グローバルポリティクス時代の国際医療協力と人類学
「グローバルポリティクス時代の国際医療協力と人類学」
医療援助協力ボランティアの現在
[出典]地域研究企画交流センター+長崎大学附属熱帯医学研究所主催・シンポジウム「熱帯医学と地域研究」2004.02.03-04:2 月4日発表原稿
池田光穂
1.はじめに:我々の足下を眺めること
私の発表は、過去1世紀を超える国際医療協力のトレンドを押さえ、おもに文化概念を軸に社会の変動と開発の関係を理論化してきた人類学 ——詳しくは批判的人類学(critical anthropology)——の視点を紹介する。この作業を通して、政治権力の行使が地球規模大に発展した今日、つまりグローバルポリティクス時代の社 会開発医学(Medicine for Social Development , MSD)——熱帯医学や開拓医学は発展途上地域に適用されるので地域性を超えたツールとしての機能面や理念を強調してこのように新造語で臨む——が、どの ような位相にあるのかを検討する。
本発表は、次のようなストーリーで展開する。まず、医療のボランティア活動以前にどのような保健医療協力があったのか、その大きなトレン ドを指摘する。次に冷戦構造の真っ直中の1960年代に生まれた制度的海外ボランティアについての特徴をのべる。制度的海外ボランティアは、貧困の撲滅と いう理念と、中程度の水準の技術(middle range technology)に支えられた社会開発を兼ね備えた点で、保健医療活動はボランティアにとっての理想的なモデルになった。また、1970年代後半の プライマリケアの普及は、ボランティアの活動と社会システム変革に対して社会主義革命とは別の変革の回路のイメージを提供し、その手法は自由主義陣営にお いて爆発的に普及するにいたった。このようなプライマリケア理念を「イデオロギーなきイデオロギー」と私は呼ぶ。プライマリケアを理想とする援助モデル は、現地社会への変化を促しただけでなく、ボランティアが彼らを送り出した社会に最終的に帰還することを通して、開発地域の生活文化にも影響を与えた。そ れをボランティア派遣のブーメラン効果と呼んでみた。このような社会的プロセスゆえに、カテゴリー的にはボランティアとは正反対と考えられる「外国人労働 者」などの社会的弱者の存在が浮かびあがり、ボランティア手法は開発地域の福祉のシステム手法にも影響を与える。ポスト冷戦期の今日、グローバリゼーショ ンに抵抗する過激な草の根NGOが、WTOや世界銀行が主導するネオリベラル経済に直接行動をもって挑戦する風景が当たり前になったが、これらの運動の闘 士たちの、思想的ルーツは、かつての制度的ボランティアと現地の側のカウンターパートであることを最後に指摘する。
2.保健医療協力におけるボランティア活動前史
医療援助の歴史を、19世紀以前から続いていたキリスト教宣教師たちによる布教と治療からはじめることはできるだろうか。宗教的ドグマへ の帰依の見返りとして医療を施すことは、医療を手段とみなすことである。しかし、それは近代医療そのものがドグマと化し、医療そのものへの帰依を求める医 療援助とは異なる。したがって、近代化に伴う西洋開発国による植民地や低開発国への組織的な医療介入を、今日的な意味での医療援助のはじまりと私は考え る。
歴史を振り返って、医療援助を行ってきた団体、すなわち低開発地域にやってくる組織について整理してみよう。それらの団体は次の4つのカ テゴリーにわけられる。すなわち(1)慈善団体、(2)政府機関、(3)国際機関、(4)非政府機関、である。
まず、開発国の慈善団体の典型例はロックフェラー財団であり、第二次世界大戦以前から先駆的で主導的な役割を担ってきた。その次に大きな 勢力となったのは米国国際開発庁(USAID)、日本の国際協力事業団(JICA)などの政府機関である。これには米国の平和部隊(Peace Corps)、日本の青年海外協力隊(JOCV)など制度的海外ボランティア団体も含まれる(池田 2001)。政府開発援助(ODA)は国際協力におい て歴史的にも資金的にも大きな比重を占めてきた。マーシャルプランや戦後補償など二カ国間で行われてきた援助の最も基本的な型を担ったのが政府機関であ る。この援助パターンは、資金や技術が開発国から低開発国へ一方的に流れるという点で、宗主国から植民地への援助パターンをそっくり踏襲したものである。 援助団体の第三勢力は、国連の諸機関、世界保健機関(WHO)、世界食糧機関(FAO)、世界銀行などの国際機関である。これらは戦前に国際連盟の枠組み で先駆的な試みがなされたが、その規模は非常に小さなものであった。国連などの国際機関は第二次大戦後に、冷戦構造のなかで援助合戦がエスカレートし、そ の調整役としての機能が成長し、1960年代以降、第三世界の発言権が強まるとともに国際協力のより強力な調整機関としての役割を果たすことになった。4 番目に、急成長を続けているのが非政府組織(NGO)や非営利組織(NPO)である。宗教団体を嚆矢とするNGOの歴史はきわめて古いが、援助活動の自由 裁量の大きさにおいて、それまでの団体の活動の欠点を補うものとして期待もされ、実際にその活動自体の内容もきわめて多様である。NGOは、個々の団体の 活動が比較的小規模で成果の評価を出しやすく、また柔軟な対応ができる。これらの団体の数や資金の総額は年々成長してきている。
以上の4つの団体は医療協力の歴史において次々と役割が入れ替わってきたということではない。むしろ次々と重層的にこの領域に参入してき たのだ。これは、医療援助のパターンが歴史を経るごとに多様化していることを意味する。したがって、現在では医療援助を社会学的に分析する際に、その背景 に単一のイデオロギーを見つけだそうとすることは難しい。援助の理念や方法において、もはや普遍的で規格化されたものに理論的影響力はないと言ってよい。 この多様化には、医療援助に従事する応用人類学者の活躍も一役買っている。一九七〇年代後半から、米国で応用医療人類学のタイトルで学位をとった多くの人 類学者が国際機関やNGOで働くようになった。さらに、八〇年代中期にはアメリカの人類学の博士号(Ph. D)取得者の半数以上が、大学や研究機関ではなく連邦政府、州政府、非営利団体、コンサルタント会社などに就職している(Hill 1984;AAA 1987)。
現在の深刻な問題として、難民や内戦が発生したり、低開発国における都市への人口集中や貧富の格差のエスカレートなどによって、局地的な 問題が急におこることがあげられる。局地的な民族紛争や内戦による新たな健康への脅威への組織的な救援(relief)が、医療援助の活動として重要視さ れるようになってきた。この種の問題は、これまで政府機関や国際機関が取り扱ってきたような低開発国への医療援助という枠組では対処できなかったものであ るが、それらを医療援助の枠組のなかに組み込もうとする動きもある。他方、援助が肥大化するなかで、政府開発援助や国際機関における不正や腐敗など、大規 模な組織がもつ構造的欠陥も指摘されている(ハンコック 1992)。医療援助はもはや政府開発援助が一般化してきたような形式では対処することができないのである。
それとともに、人びとが抱く健康の概念も変化してきた。健康は万人共通の天賦の権利という枠組は変わらない。しかし、世界的なレベルでは それを維持することが不可能であり、絶え間のない努力で部分的にしか達成できていないことを人は不断に意識せざるをえない。ネオリベラルな政策をとる途上 国では、医療や福祉の部門を民営化したり私企業にゆだねて、統治術としての健康の管理を実質的に放棄しつつあるものも含まれる。もはや、宙に浮いた政治的 に中立な健康を議論することは今日においては意味をもたないといえる。このことは、グローバルな感染症対策においてWHOなどの医療機関が、情報公開を尻 込みする国家に対して露骨な衛生政策批判をおこなうことにも現れている。1世紀以上前のルドルフ・ウィルヒョウが言ったものとは、全く異なった意味で「医 療は骨の髄まで社会科学」になったとも言える。
3.制度的海外ボランティアの誕生
1961年、アメリカ合衆国は青年を中心としたボランティア組織である平和部隊(the Peace Corps)を創設した。これはジョン・F・ケネディが大統領選挙の遊説中に公約したものであるが、平和部隊の構想は上院と下院の二人の民主党議員の発案 によるものだった。彼らがこの計画を熱心に進めたのには理由があった。戦後のアメリカによる低開発国への援助計画ポイント・フォーが現地住民の支持を得る ことができず失敗しつつあったこと、冷戦構造の中で援助競争によって物量ばかりが増加して、当初の人道的かつ理想主義的な援助施策が後退したことなどであ る。平和部隊はアメリカの国民の多数の支持を受けて出発した。
私は、今日における海外ボランティアの制度的派遣の出発点はここにあると考える。なぜそうなのか。次の3点(*1)を指摘したい。
(1)ボランティアが若者の技術者や教育者であるとされたこと。
(2)ボランティアは草の根レベルでの活動が期待され、現地にとけこむように訓練されたこと。
(3)ボランティア派遣という制度は、〈低開発国に派遣される特殊な労働者兼観光客〉を結果的につくりだしたこと。
この3点において20世紀後半に低開発国に派遣されるボランティアの今日的スタイルが確立したのである。
以下の議論では、制度的海外ボランティアの派遣のスタイルが、ボランティアを送り出した社会に対してどのような文化的影響力をもたらしつ つあるのか、その発展の足どりを自らの体験を通して考察してみたい。私は合衆国の平和部隊をモデルとして1965年に創設(*2)された日本の国際協力事 業団・青年海外協力隊に1980年代に参加し、中央アメリカのホンジュラス共和国に三年間派遣された経験をもつ。私の「任地」となったホンジュラスでは保 健省の媒介動物病対策局と疫学局に属し、マラリアやデング熱対策ならびに村落住民の医療行動の動向調査とその改善に取り組んだ。したがってここでの議論 は、当時の私自身の体験や現地で知り合った平和部隊等のボランティアや彼らの援助活動などから知り得た情報によっている。
4.イデオロギーなきイデオロギー
かつての低開発国への人道的援助の主要な動機とは「貧困、病気、無知」の根絶にあった。それらに対する処方箋は、それぞれ村落開発や農業 改良、医療援助、教育の充実である。制度的ボランティアの特徴は、若者——後にその年齢の範囲は広がるが——の技術者や教育者が村落で活動することにあっ た。疾病との闘いは、個別の治療に従事する医師や看護者、公衆衛生活動に従事する普及員や社会教育者たちによって開始された。最初の計画は近代的な病院を つくり、そこを活動の拠点にすることだった。病院医療とその維持管理には、恒常的に資金が投入される必要があったので、長期的な資金調達が期待できない低 開発国では計画はすぐに挫折した。その後は公衆衛生的な医療を推進させることに力点が移った。小児への予防接種や下痢性疾患による脱水症状の改善、簡易ト イレの設置、家族計画、栄養指導など日常生活において疾病を防ぎ、健康を維持してゆくための草の根レベルでの医療活動は、今日ではプライマリヘルスケアと 呼ばれている(池田 2001)。1970年代後半のプライマリケアの普及は、ボランティアの活動と社会システム変革に対して社会主義革命とは別の変革の 回路のイメージを提供し、その手法は自由主義陣営において爆発的に普及するにいたったと言える。
プライマリヘルスケアをめぐる専門家の論争を繙けば明らかなように、この保健施策をどのように評価するのか、あるいは貧困のような疾病の 社会的原因をどこまで制御するのかという政策的問題へと常に突き当たる。プライマリヘルスケアの様々な施策は、直面する保健上の問題が政治化することを避 け、あくまでも疾病を公衆衛生学的にどのように制御するかという技術論へと歴史的に収斂していった。もちろんこのことは医療関係者の政治的意識が希薄で あったことを必ずしも意味しない。彼らの中には民主的で現有の制度に対する厳しい批判者も多い。しかしながら自分たちが依拠している医学体系こそが〈自分 たちの道徳を具現化する道具>でありかつ、それ自体が〈住民に対して服従を迫るイデオロギー〉であることを意識する人は少ない。その意味でプライマリヘル スケアはイデオロギーなきイデオロギーだった。アルマアタ宣言は旧ソビエト連邦のかってのトロツキーの流刑地のカザフスタンで発せられたが、自由主義陣営 からは社会主義イデオロギーの変種と疑われ、共産主義陣営からはプチブルジョア・イデオロギーとして断罪されたのである。
現地の保健活動に深く関われば関わるほど、自分たちの信じてきた医療体系が時代や社会の文脈によって決定されることを多くの人は期せずし て学ぶ。つまり一種の文化相対主義的なものの見方を獲得するという現象も同時に起こった。そのような中で自分たちが現地の人々の価値観を反映させる計画を 立てたり、医療が社会に与える影響の評価の時間的尺度を、それまでよりもより長期的にみるようになるのである。
5.草の根活動のブーメラン効果
青年海外協力隊に参加する多くの人たちが感じることは、ボランティアたちの強烈な個性である。私は赴任中の三年間に世の中によくもこんな 人がいるものだと幾度感じたことだろうか。もちろんそれは私の仲間が私自身に抱いた感想でもあっただろう。協力隊は日本社会では適応できない若者を一時的 に雇用する政府機関なのではないかと冗談半分に仲間と言い合ったほどである。私は当時の協力隊事務局の役人から直接伺ったことがあるが、協力隊派遣の目的 は、派遣された国々への寄与と同様に、自国の青年の育成にあるという。創設当初の平和部隊においても、派遣の目的のなかにアメリカ青年の育成という目的が 明記されていた(フープス 1963)。
しかしながら自分の技術と知恵を現地社会に活かしたいと考えていた私には、この目的はむしろ衝撃であった。現地の人達のために働いている つもりなのに「あなたの活動はあなた自身のため」と言われたようなものだからである。だが、これらのボランティアの経験が後の私の生き方に与えた影響をこ こで考慮すれば、自国の青年の育成という目的は正鵠を得ていたことになる。この現象について考えてみよう。
平和部隊や青年海外協力隊は、一般的に思われているような軍事的な組織として編制されているのではない。与えられる給料は現地の一般事務 職員に相当する額が支給され、当然のことながら職場の指揮に従わねばならない。その点でまったく現地の労働者と同じ生活が要求される。ところが他方でボラ ンティアの事務所にはその活動を支援する予算が組まれており、自由な発想で企画され現地社会に寄与すると判断されたプロジェクトには、受け入れの職場の許 可のもとに資金が支給される。このような機会は、ボランティアが将来より高度なプロジェクトを組み立てるための実質的な予行演習の場になっており、この種 の経験を積んで国際援助の専門家として職歴を進めてゆく者もいる。
海外渡航が制限された時代の協力隊の先輩の話には、派遣前の情報も少なく、現場に文字通り投入され、厳しい経験の中で日本国旗を見て涙を 流すということもあったと聞く。だが、派遣のノウハウも蓄積され、次第に派遣国が増えていった時期に海外に出た私達には、そのような話はもはや過去のもの であった。海外経験がその反動としてのナショナリズムに結びつくことは少なくなった。むしろ経験的に文化の価値相対主義を身につけ、また異文化について本 格的に学ぼうとする者が多くを占めていった。事実、アメリカ合衆国では平和部隊の活動を終えて文化人類学の大学院に進学するものが多く、三〇年以上も経っ た今日では多数の人類学者を輩出している(Schwimmer and Warren eds.,1993)。日本でも協力隊出身の大学教員は増加傾向にある(クロスロード編集部、1995)。
ボランティアたちが自分の国に帰還して終わりというわけでなく、その後は自分の地域社会で国際交流活動などに活躍している人は多い。この ような現象はやはり海外での活動が自国社会にも影響として跳ね返ってくるという意味でもう一つのブーメラン効果と呼ぶことができるだろう。
6.鏡の中の日本国
私が述べたボランティアの3番目の特徴である「ボランティアは特殊な労働者兼観光客である」について考えてみよう。私は奇をてらっている のではない。働く人は奉仕であっても労働者であり、そして元の社会に戻るものはすべて広義の観光客たる性格をもつからだ。ボランティアは自らすすんで国境 を越えて出てゆく。制度的ボランティアは、国家あるいは公益団体が渡航費用の全てあるいは大半を負担する。パスポートやビザの取得などの便宜も図られる。 また現地の手当やプロジェクトの費用も支出されることもある。つまり、受け入れる国からみれば、これは開発国からやってくる無償あるいは安価な派遣労働者 なのである。そして任務が終わり帰国したことを振り返れば、文字通り様々な特殊な体験をした観光客とは、我々のことであったのだ(*3)。
私は保健活動のボランティアの輝かしい名誉を汚す目的でこのようなことを言っているのではない。このように見ることで、もうひとつの特殊 な観光客の姿が浮かび上がるからだ。その特殊な観光客とは「外国人労働者」である。外国人労働者は、自らすすんで国境を越えてやってくる。彼らは開発国の 雇い主たちにとっては安価な派遣労働者となる。しかし、労働者たちが得る給料の額は、我々からみれば不当に少なく思われるが、実際は本国で得ることのでき る額を大幅に上回る。ボランティアは相手国の人びとに対して人道的あるいは非人道的な援助を施しているという満足あるいは不満足を得るが、外国人労働者は 雇用主からの温情や搾取に対して満足あるいは不満足を得る。ボランティアは自己実現をもとめて派遣されるが、労働者たちは自国の過酷な政治や貧しい経済状 態からの脱出を試みるためにやってくる(桑原 1991)。
地球規模で増大する人口流動化の中で海外ボランティアと外国人労働者はお互いに好対照をなす。もちろん、この事態は無関係に同時進行して いるものではないし、好対照な観光客が単に並置されているものでもない。帰国したボランティアたちの中には、わが国の外国人労働者の保健の問題に関心を寄 せている者が多くいる。両者のあいだの交流は近年確実に増えてきたし、またさらに広範な活動が求められている。海外の経験で培った語学力や文化的背景に関 する知識は、医療保険などの面で不利益な立場におかれている外国人労働者が人間として医療を受ける権利を擁護するための活動にとって不可欠な手段になって いるのだ。
7. 結論——「協力」という幻想をこえて
かつて医療援助と呼ばれていたものが、今日では国際保健とか医療協力と呼ばれるようになった。医療や援助は回避されなければならない言葉 なのだろうか。「援助」という言葉には、持つ者が持たざる者に施すというイメージがあるからだろうし、用語の回避は持つ者と持たざる者との従来の関係を乗 り越えようとする理想の反映かもしれない。「医療」から「保健」への移行は不十分とはいえ現実に病院中心のプロジェクトから草の根レベルでの公衆衛生活動 に力点が移ったことからも理解できる。生物医学(biomedicine)の発達が必ずしも我々の生活に幸せをもたらさないというイヴァン・イリッチらの 厳しい批判が開発国の人びとのなかに浸透した結果かもしれない。
しかし、国内外の病院や共同体では、持つ者と持たざる者の格差は歴然としており、持つ者と持たざる者の不均衡を是正してゆくことは正義な のだと感じさせる状況は数多くある。豊かな者が貧しい者に分け与えることが当然だと現地の人達に指弾され当惑した経験をもつボランティアも多いだろう。住 民の自助努力を旨とするプライマリヘルスケアの理念をもとにプロジェクトを立案しても、そのような言説を盾に住民に「自発的協力」への参加を拒絶されるこ ともある(池田 2001)。実際の国際援助において利潤が巧妙に開発国に環流してくるようなしくみが、多寡の違いこそあれ存在する。理想主義とは裏腹に 中立的な用語である「協力」を使うことは、結果的には現実の欺瞞を隠蔽することにつながると、私は考える。
保健活動の海外ボランティアは、昔から今までヒューマニズムにもとづく動機によってその正当性を持ち続けてきた。そして今後ともボラン ティアの花形、少なくともボランティアのひとつの理念型であり続けるだろう。人間がこの情熱を肯定し続けるかぎりこの種のボランティアが消滅することはな いだろう。ただしそれは、ボランティアと現地の人びととの交流の記憶がボランティア自身の後の生き方に影響を与えてのみ、我々は希望を未来につなげること ができるという意味においてである。
ポスト冷戦期の今日、グローバリゼーションに抵抗する過激な草の根NGOが、WTOや世界銀行が主導するネオリベラル経済に直接行動を もって挑戦する風景が当たり前になったが、ボランティア運動の闘士たちの、思想的ルーツは、かつての制度的ボランティアと現地の側のカウンターパートとい う一種のコスモポリタンが生み出したものである、というのが私の暫定的な結論である。
【原著者注記】
この論文は、拙著(共著)である、『人類の未来と開発』[共著](担当箇所「保健活動——制度的海外ボランティアの過去・現在・未来」)川 田順造ほか編、岩波講座・開発と文化・第7巻、pp.107-114、1998年4月、の増補改訂版である。文章等を引用される際は旧版である印刷ヴァー ジョンのほうをご参照ください。
註
1*) これは、合州国の今日の平和部隊の3つの使命(Peace Corps, online)のパロディになっている。すなわち、(1)「利害関係のある諸国家の人びとが困難に出会った際に、訓練を受けた男女が(当該国)の人びとに 援助する(Helping the people of interested countries in meeting their need for trained men and women).」。(2)「提供を受けた人びとの一部にアメリカ人へのよき理解を促進させることを援助する(Helping promote a better understanding of Americans on the part of the peoples served).」。(3)すべてのアメリカ人の一部に、(世界の)他の人びとにへのよき理解を促進させることを援助する(Helping promote a better understanding of other peoples on the part of all Americans).」、である。
2*) 当時の青年海外協力隊の所轄は国際協力事業団ではなく、海外技術協力事業団であり最初の派遣国はラオス(1953年3月独立)であった。当時のアメリカ合 州国は、1954年のジュネーブ協定でインドシナ不介入を約束していたにもかかわらず、中央情報局(CIA)を介して北ベトナムを牽制するためにラオス領 内でモン族(Hmong)ならびにタイ人を訓練して準軍事組織を養成し反ホーチミン勢力への武力攻撃に従事させていた(DEPARTMENT OF STATE, online)。
3*) 中村安秀(2002:8-18)は、国際医療協力の現場が、「危険で汚くてきつい」3Kの現場あることを正直に吐露するとともに「援助は人のためならず」 と具体的に指摘し、これまでの医療協力の社会的ステレオタイプに対して、内側からの正直な報告風の形で、新しい援助者のモデルを提示している。医療援助協 力の現場をリアルな現実として受け入れようとする試みは新鮮であるが、これまでの政治的批判や歴史的反省を位置づけ要とする努力は、この著作に寄稿する当 事者たちは見事に欠落している。また、このような新しい援助理念のポピュリスト的位置づけが、今後JICAなどのハードな国家理念を振りかざすODAの エージェントに対しどれほどのインパクトをもたらすのかは、現在のところ未知数であるが、中村らの挑戦の意義が損なわれることはないだろう。
文献
池田光穂 2001
『実践の医療人類学』世界思想社
クロスロード編集部 1995
「協力隊三〇年で誕生した教授・助教授たち一三人が綴った大学の現状と改革の方向」『クロスロード』、一九九五年四月号、三六-四六 頁。
桑原靖夫 1991
『国境を越える労働者』、岩波書店。
プープス、ロイ 1963
『平和部隊読本』坂西志保訳、時事通信社。(Roy Hoopes(1922-)1961, The complete Peace Corps guide. [ introduction by R. Sargent Shriver]. New York : Dial Press. 1963,1965と改訂)
Schwimmer, B.E. and D.M. Warren eds., 1993.
Anthropology and the Peace Corps: Case Studies in Career Preparation. Iowa State Univeresity Press.
オンライン文献
Peace Corps
Peace Corps, What is Peace Corps? Mission.
http://www.peacecorps.gov/index.cfm?shell=Learn.whatispc.mission (Feb. 1, 2004).
DEPARTMENT OF STATE
FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES, 1964-1968,Volume XXVIII Laos.
http://www.state.gov/www/about_state/history/vol_xxviii/01_24.html (Feb. 1, 2004).
Copyleft Mitzubishi Ikeda, ∞