グアテマラ西部高地におけるエスニック観光と社会
Ethnic Toursim and Indigena Societies in western highland Guatemala
池田光穂
定期市を観光するエスニック・ツーリスツ[クリックすると拡大しま す]
※日本民族学会第31回研究大会、1997年5月22日における口頭発表
グアテマラ西部高地におけるエスニック観光と社会
池田光穂
++++++++++++++++++++++++++++++++
1. はじめに
++++++++++++++++++++++++++++++++
私は、平成8年度文部省科学研究費補助金(国際学術)の交付を受けた「グアテマラ観光地における文化創造と階級・人種・性差意識の民族 誌」(研究代表者:太田好信)の研究分担者として、1996年の9月から10月にかけておよそ40日間グアテマラ共和国の西部にあるクチュマタン高地のは ずれにあるマヤ系先住民族の町(cabecera municipal)に滞在しました。
本報告はその町におけるエスニック観光の発展とその現状に関して、おもに次の2点について焦点をしぼって紹介します。すなわち(1)イン ディヘナと観光客、つまりホストとゲストについて、(2)エスニック観光と汎先住民文化運動について、です。
2. 町の概要とその経済の変化
グアテマラ共和国ウエウエテナンゴ県のクチュマタン高地の西側の谷間にある標高1000メートルから3500メートルに位置している人口 約2万人のこの国の最小行政単位である郡あるいはムニシピオ(municipio)は、ここに住むマム語を話すマヤ系インディヘナの生活を見にくる外国人 観光客にとってはよく知られる訪問地になっています。
面積およそ300平方メートル、高度差が2500メートルもあるこの地域にやってくる観光客は、正確には人口約3千人の役場がある町 (cabecera municipal)だけにやってきます。現在この町には4つの宿屋(hospedaje)と後で触れるNGOの語学研修プロジェクト(PLEM)があり ますが、推定で4000人以上の宿泊観光客が一年間にやってきます。これには毎週定期市が開かれる際にやってくる日帰り観光客やこの町の守護聖人の祭りに 訪れる人びとが含まれていないので、総数にすればさらに多くの外国人観光客が訪れていると言えます。
この町がなぜ、そしてどのようにエスニック観光の目的地として発達してきたか?という疑問に答えるには、この町の政治や経済という社会的 背景を押さえておくことは重要です。しかし、時間の都合で、この部分は配布の資料の中のダイアグラムを俯瞰的にみていただくことで省略します。
《画像のクリックで単独で拡大します》
++++++++++++++++++++++++++++++++
3. ホストとゲスト
++++++++++++++++++++++++++++++++
1993年から96年9月までの4つある宿屋のうち3つの宿帳からピックアップした1589名の外国人宿泊客のうち、旅行者の国別の内訳 の上位6カ国は次のようになる。アメリカ合衆国、オランダ、フランス、ドイツ、スペイン、カナダ[日本は12番目で29人]となり、欧米諸国からの観光客 がほとんどをしめます。2つの宿屋の宿帳によると、宿泊者の平均滞在日数は、1.24日と1.27日で、ほとんどが1泊2日の滞在者ということになりま す。この町にやってくる観光客は県庁所在地からバスで2時間半から3時間の道のりをやってきて、その同じ道のりを帰る者がほとんどである。バスの発着点で ある県庁所在地は3000メートルのクチュマタン高原の反対側にあり多くの観光客が苦労してやってきて、すぐ帰る様子は長期滞在した私からみて残念な気が します。しかし、グアテマラ全土をバス旅行するとすぐにわかりますが、若者を中心としたグアテマラ高地のエスニック観光客は、実践的なハンドブックを携帯 して各地のインディヘナ共同体を1日かそこらで訪問しながら1週間から1カ月をかけて回遊しながら移動することが一般的です。この町もそういうエスニック 観光地の一つになっているのです。
観光客はガイドブックを読んで「今でも古代マヤのカレンダーを使っている」という文言に惹かれてやってきます。そのカレンダーがどのよう に使われているかを見るものはいません——観光客が見ることができないのは当たり前で、じつはそんなカレンダーを今では使う人がいないからです。フォト ジェニックでカラフルな民族衣装もこの観光地の魅力です。この町の男性用の赤地に白い線の入った長ズボンと、見事に刺繍が織り込まれた大きなカラーのつい たシャツの民族衣装は有名で、グアテマラ市の観光業者や旅慣れた観光客なら誰しも特定することができます。インディヘナが映った10種類は下らない絵はが きは人気の高いものの一つです。男性が手編みで作るショルダーバッグも目が込んで丈夫でとても有名です。
この町の人びとは外国人に対して友好的であるというステレオタイプを自他ともに有しており、ガイドブックの情報のみらず口コミでこの観光 地を薦められてやってくるものも多くいます。観光客のこの町の人に対する印象は概ね良好であるが、なかには予めもっていた古代マヤ的なイメージが少ないと 不平を漏らしたり、他の地域で頻繁に要求される写真撮影の際のチップもあまりひつこく要求されないので逆に肩すかしを喰らったようだと述べる者もいまし た。
この町を訪れるのは一般の観光客だけではありません。ゲリラおよび軍隊によるテロリズムが横行した1981年から84年の暴力の時代 (Epoca de Violencia)の終焉以降——配布したダイアグラムの右側です——、治安が安定するにしたがって外国からの援助団体、ジャーナリスト、人類学者など が大挙してきました。この特殊な観光客たちは、この町の人たちを普及員や情報提供者として一時的ないしは継続的に雇用しました。
この町の人たちが、どのようにして観光客に対して友好的に接するようになったのかについては不明な点が多いが、暴力の時代が終焉して以 降、共同体の復興のために欧米諸国からの援助団体が多数訪れた時期と、エスニック観光隆盛の時期ほぼ一致しているように思われます。アメリカ合衆国への移 民労働者の増加も含めて、外部経済とより多く節合する過程の中でホストであるインディヘナの人たちのもてなしが洗練していったことは当然の帰結かもしれま せん。私の滞在中にも、人びとは熱心な情報提供者になってくれたと同時に、私に対して金銭や援助の無心、日本で外国人労働者として働くことの可能性、資金 の融資依頼や投機としての土地購入など、実にさまざな申し出をおこないました。
このようなことが可能になったのは、彼ら自身が経済的に「開明化」(civilize)しているということ以上に、過去十数年の観光客や 外国との援助団体との交渉を通して、少しでも経済的なチャンスがあれば果敢に利益の誘導を試みるという習慣が身についてきた。別の言い方をすれば自らをそ のような主体として作り変えてきたからだと思います。
++++++++++++++++++++++++++++++++
4. エスニック観光とマヤ・ナショナリズムについて
++++++++++++++++++++++++++++++++
インディヘナではない人たちはメスティソあるいはラディーノと呼ばれます。外部からやってくるツアーグループはたいていラディーノか外国 人のガイドが付いています。しかし、バックパッキングをはじめこの町を訪れる多くは1人ないしは少数のいわゆる自力観光の観光客です。この町の4つの宿屋 のうち3つのオーナーはインディヘナで、メルカード(市場)を中心とした食堂も、また協同組合の織物の店舗は言うまでもなくほとんどがインディヘナによっ て経営されています。そのため他のグアテマラの観光地やメキシコのチアパス高原で見られるようなラディーノが経営する店舗はほとんどみられません。その歴 史的な起源は81年から82年までの暴力の時代に、それまで増加傾向にあったラディーノの全員が一時期、完全に村から撤退したことに遡れます。
したがって、エスニック観光地で多くみられるようなラディーノの中間商人(middleman)がほとんどみられません。また最近では土 産物品の高級化や輸出化にともない、都市のプチブルジョアや外国人向けに、織物に皮や装飾をつけたりする二次加工が流行っていますが、これに従事する仲買 人や加工業者もこの町出身のインディヘナが占めています。このためラディーノとインディヘナが搾取と被搾取をめぐって社会的に対立する構図が、めずらしく この町ではみることができません。
他方、この数年間にメソアメリカ地域全体で、マヤ系インディヘナの間では大きな汎マヤ文化運動が起こってきました。この背景には国民国家 におけるラディーノ主導のスペイン語教育、インディヘナ住民への抑圧、とくに約30年間つづいた主としてインディヘナに対する国家暴力などに対して抵抗し てゆく運動が芽生えつつありました。1992年のリゴベルタ・メンチュのノーベル平和賞受賞などが追い風になり、にわかに世界の注目をあびるようになりま した。これは土着主義的な復古運動ではなく、あくまでもそれまで想像されたことがなかった国境を越えたマヤ系先住民族のアイデンティティを創造する一種の 文化運動です。これらの一連の運動をキャロル・スミスにならってマヤ・ナショナリズムと呼んでおきますが、あくまでも国民国家をベースとするナショナリズ ムとは一線を画するものです——前日の一般発表において太田好信さんはこれについて詳しく論じたはずです。
この種の一連の復興運動と深く関係し、またインディヘナの小学校教師が中心になってこの町でおこした非営利の語学学校がPLEM (Proyecto Linguistico de Espanol/Mam)です。これは1989年に発足し、およそ1週間外国人をインディヘナのふつうの家に寄宿してスペイン語とインディヘナの歴史と伝 統的文化を学ぶプログラムです。この8年間にすでに1000人ちかくの研修生を受け入れた点で、この町のもうひとつの、そして重要なエスニック観光の一部 を形成しています。
スペイン語は完全なバイリンガルであるインディヘナの小学校教師たちの中から選抜されており、また日常生活には問題なくスペイン語を理解 し話せるインディヘナのホストファミリーは、彼らに言わせると「早口で俗語をより多く話すラディーノよりも、インディヘナのほうが優しく丁寧に話す点で」 初学者にはより適切に学ぶことができるのだと、アピールします。また語学以外に、自らの歴史を教える際には生々しい暴力の時代の生き証人を講師に呼び、実 際にはほとんど使われない伝統的な薬草の講義には出産介助者(comadrona)が講師として登場するという、実にもりだくださんのメニューをもってい ます。
この町におけるエスニック観光は、インディヘナ自身によって——確かに厳しい経済的な競争がそのお互いの間にはあるものの——まがりなり にもインディヘナのために機能しているように思われます。
++++++++++++++++++++++++++++++++
5. 結論——エスニック観光の影と光
++++++++++++++++++++++++++++++++
ウェイラーとホールの定義(1992)によると、エスニック観光とは「その観光客とは異なる民族(ethnic)および、あるいは文化的 背景をもつ人びととの直接的の接触、本物かつ/あるいは親密な接触への希求によって主に動機づけられる旅行」だと言います。要するに自分たちとは異なる民 族——エスニックな集団——に会いたい、あるいは交流を持ちたいというエキゾチズムという欲望に裏づけられている観光がエスニック観光ということです。
しかしながら、この定義はエスニック観光客の動機のなかにある、ある種の「理念」が強調されすぎているように私には思われます。というの は旅行者がそのような動機をもっても、実際には異なった民族の人たちとの親密な交流が満たされることがないからです。今日、先住民族や少数民族をそのエキ ゾチズムの対象にした世界中でみられるエスニック観光においては、彼らの生活や慣習あるいは人びとの一般——いまそれを仮に文化といっておきますと——そ の彼らの文化について触れるのは、実際にはガイドの説明、文化のモデル(model culture)を展示する博物館、そして路上や店で購入される土産物を通してだけであることは誰しも気づくはずです。それは心理的な代償であり、人間関 係の物象化作用というわけです。
というわけでウェイラーとホールによるエスニック観光の定義は成就されることが困難な理念(欲望)に裏づけられており、エスニック観光の 旅行者はアンビバレントな感情に苛まれていることになります。しかし、本当にストレスフルな観光であれば、それが商売としてなりたつこと自体が不思議で す。
この町の言語研修のプロジェクトであるPLEMのスタッフが私に次のようなことを言います。「エスニック観光のもつこんな居心地の悪さを 自分たちの文化について知ってもらうことで観光客の不満を解消し、また歩留まりが悪くすぐ帰ってしまう外国人観光客を長く係留させ地元にお金を投下させる ことができる」、「観光客はインディヘナ家族と生活することで真の先住民文化を体験することができる」と。それらの内容にはインディヘナ文化の本質主義的 (essentialistic)な言説が鼻につくこともあります。しかし、今まで彼らに対して外部から貼られてきた否定的な本質主義的なレッテルにくら べれば、彼らの新しい本質主義は排他的な要素が少なく、また「失われつつある文化は復活することができる」という文化の操作的な側面に十分に自覚的である 点で、より健全な視点をもつものだと私は信じます。
今世紀の初頭、人類学ないしは民族誌学は観光と袂を分かって学問的に自らを洗練させていったと言います。しかしながら現在では、人類学者 の多くはエスニック観光と民族誌調査の間には相違点よりもより相同的(homologous)な点が多いと認識するのではないでしょうか。なぜならエス ニック観光客が、他者との親密な接触を希求しながら、それには中途半端にしか成功せずに、家に帰って写真や土産物で満足するように、民族誌学者も形こそ違 え同種の悩みを共有しているからです。もし人類学に苦悩や隘路(predicament)があるとするならば、エスニック観光の現場でエスニック観光客の 不満を解消させながら、自分たちにも利益を誘導すべく、さまざまな試みをおこなっているインディヘナの人たちの生存のテクニックから、民族誌学者から学ぶ べきことは多いと思います。
——ご静聴ありがとうございました。
___________________
《下図:植民地時代から現在までの人種・民族カテゴリーの呼称(スペイン語)の一覧表:グアテマラ共和国》
Racial terminology of Guatemala, a historical continuum,
(c)Mitzub'ixi
Quq Chi'j, 2015