理想主義の継続と断絶
Continuation
and Dis-continuation of Idealism in Modern Imperial Japanese Medicine
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9.理想追求の継続(旧タイトル)
では何故、日本の植民地統治へと飛翔するはずの帝国医療プロジェクトは第二次大戦終了において終焉したのではなく、これらの理念が戦後までも 命脈を保ち続けたと言えるのだろうか。その設問の解法へのヒントを最後に示唆しておきたい。
1874年(明治7年)の76箇条の「医制」の公布以降、帝国医療システムは順調に発展、整備されていった。つまり具体的には、伝染病対策、 衛生制度の創設と整備、帝国大学の医学研究システムの改善、ドイツを中心にした海外留学における研究水準の向上、極東熱帯医学会や国際連盟衛生会議等のア ジアにおける医療情報の交換と蓄積等を通してである。これらはアジアの周辺地域を帝国内に組み込む地政学的発展とパラレルであった。この当時までは、さら に帝国の威光を臣民に享受させるといった救貧対策を含む福祉保健制度の構想が練られ萌芽的なプロジェクトが試みられようとしていた。今から想像することは 困難であり、また我々にとって驚くべきことであるが、女性のヘルス・ボランティア制度(当時は「保健婦」「指導員」などと呼ばれていた)すら動き始めてい たのである。
しかし1930年の中国大陸での交戦を皮切りに、いわゆる総力戦体制に突入してゆき、日本国内における物資の不足から、日本人の栄養状態は徐 々に悪化していった。それは結核の罹患率や乳幼児死亡率の増加を引き起こした。帝国の末端に日本の成年男子を送るための徴兵検査においても、兵士の健康の 質の低下は避けられず、大きな政策課題になりつつあった(清水 1988)。その結果、それまでの救貧的な医療福祉政策から、帝国臣民とりわけ青年男子の 健康の質の向上に、努力が向けられるようになった。しかし栄養条件を改善する資源もなく、いわゆる精神の肉体化——壮健な精神が壮健な身体を造る——に空 しく政策は進んでいった。ラジオ体操が国民の総動員によって敢行されるようになったが、結局のところ、栄養条件の悪化が制限要因となって、これらの対策は ほとんど成功を収めなかった。もちろん海外の植民地においても、帝国の保健システムは有効に機能を果たすことはできなかった。実際の例としては、「南方」 における民間衛生のマニュアルの出版はようやく1940年代になってからである(e.g. 南崎 1942)。
つまり理想的な帝国医療システムは、1930年以降すでに崩壊の道を歩み始めていたと言ってもよい。ところが、それに取って代わる保健運動の 国民の総動員体制は末端において活動していた医療者をして、日本社会の隅々まで保健プログラムを実践させることになった。そして、そのことが皮肉なこと に、現場の悲惨さに直面して実践していた医療者たちをヒューマニスト〈兼〉コスモポリタン的精神をもつ医療者として育てることになった。その一例として夭 折した女医・小川正子[1902-1943]が癩病すなわちハンセン病患者の生活描写した書物『小島の春』があげられる。この書物は、当時の医学生のバイ ブルになり、ヒューマニズム(すなわち国家主義体制における唯一許されたコスモポリタン的形相)の理想に燃える医学生を、前線の軍陣医学や農山村の僻地医 療に駆り立てたのである。このような社会実践を積んだ人たちが、敗戦後の保健衛生改革に際して即戦力のマンパワーとして登用されて、戦後の農村保健運動に おいて指導的役割を果たしたことは皮肉なことである。医療は知識と権力の混成体に他ならないが、敗戦の審判によってもなお、その権力の問題性が不問にさ れ、そのまま戦後まで継続してゆくことがありえるからだ。
このように見てくると、明治以降、約半世紀にわたって成長しつづけた帝国医療は、敗戦前の10数年間のみ、その機能不全を起こしていただけに なる。日本の帝国医療システムはGHQの占領政策の下において、むしろ1930年以前の状態にリセットされ、この理想を継続、発展してきたと解釈するほう が、長期的な観点からはよく理解できる。私の視点は戦後の解放を保健政策上のルネサンスとしてみるのではなく——例えばサムス(1982)——むしろ敗戦 前15年間を医療政策にとって特殊な時期として捉えていることが解るだろう。つまりリビジョニスト的見解をとるのだ。
Copyright Mitzubishi Chimbao Tzai, 2005