ホンジュラス調査から私が学んだもの:
医療人類学からみた保健医療プロジェクトの持続可能性に関する学際研究
1.これまでの研究の経緯と結果
2.本報告で考えたいこと
3.事例検討:ホンジュラス共和国オランチョ県におけるカウンセリング・サービス
(a)カウンセリング・サービス間の統合の必要性について
(b)カウンセリング・サービスの評価分析における我々の限界
(c)ここから導き出せる方法論上の違和感と改善点の提案
4.結論:学際研究の持続可能性
1.これまでの研究の経緯と結果
私は昨年度(2004年度)に実施されたインドネシア調査から学んだ結果を「『持続可能性』の意味:医療人類学からみた保健医療プロジェ クトの持続可能性に関する学際研究」という報告として提出した。その中で、私は持続可能性(sustainability)という言葉の意味と使い方の間 には齟齬があり、語用論上の混乱に由来するものであることを指摘した。しかしながら、それゆえに持続可能性という用語を厳密に定義する必要があり、そうす れば「保健プロジェクトの持続可能性」を評価する際に、我々の間で齟齬が将来には起こりえないと私は主張しているのではない。むしろ反対である。用語法を 厳密に管理しても、いささか流行過熱気味なこの「持続可能性」という用語は、その自らの社会的要請に応えるべくますます多義的になってゆくだろう。学問の 権威によってある用語の使い方を取り締まっても、実際に語用論レベルでその言葉に多義性が生じるのは、世に数多ある流行語の宿命であるとも言えるからだ。
にもかかわらず特殊な用語――特に新しい術語――をより多くの人々に誤解なく流通させるには、少なくとも議論の冒頭にはその用語の使い方 を定めておく必要がある。私は「持続可能性」という用語には次のような2つの使われ方があり、またそれらを明確に区分する必要があることも報告書のなかで 述べた。つまり(1)保健医療プロジェクト自体がシステムとして継続している〈状態を表現する用語としての持続可能性〉と、(2)比較的長いタイムスパン の中でプロジェクトの成果が当該社会の中で有効に機能し続けるための一種の〈目的を定めた用語としての持続可能性〉である。前者はすでに起こった現象を記 述する用語だが、後者は未来における存続を希望する用語である。この2つの持続可能性は、それらが相互に連関しているだけでなく、お互いに機能を補完し あっていると考えられる。
私はさらに「保健医療プロジェクトの持続可能性」に関して次の2つの命題を検討した。(a)制御コストを極小化することがその持続可能性 を実現すること。(b)持続可能性を評価する際に保健医療プロジェクトがおかれている社会的文脈(social context)の範囲の取り方により持続可能性を評価する尺度は多元化するということ、である。前者は(a)システムの維持に関する〈目的〉について述 べた――つまり前のパラグラフでの(2)に該当する言明――ものであり、後者は、システムの評価基準――(1)に該当する〈状態を表現する用語〉――が観 察者によって“ぶれて”しまうことを意味している。
持続可能性について我々が論じる際に、その用語が適応される事象――他動詞の目的語のようなもの――がつねに我々にとって「好ましい」も のであることが暗黙の前提として考えられており、このことが文化人類学者としての私を煩わしていた。持続可能性は本当に「好ましいか否か」は適用される事 象それ自体を個別に検討しなければならないし、判断はその結果として出てくるものであり「予め」決められているものでもない。このような混乱の原因は、す でに述べたように、ある〈状態を表現する用語法〉について議論しているうちに、いつのまにか〈目的を定めた用語法〉を、我々は無反省に忍び込ませているこ とにある【註1】。
我々人類学者は研究対象を分析する時に、対象に対する認識とそれがもつ価値についての態度を留保するという、いわゆる相対主義的なアプ ローチを試みる。つまり持続可能性というのは、それだけで本当に「好ましい」ことなのだろうか、と我々は疑ってかかるのである。この相対主義は複雑な思考 実験を伴うような難しいものではない。そうではなく[我々にとって自明視されない]異様な質問をもって議論の土台に反省を促すようなものである。例えばこ うである。「人は『保健医療プロジェクト』の持続可能性について論じ、それを実現するような社会的条件について考える。しかし他方で、なぜ人は『組織犯 罪』や『人間の悪』の持続可能性については考えないのだろうか?」というような質問をぶつけることである。
この反語的な質問にもし幾ばくかの教育的(pedagogic)な意義があるとすれば、それはこうである。ある制度とシステムの持続的可 能性は、その制度とシステムを維持させたいという〈目的〉――すなわち研究者の欲望――から分析し続けていけば、それは必ず[対象の中に我々の見たいもの だけを見てしまうような]認識論的限界にぶつかるのではないか。それを避けるためには、その制度とシステムの頓挫や自壊という観点からも考えるべきであ る。つまりある制度とシステムの持続可能の条件には、少なくとも(i)十分条件と(ii)必要条件というものがあり、他方では(iii)必然に支配される ものと、(iv)ある種の確率によって支配されるものがあるということだ。持続可能性の研究を豊かにするのには、持続不可能性の研究が同時に行われる必要 がある。持続可能性を分析する際の認識論的相対主義は、対象に対して偽悪者的に距離をとるための方便ではなく、対象の分析を多角的におこなうための方法論 的な要請のことなのである。
2.本報告で考えたいこと
研究期間の全体を通しての研究目的は、インドネシアとホンジュラスの保健医療プロジェクトを具体例にとって、その持続可能性について学際 的調査研究を通して明らかにすることである。ここでいう学際研究とは、医療(国際医療協力研究)、社会学、人類学、開発経済学などの研究者が、短期的では あるが同時期にチームを組んで現地調査をおこなうことである。現地調査が終えた時点で、各研究者はそれぞれの収集の成果、心証そして分析結果をつき合わ せ、総合討論をおこなう。この討論の結果をもとに、研究対象になる人たち(ターゲットグループ)を絞り、質問紙法による調査を現地側協力者に依頼し、その 分析の有効性を確認するという一連の手続きからなる。このユニークなフィールドワークならびに分析方法を中村安秀は「呉越同舟アプローチ」という巧みな表 現でよんでいる。各研究者がさまざまな思惑(=分析枠組)と目的(=純学問的関心から実践的関与までの幅がある)をもって、同じ舟(=調査期間と調査地を 完全に共有する)に乗り現地調査に臨むのである。ここで重要なことは、学問の専門性を異にする調査者が、同時に仕事をすることにある。
さてこの報告では、保健医療プロジェクトの持続可能性の議論を可能にする学際的研究のあり方について考えてみたい。言い方を変えると、そ れはこのタイプの学際的研究じしんの持続可能性について考えてみたいのである。インドネシア調査ではまだ経験が浅かったために私はそれほど意識していな かったが、今回のホンジュラスの調査から、この呉越同舟アプローチによる学際的研究には、その本来の研究目的の他に、偶発的な産物ではあるが重要な派生的 意義があることを知った。それは、個々の研究者がとる対象との関係のあり方には、その研究者がもつ人間的個性という要因のほかに、それぞれの学問が個々の 研究者をして現地での振る舞いや質問のやり方――問題関心の操作方法――によって規定されているということを発見したことである。それが起こる具体的な現 場に居合わせることは、(この経験を通して)自らの振る舞いや質問のやり方に自己反省的な視点を認識する契機になるということだ。要するに、学際的研究に おける呉越同舟アプローチは、それぞれの学問分野の情報収集に関する振る舞い方――学問研究のハビトゥス――の違いについて私に教えてくれたのである。
このことは、同時に自分の研究分野の方法がそれまで用意してこなかったアプローチの可能性と限界についてもまた教えてくれるということで もある。学際的研究は、参加する成員が目標を共有し、短期間に効率よく成果を上げたいというチームの志気が高ければ、本来の目的であるところの(a)保健 医療プロジェクトの評価手法としての学際研究への寄与の他に、(b)研究対象の独自性が、それぞれの研究領域の狭隘な占有意識を超えて、新たな研究領域を 作り出す可能性秘めているという意義を生みだすのではないか。もちろん闇雲に研究者たちを同じ舟に同乗させればすべてうまく解決するという問題ではないだ ろう(船頭多くて船山に上る喩えもある)。自己の分野の研究に自己反省をもたらすためには、他者の研究分野に対する評価と敬意の念が不可欠である。つまり 研究チームのメンバーの意識の中に、その学問的方法に関する一定の共通理解と合意が必要である。呉越同舟の学際的研究においても、その持続可能性をもたら す社会的要因があると考えられるのである。
このような議論を活性化させるためには、文化人類学者の観点から、今回の調査に対してどのような心証を抱いたのかについて正直に披瀝し、 その心証の学問的理由について述べておかねばならないだろう。以下において、それぞれの分野の専門家の質問に応じて答えられた現地側の返答や、それにもと づく分析を[断片的ではあるが]取り上げ、私の専門分野である文化人類学からいかなる注釈や注記(commentaries)ができるのかについて試みた い。
3.事例検討:ホンジュラス共和国オランチョ県におけるカウンセリング・サービス
(a)カウンセリング・サービス間の統合の必要性について
オランチョ県において個々のバラバラに実施されていたカウンセリング・サービスがなぜ当該のプロジェクトにおいて「統合」されなければな らなかったについて知るには、開発途上国における医療政策のイニシアチブの状況について知っておく必要がある。援助団体が多数入り込んでいるホンジュラス 共和国の保健施策のほとんどは、欧米の公式援助団体や国際医療機関(世界保健機関の地域部門であるパンアメリカン保健機関)により決定される。自前の財源 ならびに、国民主義的な政策理念が希薄なホンジュラスでは、保健省は地方の保健医療政策を自己決定することがなく、その政策の実施的な執行機関にのみなっ ている。彼らが自己決定に深く関わるのは他の省庁と同様に、省内の人事案件に関してである。
そのため医療プロジェクトは、保健省中央が大きなグランドデザインをもって個々のプロジェクトを運営しているのではなく、それぞれの個別 援助プランによって、個別に運用されているという状況があった。このことがカウンセリング・サービスの普及においては、具体的にどのような弊害をもたらし ているのだろうか。それは限られた財源で運用されるカウンセラーの養成プログラムは画一的でレクチャー中心の訓練になりがちであり、事後的な評価や再教育 が考慮されることが少ない面に顕著にあらわれる。また、カウンセラー養成のプログラムをおこなうのは、そのプログラムを請け負う保健省の部局であり、プロ グラムを実行したにもかかわらず、カウンセラーが独自に働ける部局・部門を新設しないかぎり、その職業的資質を十全に活かすことができない。もちろん今日 の医療プログラムにおいては野放図な診療システムの拡大は禁忌であり、スクラップ・アンド・ビルドの精神でどこかをリストラクチャリングする必要がある。 しかしながら、先に述べたように、保健省が大いなる自己決定の意識をもって関わるのが人事案件であり、これらは政党政治や地元の権力構造と深く結びついて いるために、中央政府以外の外部からの「助言」で動くようなものではない。つまり改革のための最も大きな障害になっている【註2】。
オランチョ県のサンフランシスコ病院を中心としたJICAのプログラムがカウンセリング・サービスの「統合」を目指したのは、個々の分野 のカウンセラー間の協力態勢がほとんどなかったという問題状況を改善するためである。また、養成プログラムの回数や参加人数により評価が測定されるといっ たこれまでの開催システムでは、教材を使ったレクチャー中心の訓練偏重であったために、それを改めサービスの実効性を増すために実習中心のトレーニングが 採用されたという。トレーニングの結果生まれたカウンセラーのチームにはニックネームが付けられ、養成トレーニングを受けたメンバーの専門職業人としてア イデンティティを長期的に維持するような工夫も試みられた。
以上が、今回の調査におけるカウンセリング・サービスの評価のための基本的なプログラムの内容と、それを理解するための社会的文脈につい ての基本的な説明である。
(b)カウンセリング・サービスの評価分析における我々の限界
今回は、このカウンセリング・サービスを統合プログラムや、定期的な維持・再教育をおこなった元専門家が調査に随行した。このことは、こ のカウンセリング・サービスの統合プログラムの必要性や、その実現のために当時どのような工夫が行われたのかについての事情聴取には「生の声」が聴けて大 いに役立った。
他方でプログラム実行者が、学際的な評価そのものの調査に関わることで、調査者と被調査者の間に客観的な距離をとることが困難になること がしばしばあった。たとえば、元専門家と受講者であったカウンセラーとの感動的な再会の場面に立ち会うことができた。これは、統合プログラムが確実に受講 者に対してよいキャリア教育を進められた証左であり、無味乾燥な報告書にみられるような数値の羅列には決して見ることのできない、人間的な交流の成果を肌 で知ることができた点で僥倖とも言えるべき経験であった。しかし、他方で受講者にとって何が成果として残されており、いったい何がまだ未達成であるのかと いう、プロジェクトがもたらした反省点を見つける機会がほとんど得られなかった。(インドネシアにおける調査でもそのようなことが言えるのだが)調査者と 被調査者の間に利害関係がかつて形成されていると、「客観的評価」を曇らせる様々なバイアスがかかる【註3】。システムの評価に関わる調査とは、当事者の 間の同窓会的な交流とは異なる類の活動であるからだ。ただし、これは調査において利害関係者を排除すればよいという問題でもない。さまざまな被調査者を選 抜して、彼女たちの経験においてこの「統合プログラム」がどのような影響をもたらしたのかについて知るには、もう少し時間がかかるように思われる。受講者 の能力の限界によるものか――その場合は再教育が必要になる、それとも受講者がその能力を十分に発揮できないような職場環境整備などの制度的な問題である のかが、このような短期的な調査では明らかにされない。
オランチョ県という広大な保健地域において機会的で短期的な訪問は、調査というよりも表敬の意味を大きくもった訪問としての性格が強くな る。地理的に偏狭な地域から「旅費」が補填されることがないことを承知でわざわざ集まるカウンセラーたちの熱意には脱帽する限りでであるが、その状況自体 は逆に調査対象として、そこに居るということがすでにある種の偏り結果ではないのかという警戒心もまた必要である。たぶんこれは、全体的に成功しているプ ロジェクトにおける部分的失敗例を採集するのが、この「統合」アプローチの可能性と限界を明らかにすることに供するものと思われる。
これに類似した懸念は、心理的にタフでなければならないはずの、これらのカウンセラーが元専門家の前では、きわめて感情的、共感的にな り、時に我々に対して依存的に振る舞っているのではないかという状況に遭遇した時にも感じた。我々の質問に誠実に答え、また彼女たちが直面している窮状に ついて真摯に語ってくれる当の目の前の人たちは、我々が客観的に解答を引き出すためにデータを提供してくる人たちを代表する者であると、はたして自信を もって言えるだろうかという現場の心証からくる懸念である。それは、調査を試みる意志をもつか否かというよりも、短期の現地調査を通して「有効な調査デー タ」を引き出そうとした今回の方法論的限界かもしれない。
このような一見辛辣な意見は、調査時に直接的反応として出てくるものではないだろう。調査から数ヶ月が過ぎオランチョ県での経験を繰り返 し反省的視点から再考することで少しずつひねり出されてきたものだ。また(完全に誤解しないで欲しいのだが)特定の誰や何が悪いのかという類の問題ではな い。フィールドで起こる問題を想定していなかった調査のデザインに対して、事後的に欠陥に気づいたという反省である。これらを教訓にして次節で調査手法の 改善点について考えてみよう。
(c)ここから導き出せる方法論上の違和感と改善点の提案
呉越同舟アプローチの利点は、それぞれ異なる研究者を〈同じ時間と空間〉内に拘束し、その間でみられる相互的な触発行動から、対象に取り 組む研究上のユニークな反省点を引き出すことにある。そこで重要になるのは、同じ時間に、同じ対象との調査をおこなっていても、その後の討論を通して実 は、相互にかなり異なった観点において対象を見ていることを発見するのである。その際に、それらの観点の違いを、自己の領域の中に他の研究領域の発想を取 り込もうという態度が生まれることもあるし、また他方で、自己の領域の観点の特異性について自己反省的になり、その可能性と限界について気づかされること もある。研究者の〈同じ時間と空間〉による拘束の効用は以上のとおりである。
他方、文字通り〈同じ時間と空間〉に拘束できない事象というものもある。それは、それぞれの研究分野が想定する〈バーチャル〉な時間と空 間の範囲である。例えば、歴史学者と文化人類学者が調査データと対話する時間と空間の範囲には、それぞれ違いがある。もちろん同じ学問の中でも研究テーマ や方法が異なれば、想定できる〈時間と空間〉の範囲にも多様性が生じるだろう。さらに得られた資料から、一般化できる時間と空間の幅にも、分野や研究領域 によりかなり異なることがある。もちろん、線型的で不可逆な時間と、非線型で循環的な時間のように、どのような時空間の感覚をもつのかということも、それ ぞれの学問分野で異なるであろう。もちろん調査者の間においても、対象となる地理や住人のイメージも異なるだろう。
上記のカウンセリング・サービスの評価において、文化人類学者が質的調査を主とする類似の調査をおこなうならば、最低数日間から数週間を かける――時間をかけるにはデータ収集の上の制約もあるが、それ以上に被調査者とのラポールをより重要視したいからである――必要がある。そして必ず現地 語でおこない、事前に当該社会の文化状況やコミュニケーションのかたちについての基本的な情報を入手しておくこと、などが必要になる【註4】。もし今回の ような呉越同舟アプローチをとるならば、データに飢えた人類学者はそのまま現地に「居残り」、カウンセリング・サービスの評価調査をおこなったデータが “文化人類学的に”信頼に足るものであったのかを引き続き調査することが望ましい。そのような現地経験を積んで人類学者は、はじめて学際的調査データの検 討に関する第2ラウンドの集まりの開催を調査メンバーに対して要求するであろう。
4.結論:学際研究の持続可能性
それぞれの社会や時代の中で大きな発言権をもつ科学研究の分野がある。我々が親しんできた従来の見方によると、これらの具体的科学の栄枯 盛衰は、その学問に内在する研究の活力に左右されていると考える。その社会の中で支配的になっている科学は、その進歩の結果であり、我々は科学の蓄積の成 果により真理へより接近していると考える。このような見方は近代において十全に洗練されてきたので、これを〈モダニスト的見解〉というふうに名付けること ができる。モダニストにとって見れば、重要な研究テーマを解法するには重要な学問があり、本研究の関するテーマにとってみれば、それは生物医学 (biomedicine)であると言うことができよう。しかしながら文化的社会的要因が深く絡む保健医療プロジェクトの持続可能性の研究に、生物医学の パラダイムだけでは完全に無力である。
したがって、我々はこれまでの科学観における〈モダニスト的見解〉を修正し、社会的文化的配慮を組み込んだものに造り直す (reshape)必要がある。その科学観とは次のようなものである。どの社会や時代においても真理に近づく普遍的で重要な科学が存在するのではなく、そ の社会や時代が重要視する問題解決に有効に取り組むことができる科学を、その社会は“結果的に”重要だと価値づけているという見方である。ここで重要なの は主要な科学のドグマを守ることではなく、問題解決に即したかたちで学問の実施体制を組み替えることである。この新しい科学の見方を、ポストモダニスト的 見解と名付けてみよう。学際研究は、このようなポストモダン的見解を通して、科学の[再]統合を推し進めるものである。しかしながら、このような新しい見 解に立って学際研究の重要性が主張されるようになるのは、極めて最近のことであることに留意すべきである。
天沼直子(2005)が指摘するように、第二次大戦後における行動科学の進展以降、人文社会学では学際研究の重要性が一定の周期をもって 主張されてきた。モダニスト的見解が取られてきた過去の時代では、学際研究への必要性は次のようなものであった。つまり、その社会において取り組むべき問 題が複雑かつ多岐にわたっているので、その時代における重要な複数の学問が互いに協力してその問題解決にあたらねばならない。しかし、現代における学際的 研究の必要性はそのような形では要請されてはいない。何かあらゆる問題に有効な手だてを提供する単一の重要な学問(=生物医学)は、保健医療の持続可能性 の研究においては、ひとつの分析手段にすぎなくなる。なぜなら現代の個々の科学が抱えている問題とは、それぞれ方法論が厳格に規定され、その適応範囲が狭 くなったために、狭い範囲での議論には正確に答えることができるが、重要な問題――グローバルな構造変動やある現象の長期的な予測、例えば持続可能性の問 題など――には、ひとつの個別学問では対処できなくなったというのが現状である。既存の科学では解けない問題が山積してしまった今こそが、学際研究の重要 性について着目されている。しかしそれはモダニストの時代における学際研究への要請とは明らかに異なっている。
このような学際的学問への期待は、この複雑化した問題に取り組み、有効な視座を提供することができなければ、その存在価値そのものが疑問 に付されるという危機感を内在している。そう言う意味で、本研究は極めてポストモダン的な状況の中にあり、それ以前の学際的学問に期待されていたものとは 異なったものになっている。
呉越同舟アプローチは、このポストモダン的状況にある学際研究の可能性をためす一つの試金石ではある。それは始まったばかりの試みであ り、これをもって最終的な評価を下すべきものではないだろう。今後さまざまな形の呉越同舟アプローチが試みられる必要性があるのは、以上のような理由から 明かになった。このアプローチには将来に託された[未だ十分に解かれていない]さまざまな改善点があることもまた言うまでもない。
註
【1】2006年9月23日の私のノートには、検討会議に参加したメンバーによる「持続可能性」を可能にする社会的条件に関するメモが以下 のように記されている。「(プロジェクトにより裨益される人々)自身の生活をコントロールする状況を作ること」「コミュニティのニーズが(プロジェクトに 先行して)存在していること」「個人がその状況を指摘することができ、かつ(プロジェクトが)受容されているとき」「外部者の視点(etic)ではなく内 部者の視点(emic)や言葉によって理解されているとき」。これらの言及にみられる共通の特徴は、プロジェクトの受ける人たちの自律性 (autonomy)や自己決定(self-determination)に関するものであり基本的に「良きもの」として理解されていることが容易にわか る。
【2】もっともこれは権力構造という蚊帳の外にいる外部評価ミッションが常に最初に抱く脳天気な(naive)見解であろう。開発途上国の 保健行政に直接関与する医師や行政官僚という当事者の内部からの視点で見れば、人事案件の掌握は彼らにもっとも「公平に開かれた」権力闘争の現場であるか らだ。彼らの視点によれば、リストラクチャリングを通して保健行政の構造改革をせよという「助言」を受け入れるためには、それ以外の具体的な保健行政にお いて財政援助はしても、医療政策の決定権を自分たちに取り戻してからだと言うことになる。植民地や帝国における医療は、宗主国からの軍事的あるいは財政的 援助によって運営されており、その施策の発想の源にはパターナリズムがある。したがって、宗主国から見れば、植民地の人々に医療の自己決定権などは想定外 の発想である。パターナリズムにもとづく医療援助の発想がもし続いていたならば、開発途上国の医療援助協力の枠組みは、植民地医療の枠組みを「未だ」脱出 していないか、経済的要因により外部から人々をコントロールする「新植民地医療」の形態をとっていることに他ならない。
【3】だからと言って私は、事実認識と価値判断を峻別し己の判断や理念を自覚することを通して価値中立な視点をとることが可能になるという M・ウェーバー流の「客観的」視座が常に実現されることに関しては「未だ」懐疑的である。本文における客観性を可能にする条件は、アメリカの文化人類学に おける公平と無関心(detachment)つまり相対主義的な立場であると信じるものである。
【4】人類学者としての現地語へのこだわりとは以下のようなことである。私は今回の調査でほとんどはじめてコンセヘーロ(カウンセリング) とかレド(ネットワーク)というスペイン語学術用語(前者はアングロサクソンからの借用語、後者は概念の翻訳語)を、保健省の人間が、職場であたかも普通 名詞のように使っている様子を発見した。調査が終わってから、ホンジュラスならびにグアテマラで、日常会話をしたり、私が接した限りある人間に「これらの 用語を定義してごらん」と質問したが、[いわゆるこの学術用語に叶う定義に]満足に答えられる者はいなかった。限られた事例を一般するにはより慎重でなけ ればならないが、これらの用語が、オランチョ県のある種の専門職集団の中でのみ流通する特殊なジャーゴンになっている可能性すらある。このような用語が先 進国において通常一般化されたものになるには、まだまだ時間がかかりそうであり、また近い将来オランチョ風に土着化した固有の概念になる可能性もある。
文献
天沼直子 2005 「国際協力分野における学際的アプローチの実践に関する研究」大阪大学大学院人間科学研究科ボランティア人間学・国際協力論専攻・平成16年度修士論文