グアテマラ先住民運動に関する文化人類学的省察
Cultural
Anthropology of Guatemalan Indigenous movements and the States, from
mid 1980 to 1996
★『研究』という言葉自体が、先住民の言語の中で最も汚れた言葉の一つである——リンダ・
トゥヒワイ・スミス『脱植民地化の方法論:研究と先住民』(1999: 1).——The word itself, 'research', is
probably one of the dirtiest words in the indigenous world's
vocabulary(Smith 1999:1 ).
1.グアテマラとその人類学
グアテマラを研究の場としてフィールドワークをおこなってきた私は、本報告において、〈研究対象〉であったグアテマラ先住民と〈調査主 体〉であった私との関係性について考察してみたい。その中で私が得た結論は、ローカルな場から出発しローカルな場に回帰するフィールド研究の重要性につい ての再評価についてである。私はクリフォード・ギアーツに倣ってこう言明してみたい。我々はトランスナショナルな場における社会現象そのものを研究するの ではなく、トランスナショナルな場に身をおいて研究するのだと。このようなことを主張することは、ともすればトランスナショナルな社会状況それ自体や、こ れらが生み出した社会現象へと研究対象がシフトしつつある現在の文化人類学の流れからみると、旧来の学問態勢を維持するかのような印象を生んでしまう。言 うまでもなく、これは人類学の古典的方法への回帰ではなく、80年代に始まる人類学の研究活動に関する一連の自己反省的考察を経由すること求めた上での、 一種の仮説的命言(hypothetical imperative)とも言うべきものかもしれない。これを理解するには、そこにいたる〈道のり〉を説明しなければならないだろう。
中央アメリカに位置するグアテマラは、マヤ系先住民が織りなす地域文化の豊かさとそれらの多様性おいて顕著である。現在のマヤ文化の表象 のされかたは、考古学時代のマヤ文明に対する欧米の関心とは不可分でもある。従ってマヤ研究はアメリカを中心とした欧米の歴史と文化の研究者にとって重要 な学問的分野(academic field)でありかつ調査研究のフィールド(study field)であり続けてきた。この研究の中核化現象を可能にしたのは、新大陸征服以降に蓄積されたスペイン宣教師による異教の社会習俗知識の集積、植民 者や後の旅行者・冒険家たちが欧米社会に提供した膨大な事物記や旅行記という先行知識の集積などの存在による。研究者や観光客以外の欧米人を引きつけた魅 力は言うまでもなく、それらと同時進行して発展してきた政治経済的動機によるものである。染料、サトウキビ、コーヒー、バナナ、カルダモン、牛肉などの熱 帯および高原産の農作物プランテーションの経営が、欧米人とメスティソ現地人によってなされてきたために、欧米とりわけアメリカ合州国による地政学的な介 入を受ける原因ともなった。
社会文化的に関係の深い欧米社会が、グアテマラに向ける近代的な知のまなざしは、多大なる研究蓄積をもたらしたが、それは外国人によるも のだけではない。支配的な混血のメスティーソが話し、かつ国家語であるスペイン語による研究の蓄積も、大学教育の整備が進展するグアテマラ革命(1944 -54)以降、軍事政権が繰り返し登場し、かつ内戦(1962-96)という困難な時代を通しても、ずっと継続されてきた。とりわけ、1996年の反政府 勢力と政府との和平合意にもとづく内戦の終結は、それ以前から始まっていた非軍人の大統領の選出と相まって、社会調査研究——民主化運動につながる政治的 意図が明確な社会調査を含めて——を発展させそれらの成果刊行を促進させることとなった。
グアテマラに対する欧米の地政学的な関心、現地の知識人産出の歴史的過程、和平状況に進展する社会調査の増加など、グアテマラと文化人類 学(者)の関係は、他の第三世界地域と共通するものも多くみられる。しかしながら、人類学的知識の産出には、これらの社会のもつ特殊な歴史社会的状況と無 関係ではないものも多い。アムネスティ・インターナショナル[Amnesty International, online]によると、ラテンアメリカの国々では、現地調査をおこなう社会学者(socio'logo/-ga)や政治的虐殺の犠牲者を発掘する司法人 類学者(anthropo'logo/-ga forense)たちは、生命の危険に晒される機会が多い。なぜなら彼らは反体制ないしは左翼的社会活動家とみなされ、治安警察、軍隊ないしは準軍事組織 からは、〈好ましからざる人物〉として写るからである。事実、彼らに対する脅迫や暗殺が少なからずあり、しばしば国外難民化することがある。グアテマラで 人類学(antropologi'a)と言えば、文化人類学や民族学のことを指すよりも、なによりも抑圧民を研究する社会科学であり、また死体を発掘し鑑 定する学問のことを指す。
人文社会科学としての文化人類学は、時代や社会により、さまざまなトピックが変遷し採用される理論の盛衰はあるが、研究者の帰属意識はグ ローバル化された公共圏の中に(も)いる。しかしながら、人類学者が対象社会と関係を取り結ぶ場においては、先に挙げたようにその関係は実に多様である。 グアテマラ社会では、その様相は我々が〈政治的な権力関係〉と呼ぶものに大きく影響されている。また人類学(=文化人類学)のもつ方法論の特殊性がこれを さらに複雑にする。なぜなら、この学問はフィールドワークという研究者自身を社会の中に内在化させるという方法論をとり、また理論上の議論においては、質 的情報にもとづく〈内在的解釈〉という技法を広く用いるからである。そこにはマニュアル通りの関与的中立性というものは実現不可能であり、むしろ絶えざる 相互交渉の結果生まれる暫定的な政治関与性をそのつど表明する機会に晒される(例:「君はここで何を調べ、何を為し、何を(ここにいる)我々に貢献してく れるのか」という現地側からの問いかけと答え。「君はそこで何を調べ、何を為し、何を(ここにいる)我々に貢献してくれるのか」という研究における問いか けと答え)。人類学のみならず人間を対象とする人文社会科学研究は、おしなべてこのような複雑な過程の中で動いていると思われる。しかしながら、他方で、 人類学者が属するホームとも言える自国の社会の中での関係も、やはり政治経済的力学に影響を受けている。我々の社会では、研究費の調達に国家ないしは財団 の補助が不可欠であり、他方で〈役に立つ学問〉〈社会の要請に応える学問〉であることが声高に叫ばれる昨今の社会状況(=「ナショナルな人類学」構築への 社会的要請)は、人類学者が経験する現地(=仮のホーム)とホームの政治力学的関係の複雑な過程を読み解いてゆくような内省的アプローチに背を向ける傾向 を助長しているように思える。果たしてこのような危惧は、グアテマラで人類学をおこなうことの特殊性に起因するヒポコンデリー(心気症)なのであろうか。
2.〈外部〉と交渉する社会:アメリカン・ドリームと観光が蔓延する先住民社会
グアテマラ共和国の西部高地の中でも、北西に位置するクチュマタン高原とその稜線に点在するマヤ系先住民の諸集落は、この国の中でも 低開発地域に属する。経済的な貧困さとは裏腹に、先住民文化が豊かであり、これまでさまざまな人類学者によって民族誌が蓄積されてきたところでもある。私 がマウド・オークスの民族誌で有名なトドス・サントスという先住民共同体にやってきたのは1987年の暮れから88年初頭のことである。この町では政府軍 にゲリラ掃討の鎮圧作成が展開され、1981年から82年にかけて多くの犠牲者が出たところである。しかし、事後数年が経過していたが、暴力の時代につい て語ることは憚られ、観光客もまばらであった。8年後の1996年に再びここで観光と村落の経済発展について調査した時点では、外国人向けに先住民族の家 族と共に1〜2週間を過ごす短期のスペイン語学校が開設されて、先住民族の文化を求めて多くの観光客が押し寄せていた[池田 1997]。
私のもっぱらの関心は、数年間に様変わりした町の風景であり、とくにコンクリートブロックでできた大きな2階建ての新築の家の数々に あった。人びとは口々に、その新しいマンションの主の息子がアメリカ合州国で働き、それらの送金によってできた御殿であることを、羨望をもって語ってい た。その時には、人々は集団の自称であるトドサンテーロ(Todosantero/-ra)ではなく、「我々グアテマラ人(Somos guatemaltecos)」とか「我々先住民族(Somos Indi'genas)」という自称を用いることが多かった。また「自分たちは(メキシコ人に比べて)働きものなのだ」という言葉がよく聞かれ、不法移民 のアメリカでの経済的成功が、彼ら自身の努力の賜であると説明することが私にとって印象的であった。
以下は比較的初期にノルテに渡航した男パンチョ[仮名](ただし彼は同郷のマヤ人たちと渡航したラディノである)のエピソードである[イ ンタビューは1998年7月]。
【ラディノのパンチョ】
私は1990年から10カ月アメリカで働いたことがある。アメリカ行きのきっかけは、従兄弟に誘われたからだ。渡航にかかった金は、当時 で800ケッツアルだった。その内訳は、400が運賃で、400がコヨーテへの手数料だった。コヨーテは、この町にもいて、いつも宣伝をして顧客をあつめ ている。私の場合は、コヨーテはウェウェテナンゴにいる奴で、もちろん近隣の村々にもいる。
(アメリカ)合衆国の国境まではバスで1週間かかった。つまり、月曜に国境の町メシージャを通過して、アメリカのサン・イシドロについた のが次の月曜だった。途中のメキシコでは、いたるところに検問所があって、メキシコの係官はことあるごとに、(労働移民である)我々から金をせびってい た。もちろん、すべておめこぼしのための賄賂の金であるが、我々にとっては泥棒と変わらない。
(先住民の男性Jが政治的理由でアメリカに逃げたのではないか?と質問すると)そんなことは絶対にありえない。アメリカに行く奴はすべて 金のため( todo por dinero)で、政治的理由などすべて嘘っぱちだ。
アメリカのカリフォルニアにはエルサルバドル人のための法律事務所がある。弁護士を中心としていろいろな人がいて、同国人の相談にのって いる。そこで、私が聞いた話では、合衆国当局に申し立てするときは、出身国にいた時に身の回りに政治的危険性があったとか、親類縁者が暗殺されたと言うこ とをすすめるらしい。
確かに、この町でも1982年以前には政治的問題がたくさんあったが、それ以降はほとんど問題がない。もしJの親が殺されたとしても、現 在の彼の[政治的]危険性には関係ないよ。すべて金のためだ。
アメリカでの生活は、仕事はきつい。食事も高い。そしてアメリカまでの旅も厳しいので、もう二度とアメリカには行かない。この町で生活で きることがが一番いい。
アメリカ生活で最も楽しかった経験は、ヨセミテ国立公園に行ったことだ。いとこは、まだアメリカにいるが、その時に誘われて行ったが、ヨ セミテは公園そのものが美しいし、鹿がそこまで来て「警察」が鹿を殺さないように見張っている。他にアルカトラス島にも行ったが、ヨセミテが一番よかっ た。
アメリカ行きは大変だが、帰りは楽である。移民局(ミグラ)に行って、自分が不法入国者であることを宣言すればよい。立派なベッドのある 収容所に入れてくれるし、食事の心配も不要だ。おまけにグアテマラまでちゃんと送り返してくれるからだ。
アメリカ(合衆国)人は、ラテンアメリカの政治難民やテロを受けた家族には、人が良いと言うか、とても甘い。すぐにラテンアメリカの連中 の言うことを信じて援助を申し出る。そのような申し立ての半分は本当で、半分は嘘なのだ。エルサルバドルの法律事務所のように、エルサルバドル人の弁護士 たちがそのように自分たちの状況を悲惨であったかのように勧めることもあるからだ。
コヨーテという不法移民の旅行ブローカー——冗談まじりに「旅行代理店(agenci'a)」と呼ばれていたが——を使ったアメリカへの 移民は、その成功の噂話の村落内における流通と、実際の送金によるドルマネーの流入により次第にエスカレートしていった。また、移民の話やエピソードの内 容は、年ごとに行った私のトドス・サントス訪問の機会のたびに、より具体的で現実的なものに変化していった。たとえば、郵便ではなくマイアミに本拠をおく 民間の宅配便業者による通信送金手段の確立。カセット・テープの音声メッセージ(=手紙)とマネーオーダー(“モネイ・オルデル”)と呼ばれる簡易小切手 を入れた封筒を村落に残した家族に手渡す共同集配所への人びとの定例的集まりが生まれたこと。他の集落からやってきたよそ者のコヨーテの利用から地元の 「少し値は張るが安心できる」コヨーテの営業開始のニュースがあった。このような好ましい話がある一方で、他方では、帰国者の村落内での大盤振る舞いやど んちゃん騒ぎに人々が眉を顰めたり、若者の伝統的な社会慣習の放棄による保守的な人々の非難、アメリカでのアルコール中毒や現地での重婚やさらには音信不 通など失敗のニュースや噂話など、好ましくない話も多く聞かれた。さらに、村落ではノルテ(スペイン語で「北」の意味)行きのために事前に準備する人たち が、メキシコを通過する際に、いかにメキシコ移民局の邪悪な係官の検査から逃れ、自分たちがメキシコ農民であるかを偽装するために、発音上のアクセントの 修正やメキシコの先住民大統領の名前や国家の暗唱などを学ぶ場面に直面したことがある。
以下は先の渡航時期よりも約5年後に渡航したマヤ人の若者の経験である。話の内容が詳しいという特徴があるが、移民の移送ルートや方法が 洗練され、また受け入れられたアメリカ領内での仕事のあっせん業務などがより組織化されていることが窺えるエピソードである。
【食肉工場のファン】
ファンは1995年1月にアメリカに行こうと決心した。ちょうど、その3カ月前の94年の11月に、弟のマリアーノがアメリカに行ってい る。ノルテへ行くことがお金になるということをコヨーテあるいは弟をふくめたトドス・サントスの周りの人たちから聞いていた(自明の事柄ではあるが)。渡 米の決心は、コヨーテによる説得が大きく占めていたが、また先立つ金がなければ、渡米に踏み切れなかったのも事実である。
コヨーテは、サンペドロ出身の男で、トドス・サントスにやってきて、渡米希望者の若者を集めた。渡米にかかる費用、つまり彼に渡した額は 五千ケッツアルである。現在では八千あるいはそれ以上になるという。渡米のための金は、父親などから借りて工面した。
トドス・サントスから、このコヨーテと共に渡米した連中は9名である。
95年1月にグアテマラから出発して約2週間で北米に到達した。
グアテマラからメキシコへは、メシージャの手前で山道に入り国境を越境した。メキシコ国内ではトラックの運転者に交渉して有償のヒッチハ イクをおこなった。ところがオアハカで、コヨーテを失ったホンジュラス人たちの8名のグループに遭遇し、ファンたちを先導していたコヨーテは、彼らも一緒 に引き受けることにした。この17名の旅行者に対して、コヨーテは「君たちの食事を買ってくるよ」と言ったまま、もう戻ってこなかった。結局、ホンジュラ ス人たちのグループとトドス・サントスのグループは別々になって行動することになった。当然のところながら、彼らがその後どうなったかは不明である。その 際にファンの手持ちの所持金は二千ペソほどだった。メキシコを旅行中のファンの気持ちは、はやくもグアテマラの故郷に帰りたいというものであった。
トドス・サントスの一行は、トラックによるヒッチハイクで、アカプルコまで出て、そこからノガーレスを経由してアメリカ合衆国に入国し た。ノガーレスにつけば、そこにはコヨーテがたむろしており、[彼らはコヨーテの中には酷い連中もいることを知っているにも関わらず]最初に出会ったコ ヨーテを使って国境越えを敢行した。コヨーテはメキシコからアメリカに入ってから、テキサス州の町まで連れていってくれた。そこからは、もう移民局の係官 から調べられる心配もなく。安心して米国内を旅行することができた。テキサスのその町からフロリダ州の町まで行った。そこでは、仕事を探しているファンた ちのような連中に、仕事の口をさがすコントラティスタたちがおり、彼はそのままオレンジの農場で働くことになった。
ここでは、最初の数カ月を同胞と一緒に生活をともにして暮らした。果樹園での仕事はきつく、雨に濡れながら仕事をするのはとても辛かっ た。この時期には、月にすでに350ドルほどをグアテマラに送金している。送金の方法はマネー・オーダーと呼ばれる為替タイプの小切手で、受け取り人の名 前を指定して郵便でおくるというものである(キング・エクスプレスの手紙を心待ちにしていたトドス・サントスの留守家族たちは、カセット以上にこれを期待 していたのだった)。
やがて、弟のマリアーノから電話をもらい、彼がそれに先立つ1、2カ月から働き出したサウス・カロライナの豚の屠殺場兼食肉加工工場に就 職口があるとの連絡が入り、車で6、7時間かかるそこに弟が車(車種メトロ)で迎えにきた。食肉加工工場には300名ほどが働いており、ここでもメキシコ 人のコントラティスタを介して仕事を得、給料は日給単位で契約するが、週給で支払われた。彼の仕事は夜勤で、屠殺やその後の加工用の機械の洗浄にあった が、合衆国の役人が毎日検査にやってきて、その仕事内容がチェックされるので、仕事のできない連中はどんどん首になっていった。その中で、ファンは、職場 長の覚えめでたく、契約が途切れることもなく仕事を続けていくことができた。
この時点での仕送りは、月に五百から六百ドルにもなっていた。
彼が帰国を決めた主な理由はわからない、彼の帰国前にあった従兄弟の死だったのか、それともすでに帰る準備をしていたのか、あるいはその 両方にあったのかもしれない。
帰国した方法は、まず父親に連絡してトドス・サントスでの出生証明をとってもらいサウス・カロライナの自宅に送ってもらった。次に、旅行 代理店で飛行機の切符を買い、そのままアメリカを出国して、グアテマラに3時間で帰還することができたのである。グアテマラはおろか、アメリカの出入国管 理の係官はファンに対した詰問もすることなく、ゲートを通してくれたという。帰国したのは、98年10月である。
帰国後は、家族と過ごすことができて全くの幸せである。
チャンスがあれば、アメリカにもう一度行きたいかという質問には、肯定的に答え、また家族とならばぜひ行ってみたいとも言う。サウス・カ ロライナの職場長は、ファンの帰国に際して、「君がここを去ることは残念だ。もういちど戻ってきたら雇用してあげよう」という旨の発言をしている。
流入ドルマネーと、宅地や耕作地の拡大という伝統的エトスが結びつき、土地価格の高騰を生じた(これは投機のための購入ではないので、日 本のようなバブル経済現象は生まなかった)。また、大邸宅を構えるという誇示的消費(conspicuous consuption)から外国人観光客相手の民宿、バー、土産物店の開店に投資する者も現れた。もちろん、思いつき的な投資と、マーケティング感覚を もった投資では成否の行く末は明かであった。資本主義的な未来予測の能力のみならず、グアテマラ国内での景気や外国人観光客の推移を把握し、不測の不景気 に耐えるだけの資金的体力が、経済的成功の鍵であった。
そのような一時的な資金の流入が、村落内でのアルコールの消費量を高め、少年の非行を増加させたのだという風評が定着していった。少年非 行の原因について人びとは、学校の教師が子供たちをきちんと教育しないからであると糾弾し、その時たまたま少年非行グループのリーダーがアメリカ合州国帰 りの青年であり、小学校の先住民の教師——彼は海外旅行の経験もあり物知りであることから「人類学者」のニックネームを人びとから頂戴している——の息子 であったために、小学校教師を諸悪の根元とする暴徒がリンチ未遂事件をおこしたこともある。この暴動を止めに入ろうとして失敗し逆に襲撃の危機を経験した のは、村落の元町長であり、彼は足機織を所有し、現在は行商のマネージをおこなっているプチブルジョアであった。彼は1970年代初頭のグアテマラ革命後 の反動政権時期に少年期を迎え、北アメリカに本拠をおくメリノール修道会が支援した初期の奨学生であり、村落の近代化の洗礼を受けた1人であった。
このようなエピソードは、ドルマネーを中心とした〈外部〉からのさまざまな経済的ならびに文化的干渉に対して、伝統的なパターンで対応し たことによる一時的な混乱と、その後に引き続く〈外部〉との再調整の社会過程の事例とみなすことができる。もちろんその再調整過程は、ここで述べたように 非常に神経質で暴力的なものであった。
3.自画像をめぐる社会的闘争:〈暴力の被害者〉から〈国民戦線支持者〉まで
35年間続いたグアテマラの内戦は大きく2つの時期に分かれる。反体制的反乱軍人を中心としたメスティソ中心の軍事的前衛主義が中心だっ た東部山岳地帯と都市部でのゲリラ活動で特徴づけられる前期。マヤ系先住民の大衆動員を目論んだ西部高地での農村ゲリラ戦争の後期である。クチュマタン高 原の先住民社会に大きな影響を与えたのがこの後期の時期であり、政府軍による組織的な弾圧——公的な報告書では先住民への計画的かつ選択的な大量虐殺 (genocide)攻撃であったと総括されている——により、クチュマタン高地の共同体の社会活動は実質的に機能停止した[池田 2002]。
とくに1980年初頭のルカス・ガルシアならびにリオス・モント将軍による大規模なゲリラ掃討作戦では多数(数万人規模)の先住民が犠牲 になった。グアテマラ西部ではこの時期に大量の難民がメキシコ領内に流入したが、当時は難民キャンプ整備が十分でなく、グアテマラ国軍も国境を越境して難 民に対する暴力行為を続けたために、難民は遠くチアパス高原の麓から遠くはメキシコのカンペチェをはじめとした国境から遠く離れたのキャンプに収容される ことになった[ACNUR 2000:47]。
マイアミ州のインディアンタウン(行政都市名)に移住するようになるグアテマラ先住民難民の研究をおこなったアラン・バーンズ [Burns 1993]によるとクチュマタン高地のマヤ系先住民(カンホバル)は、メキシコからアメリカに不法入国した後、政治難民の認定を受け定着化の第一歩を記し た人たちが、その嚆矢であると指摘している。
トドス・サントスからのメキシコ領内の難民になった人たちには2つの移動のパターンがある。ひとつはこの村落から直接メキシコ領内に避難 地をもとめていった人たちと、暴力の時代に先立ってゲリラの大衆動員がもっとも盛んにおこなわれたイシュカン低地への入植を始めた人たちである。後者の人 たちは入植地への定住耕作を通して土地の所有を夢見て入植を試みた人たちであり、高地からの入植のプロモーションにはイエズス会をはじめとしてカトリック 神父たちが積極的に関与していた。
この時期の政府軍によるイシュカン地区への執拗なゲリラ掃討作戦の犠牲者は、イエズス会士のリカルド・ファージャ神父らの綿密な調査 [Falla 1994]により後に明らかにされたが、ゲリラとの戦闘はほとんど見られず、実質的には計画的に入植者そのものを殲滅する作戦にほかならなかった。
西部方面に展開されたゲリラ掃討作戦は、難民のみならず、ゲリラ自身もメキシコ領内に撤退することになった。またゲリラ兵士は、キャンプ における難民の自治活動に積極的に関与した。そのため政府軍はメキシコ領内に逃げ込んだグアテマラ難民は、左翼ゲリラないしは左翼のシンパサイザーである 旨のキャンペーンを張った[Kobrak 2003]。それゆえに、キャンプにいる難民は、グアテマラ国内で自分たちが帰還後にも左翼ゲリラのスティグマを貼られること、およびグアテマラが軍政か ら民政に移管されても、政治弾圧の復活を恐れて、国連が帰還事業を促進しても、それに呼応する人たちは当初は極めて少数であった。
他方、積極的にゲリラ運動に関与していた人たちは、より深く活動に関わった人ほど、グアテマラ国内への帰還が遅れ、またゲリラならびに軍 隊の両方から迫害を受けた人びとからみれば、元ゲリラ兵士の帰還は村落内に亀裂をもたらすトラブルの原因になると考えられた。元ゲリラ兵士は故郷に戻れな いどころか、長い間のゲリラ兵士としての生活により自分たちのエスニック・アイデンティティを失ったと表明する者もいる。あるいは新しい入植地において全 く新しい人生を切り開くものもいる[飯島 2001]。
和平合意後に、歴史事象としての〈内戦〉の評価は極めて多様である。それらは、同時に複数の意見が対立する論争的なものである。国民和解 委員会や歴史記憶の回復のプロジェクトが、内戦の犠牲者の多くがマヤ先住民への選択的虐殺であったことを示唆しているにも関わらず、そのような事実すら認 めない極右や軍事指示の政治家たちも多くいる。これまでにも退役軍人が年金の給付を求めて抗議活動をおこない、2002年から03年にかけて内戦防止のた めの元民兵組織(PAC)の人たちが政府からの経済的補償(=民兵従事期の賃金の支払いの代価)として各地で抗議行動をおこしたことは、統治する側にとっ ても内戦は解決済みの歴史的出来事ではないのだ。
キチェ先住民の人権活動家リゴベルタ・メンチュウの伝記的聞き書きを巡って、ディビッド・ストールがしかけた真偽論争[メンチュウ 1987; Stoll 1999]も、事実に即した議論よりも、グアテマラ国内の政治的文脈のもとでは、メンチュウらの人権団体への価値下落のためのスキャンダルとして、国内の 保守的論客に利用されるという事態に展開した[cf. 小泉 2002;太田 2001]。グアテマラのマスメディアは繰り返し、現政権FRG(グアテマラ共和戦線)でこの国の実質的な指導者ともいえるリオ ス・モント国会議長——1982年のクーデタ指導者で2003年大統領選では約18%の得票率(第3位)で上位2位による決選投票には残れなかった——が 西部高地の先住民族に支持し続けられていることを報じている。2003年の大統領選挙でも西部高地のウエウエテナンゴ県およびキチェ県では3割から4割の 得票率をとってFRGでは第1党を占めた。
先住民に最も過酷な暴虐を加えられた地域で最も高い支持という奇妙な現象を説明することは、メンチュウ=ストール論争へのコメントと同 様、ある種の政治的な立場の表明へと結びつく。右派は文字通りFRGやその候補者のこれまでの政策や未来への公約の正しさの根拠とし、左派あるいは人権擁 護派はそれとは反対に内戦時の大衆動員の戦術が、現在にも続く残存的影響(トラウマ)や人権弾圧のさまざま陰謀の存在を指摘する。ポスト内戦の時代にも人 権意識の向上が見られず治安機能が十分なものでないために、西部高地での犯罪者のリンチ事件が後を絶たないが、これを内戦時からの暴力の連鎖で説明する者 もいる。もちろんグアテマラ国内で調査をする社会学者の関心は、従来のような暴力の記憶や歴史を記録する作業から、暴力の連鎖などの事象検討をはじめとし たポスト内戦における社会問題——都市化しグローバル化する先住民族のエスニック・アイデンティティの変化、近年増加する若者の非行化、持続可能な開発、 女性のエンパワーメントの具体的課題の探求まで——にシフトしつつある。
好むと好まざるとに関わらずマヤ系先住民は、国内外から貼り付けられる表象との不断の交渉をおこない、つねに自分たちは何者であるのかと いう議論に巻き込まれている。今日では常にスタティックなエスニック・アイデンティティを人びとが持ち続けると信じる研究者は少ないだろう。しかしなが ら、現実の先住民運動の中では、伝統的な表象つまり、ローカルな共同体を超えた「我々先住民族、我々マヤ民族(Somos indi'genas, somos Mayas)」という意識表明の根拠として、マヤのカレンダーや宗教的世界観など、歴史的にスタティックな民族表象が動員されている。
このような過激に矛盾する近代的な表象と伝統的なる表象の共存ないしは併置について、マヤの先住民の人たちはさほど驚かない。人びとは社 会が一枚岩ではないことを自覚している。より重要なのは、さまざまな文化的コードを動員して、自分たちないしは自分たちのグループの自画像がどのようなも のであるのかを説明するのかに専念することであり、多様性に対する驚くべき寛容性である。このような事実をどのように理解すべきであろうか。
4.グアテマラ国民化現象:グアテマラ国民でありマヤ先住民であること
マヤ先住民によるアイデンティティの覚醒運動は、古くは1940年代のアドリアン・チャベス(1904-1987)によるポポル・ヴフ神 話の翻訳とそのキチェ語の表記法の開発に始まると言われている。ただし、今日言われているマヤ先住民の汎マヤ運動(Pan-Maya movement, Maya activism)は1970年以降から西部高地でマヤ系の市長が当選するようになった頃からをさして考えてもよいだろう。1985年制定憲法では、独自 の慣習や言語をもつことを個人の権利として規定しており、先住民族の権利も承認された。その翌年に就任した民政の大統領のビニシオ・セレソ大統領は離任直 前の1990年になってようやくマヤ言語アカデミーの設立に関してサインをした。92年のリゴベルタ・メンチュのノーベル平和賞受賞という社会的衝撃を含 んだ90年代前半の政治的混乱を経て、90年代以降、汎マヤ運動は非常に活発になる[e.g. Fisher 2001]。
何を汎マヤ運動であるのかを差し指すのかということは難しい。もっとも緩やかに、その内容を説明すると、マヤ民族の内部的な多様性を超え た統一したマヤ先住民性を意識したさまざまな社会活動ということになる。その範囲は、国家によるマヤ言語学アカデミーや文部省官僚から、さまざま国内外の 支援を受けたNGO団体、さらにはマヤ系の印刷出版社を含む企業家などが、一時的ないしは永続的に行っている公的あるいは私的な活動ないしはそれらの連合 による活動におよぶ。そして、その運動の目的は、グアテマラのポスト内戦時代の国是であるにも関わらず未だ実現途上にある多民族・多文化・多言語社会の実 現を国家に対して要求することにあり、活動の中身は、マヤ言語や文化——それには保健も含まれる[池田 2001:321-2]——の尊重・保存・進展を 主軸に展開している。
マヤ運動の第一の特徴は、排外主義的な政治運動の要素が少ないことにある。国家から強い抑圧や弾圧を経験した民族集団はしばしば、オル ターナティヴなネーションを強権的な手段に訴える〈エスノ=ナショナリズム運動〉を取るのに対して、なぜグアテマラにおける汎マヤ運動はなぜ穏健で国家と 融和的な性格をもつのであろうか。それは、汎マヤ運動の歴史性と関係しているかも知れない。1976年にケツァルテナンゴ県サンファン・オストゥンカルコ でマヤの市長が選ばれ、1997年にグアテマラ第二の都市ケツァルテナンゴにマヤ先住民市長(Rigoberto Queme')が選ばれたのは、その支持母体はともに70年代に生まれたマヤ文化運動の団体で政党よりも緩やかな政治連合体であった。汎マヤ運動は、歴史 的過程のなかで、既存の社会制度の中で自らの存在を主張する際に、既存の権力構造と非競争的に交渉し、権利を獲得してゆく戦術を身につけていったのではな いかと考えられる。
先住民族——マヤはグアテマラでは人口上は少数民族ではなくむしろ多数派である——が国家と対決するのではなく、抑圧された権利を回復し てゆく運動戦術を成熟させてゆくことができたのだろうか。その成功の陰には、先住民の人権保護に関する国際環境の整備という追い風があったと言える。 1980年代にグアテマラ国外で始まった周辺諸国の後押しによる内戦終結のための和平交渉や、1990年初頭の国際社会は和平の条件としての先住民の言 語、文化、慣習の尊重を盛り込むように働きかけている。
類似のタイプの市民運動も多い。1993年発足のカトリック教会の「歴史的記録の回復プロジェクト」や翌年発足の「歴史の真相究明委員 会」が推進した、被害者と被害者の家族や加害者——後者は圧倒的に少ないが——に対しておこなわれた虐殺の記録の収集作業は、事前に念入りな啓発活動が行 われ、インタービューにも先住民言語が使えるような環境を整備した。このような活動は、対話を通して平和を構築するという運動のビジョンを多くの人々にア ピールした。和平合意後には観光客と共にさまざまな国際援助団体もまた多くグアテマラに降り立った。穏健なマヤ文化の自己提示は、その新しい国際社会への 参入にもおいてもプラスに機能したのである。
もちろんこれらの運動に対する様々な政治経済的バックラッシュもある。メスティソ住民の先住民族や少数民族に対する根深い民族差別——グ アテマラではラシスモ(racismo)つまり人種主義の用語が使われる——が今なお続いていること。すでに述べたように人権活動家への脅迫や暗殺は、汎 マヤ運動の活動家たちにも及んでいることがあげられよう。経済状況の悪化は、人権問題に関する対策を後回しにする点で、汎マヤ運動にとって強い向かい風に なる。対外援助や海外送金という非永続的な外貨流入による景気の維持という経済的脆弱性が露呈しつつあること。韓国企業を中心とした関税特恵のマキラドー ラ企業がグアテマラ国内の人件費の高騰によりホンジュラスやニカラグアあるいは中国やベトナムに逃避すること。悪化する少年非行と都市犯罪、麻薬取引、賄 賂の横行や、治安の悪化など。とくにFRGが政権を執った2000年以降の4年間は、治安の悪化に対抗する一種の強いグアテマラ国家像が打ち出され、汎マ ヤ運動には大いなる逆風の時期であった。
もうひとつのバックラッシュは汎マヤ運動を見守る知識に対する理論的な反撃である。汎マヤ運動は一種のナショナリズム的原理主義であり、 国民統合への妨害要因だと主張する元左翼の論客もいる[e.g. Morales 1998]。先に触れたようにメンチュの自伝に対するストールの批判も、これに拍車をかける。あるいは、汎マヤ運動が多元主義を指向しながら、最終的には グアテマラの国民としての統合を目指すゆえに国民国家の枠組みを超えることができない点で狭量だという批判も見受けられる。しかし、これらは多様で緩やか な運動全体を、個別事象の過度の一般化をおこなっている点で誤認している。汎マヤ運動の特徴は、ひとつの国家のなかに多元的な価値を認める多元主義への途 上のプロセスを指向し、これらは未だ完成途上にあるからだ。汎マヤ運動は、グアテマラの同時代を生きた人びとが他方で難民や移民を選択せざるを得なかった 社会状況の中から生まれてきたことを考慮する必要がある。
これまで2名の男性のノルテへの移民の経験を紹介したが、最後に同じような経験をもつ1人の男性ベンハミン(仮名)のエピソードを紹介す る。
【ベンハミンと私】
ベンハミンの渡米については、1998年7月からトドス・サントスでフィールドワークを開始した時から聞いており、その8-9月のベンハ ミンの元の雇用主の息子ファンシートの洗礼の時に、パナハッチェルに住むドン・ビセンテから、当時電話で渡米したベンハミンと話し、ベンハミンが米国の移 民局に身柄を拘束された後に釈放され、わずかの許可(permiso)期間だけ働くことを許されただけなので、もうすぐ帰ると、私は聞かされていたので あった。そのため、98年の暮れにトドス・サントスを再訪した際に、彼の家を訪れたときに、米国にまだ滞在中であったことを驚いたことがある。
このように聞く範囲では、移民局による拘束は彼にとって受難かと私に思われていたが、99年7月31日にトドス・サントスで再会した時 に、米国に対する好印象を語っているのがとても気になった。しかし、以下に述べられる彼の渡米話によると、彼が米国に対して好印象をもった最大の理由は移 民局による拘束期間中の厚遇によるものであるという、皮肉な現実がよくわかる。
[内容]
彼がトドス・サントスを出発したのは、98年3月5日、メシージャの手前から、道を折れて国境に面した小さな町グラシアス・ディオスから メキシコに越境した。アメリカに旅立つ前は、多くのトドス・サントスの人たちが、山中には蛇、熊、虎など動物がおり危険だと言っていたが、実際は山中を歩 くだけで、動物などは出てこなかったという。トドス・サントスから一緒に旅立った道中は全部で17名いた。ソロマのコヨーテに支払った費用は7千ケッツア ル(当時は1ドル=6ケッツアル)、それ以外に5千ケッツアルを準備して持っていった。
コミタンの町に入るまでに1日、サン・クリトバルの町に入るまでは、1日半、ずっと山中を歩いてたどりついた(一般の道路はメキシコの移 民局による車両の取り調べがあるので、主要な道路を避けて彼らは移動する)。山の中では、コヨーテがそれぞれの集落でトルティージャや食べ物を売っている 場所を知っており、食物を調達してくれる。
サン・クリストバルでは宿屋に泊まり、移動はバスによったりトラックで移動したが、ほとんどはトラックと徒歩(主要な移民局のチェックポ イントを越えるため)で移動した。そのようにして、メキシコではおよそ20日間かかって国境のファーレスまで移動した。メキシコ国内で、一度、腕時計や金 目のものを盗まれた(所持品を全部やられたのか一部なのか被害総額は不明)。
ニューメキシコに入ってすぐに、アメリカの移民局の係官にトドス・サントスから来た一行は一網打尽に捕まり、それぞれ各自取り調べを受け た。
複数のトドス・サントスの不法移民者が、取り調べ担当の係官から事情徴収を受けた。ベンハミンは、入国の目的を聞かれて「自分はアメリカ で働きたい」と述べた。取り調べ官は「君の行った行為はアメリカでは違法行為である」と述べたが、ベンハミンは「私はそれを知りませんでした」と答えた。 係官は「君はどこから来たのか?」ベンハミン「グアテマラから来ました」。係官「グアテマラは内戦でまだ大変なのか?」ベンハミン「いいえ、96年からは 平和になりました」と。答えている間に、他の取り調べを受けている仲間の返答を聞いていると、グアテマラはまだ政治的に危険な状態にありますと嘘の答えが 聞こえてきた。ベンハミンは、彼が後に移民局に身柄を拘束されても厚遇された理由を、自分が正直に移民局の係官に対して答えたことが幸いしたと回顧してい る。
さらに彼は別室に連れていかれた。そこでは「不思議なことに」グアテマラの大きな地図が貼ってあった。そこで係官は「君は読み書きができ るのか」と質問し「少しなら読み書きできます」と答えた。すると「では、グアテマラのどこから来たのか、この地図で示すことができるか?」と質問するの で、「ウェウェテナンゴのトドス・サントスです。ここです」とウェウェテナンゴの場所を指し示すと、係官——ベンハミン「この野郎(cabron)」と表 現する——はニヤニヤ笑って、再び別室へベンハミンを連れていった。そこで全身にわたって健康診断を受けながら次のような質問を受け、そしてベンハミンは 答えた。「お前はタバコは吸うのか」——「吸いません」。「ビールは飲むのか」——「飲みません」。「マリファナやドラッグやったことがあるのか」—— 「ありません」。
このようにして、トドス・サントスの一行17名のうち、5名はすぐにグアテマラに強制送還された。ベンハミンによると、これは正直者で身 体壮健な者を移民局が選別したと解釈している。
彼は7日間移民局に拘束されたが、その間に「君は弁護士をたてることができる。弁護士と話したいか?」と質問されたので、「そのようにし たい」と答えたら、弁護士がベンハミンに接見して、米国での労働の意志を聞いてきたので、当然働きたいと述べると、弁護士はベンハミンに「君はすぐにグア テマラに戻る必要はない。滞在期間を延長できるように手配しよう」と答えた。結局30日間の滞在延長の許可をもらった。
ベンハミンによると、移民局の収容所はすばらしいところで「3度の食事、タオル、歯ブラシ、"Colgate"(練り歯磨き)、衣服、な ど全部」を支給してくれた。「メキシコの移民局では、持ち物を全部とられ、挙げ句の果てには殴られると聞いていたけど、アメリカの移民局の係官は、殴るど ころか我々をとても丁寧に取り扱った」。
ニューメキシコの収容施設を出て、弁護士に相談したら、「ニューメキシコには空港がないので、テキサスのエル・パソから飛行機にのって君 の好きなところへ行けばよい」と行われた。ワシントン州のトドス・サントス出身の従兄弟に電話したら、シアトルまで来いと言われた。シアトルから3時間車 で移動したところにワシントン州シェルトンがあり、そこでトドス・サントス出身の多くの労働者が働いている。彼はそこで滞在中に、メキシコ人の牧師を紹介 された。エルサルバドル人の妻をもつこの牧師は、弁護士に電話してくれて、ワシントン州の移民局に係官と話してくれて1年間の滞在許可書(1999年7月 29日まで)——グアテマラ人労働者の間で「mica」と呼ばれている——を発行してくれた。micaの現物を見せてもらったが、ただ単に 「Emproiment Authorization」と書いて一年間の労働許可を記載してあるカードだった。
ワシントン州での労働やアメリカの印象は、ベンハミンに言わせると「最高だった」。彼の仕事は山のなかでla brochaと呼ばれる草の葉を刈って出荷場に集めることだった。それ以外には、町の花壇を作ったり整理したりした。ブローチャの仕事は、朝4時に起きて 2時間かけて山まで出かけて6時から11時まで働くというもので、給料は日給の出来高払いで、一抱えのブローチャを摘み取ると35セント、50ドルから 70ドル程度稼いだ。彼が働いたところでは、50名近くのトドス・サントス出身の人がいて、そのうちの10名ほどが女性だった。シェルトンでは、ひとつの 大きな家を借りて10名ほどが住んでいて、一月に80ドル支払っていた。彼はマネー・オーダーの小切手を切ってビセンタのところに手紙と共に(ベンハミン は文字が書けるのでカセットではなく手紙を送っていた)送金していた。
滞在期間が切れる前に、モハードとして渡米に使った金取り返すばかりでなく、十分に金を稼いだので、帰国しようと決心した。飛行機の切符 を買いに旅行代理店にいってグアテマラ行きの切符のことを相談すると、パスポートを要求されたが、自分はグアテマラ人で、これ以外にはないとMICAの許 可証を見せたり、移民局へ問い合わせてくれたりして、切符が発行された。5月24日の夜にシアトルを発ち、ロサンゼルス経由のUA便(ちなみにグアテマラ に直行する私もこの便をよく使う)で25日の早朝にグアテマラ空港に到着した。
グアテマラの入国管理官は、パスポートの提出を求めたが、ベンハミンはグアテマラの住民証明書——ふつうは身柄を証明するものを一切持た ずにモハードになるのに彼はこの証明書を携帯していたのは異例である——を係官に見せて「私はモハードで、この証明書(cedula)しか持っていない」 と言うと、女性の係官はさも困った様子で「さっさと行きなさい」と通してくれた。また税関では、彼は一杯の荷物——テレビやビデオや靴などで——を持ち込 もうとしていたが、係官に「自分の身の回りのジャンパーや靴、それに子供へのおもちゃのお土産だけですと」告げて、そこを通り抜けて無事帰国することがで きた。
彼は翌年(2000年)の4月ごろ再びコヨーテを使って渡米し、ワシントン州で働きたいと希望する。4月の渡米は、トウモロコシの植え付 けなどが完了する時期を想定しているというふうに語っていた。また、彼は儲けた金でピックアップのような自動車を帰国して買って、それを元手に商売したい という。自動車を購入して運送業に従事するのは、彼によると一番効率のよい——需要もあるし確実に稼げる——手段であると言及した。
移民や難民あるいは人類学者を含む観光客は、恒久的なホームを一時放棄して、未知のフロンティアにおいてサヴァイバルを試みる人たちであ る。それに比べて汎マヤ運動では、ホームに留まり、敵愾心のある隣人や暴力と対峙しながら、それらと粘り強く交渉を通してサヴァイバルする戦術が展開され る。それはホームの周囲にある異質な権力に巻き込まれながらも不断にそれらの困難と交渉することに他ならない。そこでのやり方はある方法が失敗すれば、全 く反対のやり方を選択しなければならないという、一種の折衷主義(eclectism)を採用する。しかし、そのようなやり方を我々はイデオロギー的に日 和見主義者(opportunist)であるなどと言うことはできないだろう。私は汎マヤ運動の戦術は、(まったく異質な対比ではあるが)一時的なホーム を構築してそこでフィールドワークを展開する人類学者のそれと極めて類似するという心証を抱く。両者も異質なものと折衝し、対話しながら、自己の存在を主 張するからだ。
5.周縁から周縁をみる眼:人類学の可能性
人類学者は人びとが生きるコミュニティの場において研究する。冒頭で触れたギアツが実際に指摘したのは、次のような言葉であった。「研究 の場所は研究の対象ではない。人類学者は村落(部族、町、近隣集団……)を研究するのではなく、村落において研究するのである」[ギアーツ 1987: 38 ; Geertz 1973:22]。この指摘は、人類学者はローカルな場を研究するものであり、実際にまたそうであったという古典的人類学が主張してきたローカル化戦略の イメージに異論を唱えた初期のものの一つである。ギアツの主張は、トランスナショナリティ研究をおこなうことの意義(意味)へとどのように結びつくのだろ うか。
言うまでもなく〈村落において研究する〉ということは、人類学者の活動と現地の人たちとの相互交渉への観察や洞察を導くものである。ギア ツもまた人類学の理論構成は「諸事例を通して(across)一般化するのではなく、諸事例の内部において(within)一般化する」[ギアーツ 1987:44 ; Geertz 1973:26]と表現している。しかしながら、ジェームズ・クリフォード[2002:32]によれば、このような姿勢は依然として、マリノフスキーが切 り開いたフィールドワーカーの現地社会への〈居住〉の概念の延長上にあるとのだと批判する。クリフォードは、ここから出発して「旅する文化」というタイト ルの論文において、ローカルなものを研究する人類学者の姿勢とその研究の対象化の方向性を問題視する。「旅する文化」つまり、人類学者がつきあうイン フォーマントや研究対象たる文化的事象そのものが、実際は移動したりディアスポラ状況にあるものであり、決してローカルな場に固定されていないと彼は主張 する。そしてローカルなものとディアスポラなものはより複雑で弁証法的な過程にあることに注意を促すのである。
クリフォードが、実際はディアスポラ的な性格をもつ研究対象をローカルな場の固有なものであると判定するようなこれまでの人類学が、文化 研究に提供してきた思考のタイプ、つまり文化の本質主義あるいはアパデュライのいう「メトミニー的凍 結化(metonymic freezing)」——「さまざまな部族・民族の生活の一部もしくは一側面がそれらの人びとをひとつの全体として 縮約し、そして人類学的分類学におけるその理論的な地位を構築するプロセス」(クリフォード 2002:35)——という姿勢を批判することにあった。人類学者が現地の文化をローカル化する戦術の中に、これまでの人類学の認識論的限界をクリフォー ドは見るわけだが、それは結果的には、人類学者の活動上の〈アウトカム〉が微妙な目標誤認の結果、ねじ曲がったものになったとするのだ。彼は、人類学の目 標を、ローカル化され、凍結化される本質への探究を止めて、旅するインフォーマント、旅する表象へと関心の焦点をシフトすることを提唱する。クリフォード の議論は込み入っており、このような代替案のみを単純に提示するものだけではないが、問題関心のシフトという提案も含まれるとしてみよう。
しかし私はこれとは、異なった提案をおこないたい。それは単純な事であるが、ローカルな場に戦術的に参入する人類学者自身のディアスポラ 性に焦点をあてることだ。あるいは、人類学者の活動のトランスナショナリティ性について思い起こすことだと言ってもよい。ここで言うディアスポラ性とは、 異文化の経験を通して、自己の文化の理解に到達するという、あの懐かしい古典的な人類学のテーゼを成就するための、実践的条件である。
汎マヤ先住民運動が、ローカルな意識を超えた“マヤ世界”の連帯を指向するのは、ある意味で「伝統の創造」という性格をもっている。マヤ の伝統に関する知見は、これまでグローバルなマヤ研究の成果や運動支援のネットワーク抜きには成立し得ない。したがって、汎マヤ運動がもつ指向性は脱ロー カル化する、リージョナルな運動であり、さらには(マヤの先住民の移民や難民を通して)トランスナショナルな広がりをもつようになった。マイアミのイン ディアンタウンでは、不法移民の生活の生活を強いられている北米のマヤ先住民の人たちは、自分たちのローカルコミュニティの中に、独自のマヤ世界を作り上 げる[Burns 1993]。自分たちの置かれているディアスポラ状況において自分たちがデラシネであることに自己の再規定への要求を促し、移民の土地というローカルな場 において自己の文化をふたたび想起し、それを構築する。
これはギデンズ[1993]のいう再帰性の概念でとらえてもよいかもしれない。ここで重要なことは、ディアスポラ状況が生み出す再帰性の 概念は、ローカルとグローバルという二分法が否定されているのではなく、むしろこのような二分法を出発点にした弁証法的プロセス(=二分法から脱出を模索 する)の中でより鍛えられているということだ。
この報告の冒頭で「我々はトランスナショナルな場における社会現象そのものを研究するのではなく、トランスナショナルな場に身をおいて研 究するのだと」と私は述べた。人類学者が他の学問分野の研究者に、このように宣言することができるようになる社会的条件とは何であろうか。それは、人類学 というディアスポラ的実践においてが、彼/彼女が繋留されなければならないローカル(=真であろうが仮であろうがホームを構築する)な場を、現地の人たち と相互に結びつける、より手の込んだ手順に他ならない。もちろん現地の人たちもまた、このトランスナショナルな時代においてディアスポラ性を我々と共有し ている。従って(あたかも新しい研究対象領域が現れたかのように)トランスナショナルな場を学問的に凍結し、その一部をもって高度な一般理論化をおこなう 必要はない。むしろ、トランスナショナルな場において研究に活動する機会をより高度に組織化することだ。このことは、空間的意味において古典的人類学の研 究の場=フィールドに戻ることを単純に意味するように思えるが、トランスナショナルな旅について自覚した人類学者の身体は、(これらの反省的な認識の回路 を迂回して)それとは異なったハビトゥスを実践してくれるはずだ。楽観的に見えるが、私はこの試みに賭けたい。
'Tiempos recios', de Vargas Llosa, 2019/10/29
28/11/2019. Presentación de libro 'Tiempos recios', de Mario
Vargas Llosa, en la que el autor hispanoperuano nos adentrará en esta
nueva novela, que conecta con la aclamada 'La Fiesta del Chivo' y funde
la realidad con dos ficciones: la del narrador que libremente recrea
personajes y situaciones, y la diseñada por aquellos que quisieron
controlar la política y la economía de un continente manipulando su
historia.
【文献】