グローバル化する近代医療と民族医学の再検討
――研究史における私的メモワール――
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2.人類学の役割
人類学理論の変化は、人類学者に期待されている社会的役割概念(social roll concept)の変化と関連しているだろうか。人類学理論の推移において、ある研究対象を採用し別の対象を忘却することは、人類学者自身の実践的関与のタイプを変形(transform)させることに繋がるのだろうか。研究対象が変われば、研究の視座は変化するが、同時にその研究者の実践的関与の形態も変わるだろうか。私にとって検討が必要であると考えるのは、これらの事柄である。
専門家がこのような発想をナイーブなものとして退けることは十分に考えられる。なぜなら、これらの事態を容認することは、人類学者が生産する民族誌に対して実証的ではないというある種の不完全性を証明することに繋がり、他の研究領域に対して科学の客観性を保証できないことを意味するからだ。他方で、これらの事態――研究対象の変化に伴う、研究者の実践的関与の形態の変化――を容認するとしても、人類学という学問の独自性の根拠が失われるという非難が、またもや専門家から表明されよう。なぜなら、この新しい人類学の生成は、例えばカルチュラルスタディーズや社会学などの学問領域と人類学分野の境界線を曖昧にしてしまうからである。研究対象の相同は、研究態度の相同を意味するからである。このような学問のアイデンティティに関わる専門家が抱く危惧を生み出す背景にあるのは、元をただせば、研究対象の限定から研究者の役割概念が構築されてきたノーマルサイエンス独特の政治的運用という現状肯定の論理に他ならない。研究者の誰もが常識には背きたくはないのだ。しかし、トーマス・クーンが想定した科学者集団の内的な異常科学の台頭のみならず、彼が認めたがらなかった科学者集団の外部にある社会的要因によっても、ノーマルな科学の運用論理もまた変化し、時には瓦解することがある。断固として依拠しなければならない学問のアイデンティティは、実はぐらぐらとふらつく浮島のような存在であった。
しかも、それは何も人類学分野だけが陥っている行き詰まりや難問なのではなく、今日では社会科学全般が抱えている、ないしは抱えうる状況そのものである。クリフォード・ギアーツの指摘によれば、このことは遅くとも1960年代にはじまっており、社会科学が自然科学的な合理的モデルよりも、人文科学的な修辞の彩という類比的想像力を動員する傾向が増えることに特徴づけられている(ギアーツ 1991)。
とにかく、人類学の研究対象は次々と新しく生まれ、それに伴い、さまざまな理論用語が考案されてきた。今を生きる人類学者は、それらを使って理論構築(つまり理論を消費)しつつ、自分の「フィールドデータ」を使って民族誌論文を生産しなければならない。このスタイルはこれからも続いていくだろう。ここから離脱することは、研究者のコミュニティにおいては、特異な研究者として位置づけられるか、学界から葬り去られることを意味する。
理論用語をフィールドデータを使って明確に説明、解釈し、民族誌論文に仕立てあげる実践と、その生産の〈手口〉を同時に考察の対象にすることは、由緒正しい実証主義の伝統からの逸脱を意味する。だが、しかし英語圏の人類学ではすでに1980年代から、このような試みは活発におこなわれている(cf.クリフォード 2002; Marcus and Fischer 1999)。そうした時に、浮かび上がるのは次のような疑問である。例えば、調査者でも被調査者でもよい、民族誌調査に関わる行為主体のアイデンティティ・ポリティクスについての反省から、グローバル化するさまざまな社会的文脈における新しい理論言語が生産されている。それらは研究対象のみならず、研究対象を構築する調査者自身のポジションの変化あるいは、行為主体の内的変化を起こすはずだということを私は予感する(cf. ギアーツ 1996)。このような状況の中で、いったい人類学者は何を問題にすべきなのか。
それは、行為主体(agency)の変形に関わる問題であると私は考える。私自身の専門領域である医療人類学において、研究主体と研究対象というものが、どのような過程を経て、変形していることを示唆するのか、ということである。
Copyright Mitzubishi Chimbao Tzai, 2005
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