グローバル化する近代医療と民族医学の再検討
——研究史における私的メモワール——
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3.コスモポリタンの思想圏
私がこの問題系において、常々気になっている理論用語がある。それは行為主体のアイデンティティの編制に深く関わる用語であり、また、形容詞となって事物の様態を指し示すものにもなる言葉である。コスモポリタン(cosmopolitan)という言葉がそれだ。
この言葉は、紀元前5世紀頃の古代ギリシャの都市シノペ出身のディオゲネスに由来する。彼は禁欲と質素を旨とし、奴隷の身にやつしながらも、自己 のプライドを高くもち、精神と行動の自由を謳歌する実践的態度を貫いた人だと、後の評伝は伝える。3世紀初めに彼について短い消息を書いたディオゲネス・ ラエルティオスによると次のごとくである(ディオゲネス・ラエルティオス 1984;なお、ページ数は引用文献の該当箇所を、/は改行を表す])。
「とにかく自分[=シノペのディオゲネス—引用者]は、/祖国を奪われ、国もなく、家もない者。/日々の糧をもの乞いして、さすらい歩く人間。/な のだから。しかし彼は、運命には勇気を、法律慣習には自然本来のものを、情念には理性を対抗させるのだと主張していた」(p.141)。
「あなたはどこの国の人なのかと訊ねられると「世界市民(コスモポリテース)だ」と彼は答えた」(p.162)。
「彼は、高貴な生まれとか、名声とか、すべてそのようなものは、悪徳を目立たせる飾りであると言って冷笑していた。/また、唯一の正しい国家は世界 的な規模のものであると。/さらにまた、婦人は共有であるべきだと言い。そして結婚という言葉も使わないで、口説き落とした男が口説かれた女と一緒になれ ばいいのだと語っていた。そしてそれゆえに、子供もまた共有であるべきだと。/また神殿から何かを持ち去るとか、あるいは、ある種の動物の肉を味わうとか することは、少しも異様なことではないし、さらに、人肉を食べることさえも、異国の風習から明らかなように、不敬なことではないとした」(p.170)。
ディオゲネスの生き方を、今日的に表現すれば既述したように、禁欲と質素を旨とし、自己のプライドを高くもち、精神と行動の自由を謳歌する実践的 態度を貫くということであろう。もちろんここで問題としたいのは、世界市民つまりコスモポリタンが意識する自己の帰属集団とアイデンティティについてであ る。コスモポリタンが帰属する「唯一の正しい国家は世界的な規模のもの」である。世界的な規模とは、包摂するものがないことと紙一重である。「自分は世界 市民である」という言明は、人間の属する集団としてもっとも広い集団に属するが、他方ではそれは「自分は人類だ」と言明するのと同じで、世界市民を包摂す る現実的社会集団は、現実にはどこにも存在しないということになる。
コスモポリタンを包摂する社会集団を、我々が脅迫的にほとんど毎日のように反復して想起している国民国家(西川 1998)や政治、宗教集団ある いは文明(Huntington 1993)との対比の中で見ると、我々の想像力の有限性がかいま見える。今日の政治言語だと、類的な存在としての人間のもっとも広い帰属集団を想定はする が、国際主義者(internationalist)よりももっと強度のある無政府主義者としか言いようがないものになるからだ。昭和12(1937)年 に三木清は、コスモポリタンにおける自由主義の立場が、政治システムでもなく、かといって文化主義でもないと説明し、「コスモポリタンとは政治への信頼を 失つた人間のことである」と主張している(三木 1967)。もっともな見解であろう。実際、コスモポリタンという言葉は、現実の政治的帰属集団から最も 遠いところにいるというニュアンスで使われる。あるいは、政治的な集団に帰属しないと考えられている信条や実践——以下で展開する〈医術〉(イアトリ ケー・テクネー)もそのひとつである——の行使者が、特権的に享受することができる、つまり政治的イデオロギーから免疫された〈政治的標識〉と言うことも できよう。
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