正常と病理 / ジョルジュ・カンギレム[著] ;
滝沢武久訳. -- 法政大学出版 局, 1987. -- (叢書・ウニベルシタス ; 225) 読書メモ
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正常と病理 / ジョルジュ・カンギレム[著] ; 滝沢武久訳. -- 法政大学出版 局, 1987. -- (叢書・ウニベルシタス ; 225)
Le normal et le pathologique / par Georges Canguilhem. -- Presses univ ersitaires de France, 1966. -- (Galien : histoire et philosophie de la biologie et de la medecine)
Le normal et le pathologique / Georges Canguilhem. -- 9e ed. -- Paris : PUF, c2003.
著者: Canguilhem, Georges, 1904-
●疾病論上の二項対立
「医学者たちの考えは、病気についてのこうした二つの表象(病原体のような〈存在論〉と調和の攪乱のような〈全体論〉のこと——引用者註) の一方から他方へ、二つのかたちの楽観論の一方から他方へ揺れ動き続けた。そして揺れ動くたびごとに、必ずどちらかの側にとっての何かしらもっともな理由 を、新しく明らかにされた病因の中に、見つけたのだった。欠乏症の病気およびいっさいの伝染病や寄生病は、存在論的理由に軍配を挙げ、内分泌障害および不 十分、困難、異常、障害などを示す接頭辞dysのついたあらゆる病気は、ダイナミズムの理論つまり機能的理論に軍配を挙げる。にもかかわらず、これら二つ の考え方には一つの共通点がある。すなわち、いずれも病気の中に——病/気であるという経験の中にといった方がいい——戦いの場をみている。一方は有機体 と外部のものとの戦いであり、もう一方は内部のせめぎ合う力同士の戦いである。一方は一定の本源的要素の存在や欠如によって、もう一方は有機体全体の配置 替えによって、病気は健康状態から区別される。一つの性質が他の性質とは異なるように、病理的なものは正常なものと異なるのである」(カンギレム 1987:15-16)。
●規範の哲学/規範の不在
「完全なものはあらゆる完全さをもっているものだから、自己を存在させることの完全さももっているだろうと考えて、その完全さの性質から出 発して、完全なるものの存在を証明できるかどうかを、人は長い間追求してきた。完全な健康が事実上存在するかという問題もこれと同様である。まるで完全な 健康が、批判的な概念ないし理想型ではないかのようではないか? 厳密にいえば規範は存在しない。規範は、存在するものを低く評価して修正可能とならしめ る役割を果たしている、完全な健康が存在しないということは、単に、健康の概念が存在概念ではなくて、規範概念だということだ。規範の役割と価値は、存在 するものにかかわり合って、これを変更させることにある。このことは、健康が空虚な概念だということを意味しない」(カンギレム 1987:55)。
●衛生の規範
「衛生の規範の定義は、政治的見地からすると、統計的に見た住民の健康や、生活条件の衛生や、医学に焦点を合わせた予防と治療の処置の均等 な拡張などに向けられた関心を前提とする。オーストラリアでは、マリア・テレジアとヨゼフ二世とか、帝国健康委員会(Sanita‾ts- Hofdeputation. 1753)を創設して「主要衛生規則」(Haupt Medizinal Ordnung)を公布することによって、公衆衛生の制度に法律的規定を与えている。主要衛生規則は、一七七〇年、「衛生規範」(Sanita‾ts- normativ)に置き代えられた。それは、医学や獣医技術や薬局や外科医養成や人口統計や医学統計などに関連する四十の規定から成る。ここで/は規範 と規格化に関して、実体とともに言葉をもつわけである」(カンギレム 1987:228-229)。
●規範・規格化
「……正常という用語そのものは、教育制度と衛生制度という二つの制度特有の語彙から出発して、通俗語の中を通って、そこへ移植されたので ある。そして、これらの制度の改革も少なくともフランスに関する限り、フランス革命という同じ原因の影響のもとで、同時におこった。正常というものは十九 世紀に、学校の模範や身体器官の健康状態をさし示す用語だった。理論としての医学の改革それ自体が、実地としての医学の改革にもとづいている。すなわち、 理論としての医学の改革は、フランスでも、オーストラリアでも、病院の改革と密接に結びついている。病院の改革と教育改革とは、合理化の要請を表してい る。合理化の要請は、出現し始めた工業機械化の影響のもとに、経済にも政治にも現れている。そして結局は、それ以後、規格化 (normalisation)と呼ばれたものに帰着することになる」(カンギレム 1987:219)。
●規範概念が、病理概念を相対化する
「もし病気がやはり一種の生物学的規範だということが認められるなら、病理的状態はけっして異常といわれることはできず、一定の場面との関 係の中で異常だといえることになる。逆に病理的なものは一種の正常なものなのだから、健康であることと正常であることとはまったく同じではない。健康であ ることは、一定の場面で正常であるということだけでなく、その場面でも、また偶然出会う別の場面でも、規範的であるということでもある。健康を特徴づける ものは、一時的に正常と定義されている規範をはみ出る可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範/を設ける可 能性である」(カンギレム 1987:175-176)。
●クロード・ベルナールの平均・嫌悪
「クロード・ベルナールは、平均で表された生物学的分析や生物学的実験のすべての結果に対して、嫌悪感を示していた」(カンギレム 1987:130)。
●健康の2つの意味
「正常なものと異常なものとを、相対的な統計的頻度で定義して、病理的なものを正常とみなすやり方は、おそらく存在する。ある意味で、完全 な健康が続くことは異常なことといわれている。しかし、それは健康という言葉には2つの意味があるということである。絶対的な意味での健康は、有機体の構 造と行動の理想型を示す規範概念である。この意味では、よい健康を語ることはひとつの冗語法(redundancy?:引用者)である。なぜなら、健康と は器官がよいことだからだ、資格ありとされる健康は、可能な病気に対する個々の有機体のある種の傾向と反応を示す記述概念である」(カンギレム 1987:116)。
●ベルナールとコント
「クロード・ベルナールは『実験医学研究序説』(仏語省略)を著すにあたって、効果的作用が科学と同じだということを主張しようとしただけ でなく、同時にこれと並行して、科学は現象の法則の発見と同じだということも主張しようとした。この点で、コントと完全に一致している。コントが彼の生物 哲学において生存条件の学説と呼んでいるものを、クロード・ベルナールは決定論とよんでいる。彼はこの用語をフランスの科学的言説の中に、最初にもち込ん だと自負している」(カンギレム 1987:86)。
●ジョン・ライル(John A. Ryle*)論文「正常の意味」
The meaning of normal. 1947
「オックスフォード大学の社会医学の教授であるこの著者は、何よりもまず、生理的規範とくらべて個人にある種の偏りがみられたとしても、そ れだけでは病理的指標ではありえないことを証明しようと努めている。生理的変異性が存在することは正常である。それは順応にとって、したがって生存にとっ て、必要なのである」(カンギレム 1987:252)Canguilhem G. Le Normal et le Pathologique, Paris, P.U.F., 1966.
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*John Alfred Ryle (1889–1950) was a British physician and
epidemiologist.
"He was born the son of Brighton doctor R J Ryle and brother of the
Oxford philosopher Gilbert Ryle. He was educated at Brighton College
and Guys Hospital where he qualified in 1913. He served in the military
during WWI and afterwards qualified MD at the University of London.
After teaching at Guys Hospital he was appointed in 1935 Regius
Professor of Physic [not Physics; "Physic" here is an archaic term for
Medicine] at the University of Cambridge. In 1943 he was appointed
chair of the newly created Institute of Social Medicine at the
University of Oxford, initiating the academic discipline of Social
Medicine (Epidemiology).[1] He was elected a Fellow of the Royal
College of Physicians in 1924 and delivered their Goulstonian Lecture
in 1925 and their Croonian Lecture in 1939.From 1932 to 1936 he was
Physician to King George V's household and then Physician Extraordinary
to the king.Ryle was politically active at Cambridge, helping Jewish
scholars emigrate from Germany and Austria before World War II. During
World War II, he was working at Guy's Hospital to help them prepare for
the Blitz. He had married Miriam P Scully in London in 1914. They had
several children, including astronomer Martin Ryle"(from Wikipedia
in English).
文 献
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