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医療人類学ニュースレター

   二元論の中間領域に見る生きたリアリティ

瀧澤 紫織


書評 浮ヶ谷幸代『病気だけど病気でない−糖尿病とともに生きる生活世界』
 誠信書房、2004年


書評:瀧澤紫織(天竜病院 精神科医師)


1.はじめに


 本書は、千葉大学に提出された著者の博士論文が加筆・修正されたものである。糖尿病という人類史上最古の歴史のある(記載は紀元前1500年エジプトにまで遡る)、さらに「食」という、人間の生に密着した文化にかかわりを持つ疾患について、その患者の語りを文化人類学的なアプローチで描写している。糖尿病者本人へのインタビューをもとに、当人たちの疾患理解、病気であることの事実への向き合い方、治療のための日常の実践、医療者との付き合い方、患者会活動など、糖尿病当事者をとりまく生活・体験を紹介しているが、視点は極めて患者の体験を重視したものとなっている。医療者側は「病気である」、「病気でない」という認識を持つが、患者側のリアリティはと「病気だけど病気でない」という中間領域にあるとしている。そこには専門理論に基づく治療像とは隔たりをもつ、当時者自らが試行錯誤の上にいきついた治療実践の姿がある。二元論ではカテゴリー化されにくい領域に視点を向けていく中で、現代医学のもつ諸問題を提示するとともに、中間領に意義や価値を布置することこそが、科学的思考のもつ限界を超えていく可能性につながることを暗示している。

 対象選択が、糖尿病―人の根本的な営みである「食」に直結し、個人の身体レベルから、患者を取り巻く対人関係、食文化、物質主義、個人主義などの社会のありよう、さらには地球環境にいたるまで、すべての問題に多元的に関わっている―という疾患を選び、文化人類学のみならず、医学的にも心理学的にも哲学的にも論考していることにより「病気であって、病気ではない」という分割の狭間に目を向ける試みは極めて本質的なものになった。このため、本書は、他の生活習慣病やアレルギー性疾患、胃潰瘍、うつ病、PTSDなど現代のストレスや文化が関わっているとされる病気をはじめ、多くの疾患の理解のために、汎化、応用できる内容となっている。
 

2.近代医学モデルの陥穽


 17世紀にデカルトが心と肉体を別のものと見なして以来、近代医学は病気のモデルを極端に生物学的な方向に発展させてきた。現代になって生物医学モデルの批判から、病人の理解のために、biopsychosocialモデル[Behavioral Medicine Associates online]が心身医学の分野から提唱されるようになり、より個人を統合的に捉えるようになってはいる。しかし、biopsychosocialモデルであっても、依然、生物学が重要な位地を占めており、モデルに客観性を追求するかぎり、いかに心理的社会的側面を考慮しようとも病人の実態生活とのすれ違いは免れない。Kleinmanによると医師と患者のコミュニケーションのすれ違いは、生の多義性からくるとしている「Kleinman A 1988、ただし引用は森岡 2004:398」。Kleinmanは医療専門職が医学モデルに従って「外側から」構成する疾患(disease)に対置する形で、患者や家族が「内側から」述べる「病」illness)という体験を記述している「Kleinman A 1988、ただし引用は森岡 2004:398」。

 書評子が医師であるゆえに強く印象づけられるのかもしれないが、著者のフィールドワークから伺える糖尿病患者の姿は、日常臨床の陥穽を突きつけられている感がある。おそらく、在野の臨床家の多くは感覚的にこの陥穽の存在を認知しているのではないかと思う。

 糖尿病以外の生活習慣病、アルコールの過剰飲酒、喫煙による肺気腫、癌、精神疾患なども、著者が語るところの、セルフコントロール神話や予防医学政策の双方に共通する問題に目を向けることで、いわゆるコントロール不良群と呼ばれる人への理解が深まるのではないだろうか。また、これも臨床的にはしばしば観察されることだが、定期健診の前にのみ節制し、検診のあとに暴飲暴食をする人たちも、また、コントロールの神話の影響による行動と考えてよいだろう。疾患はセルフコントロールすべきもの、予防されうるべきものと捉えることにより、結果的に疾病に必然的に負のイメージがつきまとうことになり、糖尿病者のうつ病の合併が高い理由に、コントロールの破綻による自責感、という糖尿病者としての自己認識も関与していることも推察される。


 病気の一般化、客観化はこうしてさまざまな盲点を作り出し、その盲点を埋め合わせるべく、さらに、新しい理論が生まれるという状況は、筆者の指摘する「生活世界に生きる人たちの思考の基盤は、科学の論理や実験によって実証されている客観的な事実への信頼性や価値観ではない」という視点を見落としている故なのであろう。社会的権威によって詳細に記述された育児専門書より、経験豊富な母親たちの知恵や、家庭的にも、社会的にもつながりを持ち、十分サポートされていることの方が、はじめて子どもを生んだ母親にとって有用であることが自明であるように、科学的知には確かに限界があるのである。中村雄二郎が『臨床の知とは何か』で述べたように、「個々の場所や時間のなかで、対象の多義性を十分考慮に入れながら、それとの交流のなかで事象を捉える」ことこそ患者と医療者の間の齟齬をなくしていくものである「中村1992:9」。

3.病であること


 著作を読むと、医療者側から見た病気の捉え方と、患者側から見た病気の捉え方にかなり差があることが分かる。著者は患者が病気を‘飼い慣らす’という非常に本質を穿った表現を使用しているが、「治療者との関係を調整し、医学上の知識を把握しつつ部分的には治療指導を受け入れながら、試行錯誤の末、自分の生きる術として治療実践を飼い慣らしている」ということが病む人の真実であることが分かる。

 Georg Groddeckは病気と健康は対立したものではなく、いずれも同じ生命体の表現形であると言っており、病気は外からやってくるわけでもなければ、敵でもなく、エス−あるいは生命力、自己、有機体といってもよい−の創造物であるとする[Georg Groddeck 2002:103]。‘飼い慣らす’ということは、病を「自己の一部」と意識的にあるいは無意識的に了解していることを意味するのかもしれない。

 著作に出てくる糖尿病者たちは、色々な形で‘飼い慣らし’を表現する。病気になった自分のアイデンティティを、宗教的、哲学的な深層にまで極め、その意味性の追求に置く者、セルフヘルプグループや家族関係などの人間のつながりに置く者、数値のコントロールの達成感に置くものなど、実に様ざまである。さらには病気であることを全く否認し、合併症が致命的になるという底つきまで突き進むもの、完全に治療的生活が血肉化し、まったく違和感なく自然にコントロールが果たせるもの、病を通して知り合ったもの同士が、祭り感覚で羽目を外し、タブーとされる食品を食べてカタルシスをはかるものなど、多彩な患者たちの姿を垣間見ることができる。それに比べ治療者側から見る疾病像は、コントロール良好群、不良群、治療の動機付けができている、できていないなど比較対照しやすい類型化された無味乾燥な姿である。有機的なリアリティが何かということを改めて考え、Norman Cuisins の言葉「もっとも痛烈な質問は、(略)病気に罹っている人間のことよりも、病気のことの方をよく知っている医師が多過ぎはしないかという質問である」が如実に迫ってくる[Norman Cuisins 1985、ただし引用はLarry Dossy1987:452]。

 中村雄二郎の提唱した近代の知の問題、「一方では認識する主体と認識する対象、つまり見るものとみられるものとを引き離して冷ややかに対立させ、自我の存在の基盤を失わせるとともに、他方では世界の人工化と自然の破壊をもたらすことになった。学問や知は確かに詳細、精密になったものの、多様で変化する現実の重層性をよく捉えることができなくなった」は、的確な問題提起をしている「中村 2001:96−97」。患者、当時者側と、治療者側の疾患に対する捉えの相違は近代の知の問題そのものである。患者たちの独自の‘飼い慣らし’の姿は創造的で、生き生きとしており、病気を背負ったために行き着くことのできた新天地という感のものさえある。臨床にたずさわるものは、こういった悲喜こもごもの患者たちを見つめる姿勢を持ち、対象の捉え方を根本から問い直すことが重要であることを知らなくてはならない。また、病を抱えたものの姿は重厚で多くの可能性を秘めていることを知らなくてはならない。患者の燃えつきをなくすためにも、治療者自らの燃えつきをなくすためにも、である。

4.新たな医学のありかた、あらたな治療パラダイムの可能性


 ヒポクラテスは「その病気の患者がどんな種類の人間かを知ることのほうがその患者がどんな病気にかかっているかを知ることより大切である」としている。

 皮肉なことに、科学的証拠によって、生物医学至上主義に対して否定的な結果が集積されてきた。例を挙げれば限りないが、病原菌を完全に排除しようとする抗生物質が、新たな耐性菌を生み出し、生体の常在菌のバランスを崩し、新たな感染症が出現したことにより、生態学的な配慮の重要性に目を向けられるようになった。精神医学の領域でも、攻撃性の強い統合失調症の患者に対し、ロボトミー手術という頭蓋骨に穴を開け、そこから大脳の前部を切断する治療が開発され、創始者のモニスはノーベル賞を受賞したが、今はその治療は有効どころか、有害なものとして葬り去られたことは有名である。症状を「悪」と見なしそれを除去するという二元論的思考の問題を端的に示している例である。

 こうした近代医学の問題や限界は近年議論されるようになり、統合医療(ホリスティック医療)の考え方が脚光を浴びはじめ、日本でも話題になっている。アメリカ・ホリスティック医学協会はホリスティック・ヘルスを「個人の体、心、感情、魂が自然、宇宙、社会環境と調和した状態にあるのが健康な状態である」と定義している[American Holistic Health Association online]。この発想は、患者の生態学的考察、つまりヒポクラテス的アプローチの上に立脚し発展したものといっても過言ではなかろう。また、生態学的視点を意識しておかなければ、統合医療も階層化、分断化されるというパラドックスが存在しうることも忘れてはならない。ヒポクラテスは、「医学の領域の中には患者のおかれた環境の全ての情況、それと患者とのかかわりの全ても含まれる」と考えていた[Werbach 1996:14]。彼は「この世界に関連のあることで、病人のためになるかもしれないことで、かつ病人の命に害を与えず、病人に不快を与えないことは、すべて医術のなかに取り入れないといけない」と説く[Werbach 1996:14]。彼によると、医者は正確な治療を施す科学者であるだけでなく、生態系システムの中の一つの要素であって、その要素は特別な医薬がもたらす単なる生理学的な効果よりも病気の経過に大きな影響を与えるのである。筆者の糖尿病の考察は、ヒポクラテスの生態学的病気モデル[Werbach 1996:82−85]の重要性、先見性を証明する内容となっている。

 著書のタイトルである「病気であるけど病気ではない」という言説、日常的実践に見られる糖尿病患者の生きる術を知ることは、著者の言うところの「既存の分割システムに新しい領域を再配置する可能性を示す」と同時にヒポクラテス医学を再考し、新しい治療パラダイムの創設につながるものと考えられる。

5.終わりに


著者がフィールドワークという方法論により、日常診療のなかで診察の場面で聞くことのできない声を多く集積している点で、医療専門職は必読とすべき画期的な内容となっている。この日常実践のありのままの情報は、著者が医療者ではない、つまり患者に構えがないという条件で得られたというよりも、インタビュアーとしての視点が文化人類学の基盤に立ち、‘二元論の中間的な領域の可能性’という斬新な発想を持つことによって引き出されたものであろう。

 文化人類学関係者には、膨大な興味深い文献引用やその考察だけでも刺激的であろうし、文化人類学のフィールド調査のあり方や、その判断方式を知る文献としても大変興味深い内容である。

 この著作は糖尿病の当事者にとっても、非常に有用であると考える。多様な患者のあり方を理解でき、優良患者の存在は、医療者側の幻想といっても過言ないという事実を知ることができるからである。記載されている多くの患者は、二元論的判断からすると、問題や、間違いを抱えているわけだが、この現実が真実であると理解することが大変治療的に働くと考える。

 さらに、患者の主体と自立を目的とする治療論には限界があり、患者をとりまく関係性−患者同士、病気の人とそうでない人、患者と医療者、患者とその家族−に大きな治癒力があり、病気が関係性の回復や見直し、新たなコミュニティの創造につながるという事実は、つまるところ近代合理主義、個人主義の限界を映し出していると言え、糖尿病をはじめ、疾患というものが持つ社会意味をも理解しうるのではないかと考える。

 題材は糖尿病であるが、糖尿病そのものに関心がなくとも、医学の専門書などよりは克明に患者の本質をつかむことができ、糖尿病でなくとも疾患をもった人々の生活実践を理解するために大きな手助けになると思う。また、糖尿病というきわめて現代的な病を通して見えてくる疾病を通しての人間理解、ひいては苦悩の理解に役立つという点では、本書は哲学的でもある。

 このように本書はあらゆる思考領域で働く人にとって刺激的な内容となっている。是非多くの方がこの著作に触れる中で、リアリティへの新たな視点が創造され、現代医療の問題が克服されることを願うものである。

参考文献


Behavioral Medicine Associates, Inc. Education Pages 

The General Model: Biological - Psychological - Social
http://www.qeeg.com/Biopsychosocial.html(2004.8.29)


森岡 正芳


2004 「病と行動の意味」『精神療法』30:397-402、東京:混合出版
Kleinman A
1988「1996」 The Illness Narratives Yale University Press.(『病の語り』江口重幸、五木田紳、上野豪志訳、東京、誠信書房
Larry Dossy
1981[198]」Spacee,Time,Medisine Random House Inc.(『時間・空間・医療』栗野康和訳 めるくまーる社


Norman Cousins


1981 [1985] Human Option Chivers North America(『人間の選択』松田鉄訳 角川選書)


中村 雄二郎


  1992『臨床の知とは何か』東京:岩波書店


中村 雄二郎

2001『魔女ランダ考』東京:岩波書店


American Holistic Health Association 

empowering health consumers
http://ahha.org/index.html(2004.8.29)


Melvyn R.Werbach


1986[1996] Third Line Medicine Third line Press(『第3の医学』今村光一訳 日本評論者)



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編集人:池田光穂