制度の不備という事態 に色濃く反映されています。例えば、水俣病認定やハンセン病者への国家賠償責任などは、当事者からみれば未だ係争中の問題であることでも明らかです。

(3)近代医療はつねに輸入されつつその中身は欧米の水準に追いつくべきものであるという一貫した国家政策は、結果的に医療者のイメージ を、草の根レベルの実践家ではなく研究をおこなう科学者として定着させました。そのため国家の医療政策は、医科学を常に向上させる政策に傾き続け、医療を 福祉サービスのエージェントとして転換することができなかったと言えます。そのために、日本は世界の近代国家の中でも近代医療が定着したにもかかわらず、 人々に根強い医療不信と医療化被害に見舞われた社会となりました。

言うまでもなく日本の植民地統治は歴史的には後発の部類に属し、また帝国を構築していた周辺部分では1930年代以降、事実上交戦状態に あったために、帝国の社会基盤整備の装置として近代医療を十分に発動させることができませんでした。これらの特徴は日本の植民地人類学の事情にも通底する と言えるでしょう。また万能科学としての医療へ専門家たちの信仰は、とくに1930年代以降、今日ではいかにも奇妙で歪(いびつ)ともいえる現象を引き起 こしました。

例えば京都帝国大学出身の石井四郎[1892-1959]は陸軍に軍医として入り、1933年東京の陸軍軍医学校の防疫研究室を経て、 1936年(昭和 16年)に関東軍防疫部長に昇進し、細菌兵器の開発に中国人やモンゴル人をつかった人体実験を組織的におこないました。京都帝国大学で石井の研究指導をお こなっていた清野謙次[1885-1955]は専門の病理学以外にも、人骨の解剖学研究や統計的手法による日本人の起源論に一石を投じた人として知られて いますが、1940年代に大学を辞職してから、太平洋協会に属し、膨大な民族医療の文献を渉猟して、『インドネシアの民族医学』という、今日の医療人類学 の先駆けとも言える研究をしています。清野を太平洋協会に招いたのは、講座派マルクス主義経済学者であり戦後はアジアの自由と民主主義の擁護者として神格 化される平野義太郎です。しかし平野は太平洋調査会部長の当時、『大東亜民族誌』において、優生学にもとづく人種主義的蘊蓄を遺憾なく披瀝し、帝国内にお ける日本人と外国人の混血がいかに種族の保存にとって文化的に危険であるのかを主張していました。
 
日本の国内(および朝鮮半島の一部)では、それまでになかったさまざまな医学の社会化の運動が試みられました。例えば1920年代から30年代にかけて おこなわれるようになった無産者診療運動。これは都市部における社会主義労働活動の一環として、医療が労働者の福利向上に寄与するものと考えられ、40年 代に当局によって閉鎖されました。医療利用組合運動もほとんど同時期に生まれ農山村における医療の大衆化に貢献しました。これらの運動を通して、結核や乳 幼児死亡の研究が進み——農村医療と並んで戦前のマルクス主義者にも開放されていた数少ない研究領域です——病気の社会的起源や健康の達成には臨床医学で はなく栄養条件の改善が重要であるという今日の常識となった見解がこの頃すでに共有されていました。

これらの社会改良の理念に裏付けられた、医療の社会化のプロジェクトは戦後の民主主義の復活とGHQ指導の公衆衛生政策の状況の中で、戦前 の医療者の ヒューマニズムの伝統が絶やされなかったと好意的に評価されてきました。しかし、現在では患者の人権論や医療の権力論というリビジョニスト的再検討の中 で、医療者のもつパターナリズムや近代科学としての医療の特権性の温存などが批判に晒されつつあります。

では何故、日本の植民地統治へと飛翔するはずの帝国医療のプロジェクトは第二次大戦終了において終焉したのではなく、これらの理念と現実 は命脈を保ち続けたのでしょうか。その設問の解法へのヒントを最後に示唆しておきたいと思います。

1874年(明治7年)の76箇条の医制の公布以降、帝国医療システムは順調に発展、整備されていきました。つまり具体的には、伝染病対 策、衛生制度の 創設と整備、帝国大学の医学研究システムの改善、ドイツを中心にした海外留学における研究水準の向上、極東熱帯医学会や国際連盟衛生会議等のアジアにおけ る医療情報の交換と蓄積等を通してです。これらはアジアの周辺地域の帝国内に組み込む帝国の地政学的発展とパラレルでした。この当時までは、さらに帝国の 威光を臣民に享受させるといった救貧対策を含む福祉保健制度の構想が練られ萌芽的なプロジェクトが試みられようとしていました。今から想像することが困難 であり、また驚くべきことですが、女性のヘルス・ボランティア制度(当時は「保健婦」「指導員」などと呼ばれていた)すら動き始めていました。

しかし1930年の中国大陸での交戦を皮切りに、いわゆる総力戦体制に突入してゆき、日本国内における物資の不足から、日本人の栄養状態は 徐々に悪化し てゆきました。それは結核の罹患率や乳幼児死亡率の増加を引き起こしました。帝国の末端に日本の成年男子を送るための徴兵検査においても、兵士の健康の質 の低下は避けられず、大きな政策課題になりつつありました。その結果、それまでの救貧的な医療福祉政策から、帝国臣民とりわけ青年男子の健康の質の向上 に、努力が向けられるようになりました。しかし栄養条件を改善する資源もなく、いわゆる精神の肉体化——壮健な精神が壮健な身体を造る——に空しく政策は 進んでいきました。ラジオ体操が国民の総動員によって敢行されるようになりましたが、結局のところ、栄養条件の悪化が制限要因となって、これらの対策はほ とんど成功を収めませんでした。もちろん海外の植民地においても、帝国の保健システムは有効に機能を果たしませんでした(「南方」における民間衛生のマ ニュアルの出版は1940年代です)。

つまり理想的な帝国医療システムは、1930年以降すでに崩壊の道を歩み始めていたのです。ところが、それにとって変わる保健運動の国民の 総動員体制は 末端において活動していた医療者をして、日本社会の隅々まで保健プログラムを実践させることになりました。そして、そのことが皮肉なことに、現場の悲惨さ に直面して実践していた医療者たちをヒューマニスト的精神をもつ医療者を育てることになりました(例:夭折した女医・小川正子[1902-1943]が癩 病患者の生活描写した『小島の春』は同時の医学生のバイブルになりました)。このような社会実践を積んだ人たちが、戦後の保健衛生改革に際して即戦力のマ ンパワーとして登用されて、戦後の農村保健運動において指導的役割を果たしました。

このように見てくると、明治以降、約半世紀にわたって成長しつづけた帝国医療は、敗戦前の10数年間のみ、その機能不全を、それも徐々に起 こしただけで した。そしてその不幸な健康達成の国家総動員体制は、それまで順調に展開していた帝国医療システムの路線とは、多少なりとも異なった袋小路に陥ってしまい ました。帝国医療システムとしてはGHQの占領政策の下において、むしろ1930年以前の状態にリセットされそれを継続し続けてきたと解釈するほうが、長 期的な観点からはよく見えます(私の視点は従って戦後の解放を保健政策上のルネサンスとしてみるのではなく——例:サムス『DDT革命』——、むしろ敗戦 前15年間を医療政策にとって特殊な時期として捉えます。つまりリビジョニスト的見解をとります)。

この帝国医療システムは、人種を超えた帝国の臣民全員にあまねく福利を授けるというプログラムを持っていませんでした。そのようにみると、 日本人による 日本人のための日本人の医療を、はたして帝国医療システムと呼べるのかという疑問も沸いてきます。我が国の高度経済成長期以降、本格化する、ODAによる 医療援助協力のプログラムをみても、現地の文化制度を尊重する、まさに新・帝国医療システムの真骨頂を発揮するようなものは、どれ一つとして見あたらず、 日本で確立した医療技術を現地社会にそのまま移転するだけの時代が長く続きました。そのような反省も経ることなく、グローバル化する今日のネオリベラルな 経済の医療制度改革によって初めて、医療は人間の健康の質を高めるために無制限に適応させるべきであるという理念が放棄されつつあります。現在では、医療 は社会資本のコスト投入に見合った効果を引き出すアウトカムとして評価されるという見方が代わって登場し、医療は経済という、統治技法の目的以外により制 御されるべき技術体系として初めて試練に曝されることになったと言えるのではないでしょうか。

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