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権力と科学
解説:池田光穂
宇井純は1974年に出版された書物の中で「第三者的な研究は必然的に加害者のための研究でしかありえない」と述べているという(当該ページは現在調査中)。
ある論証過程の中で、このようなことが結論として登場することには問題ないだろうが、科学は権力者に奉仕することを言い換えて、宇井の発言をこのようなかたちで一般的に命題化することは、大いなる誤解を引き起こすだろう。
私の主張は、このような命題を一般化を批判することにあるのではなく、このような主張は我々の日常の中で、しばしば耳にする発言なので、そのような極端な主張を聴いたときに、我々が対処すべき論理的な自覚のトレーニングとして、この主張を(宇井の全体の議論とは無関係に)枝葉末節としてとりあげ、このような主張の背景にある考え方の前提について考えてみたい。
問い1:第三者的研究とはなにか?
そもそも第三者的研究とは何か。もともと、事実の客観的把握という実証主義的な伝統にたてば、介入研究においても第三者的な立場を保持することは、研究の基本ではないかと思われる。
宇井のいう第三者とは、この主張の文脈からは、加害者(第一の項)、被害者(第二の項)そして、研究者としての第三者の項なのだろう。彼は、被害者の側に立てというのだ。
この場合の議論は、加害者と被害者が明確に分かれている場合である。加害者であり被害者であるという、あいまいな存在などないとはじめから想定されているのだ。
明快な加害者、明快な被害者をどのように定義するのかという、当事者の発見に関わる問題をクリアしないと、第三者的研究は定義できない。
問い2:加害者のための研究、被害者のための研究という色分けに対する疑問
これは研究の目的が誰のための供するのかということを明確に意識せよということだ。しかし、このように言わずに、第三者的研究は、自動的に加害者の研究に繋がるというのは、どのように控えめに言っても暴論である。
もし、「第三者的な研究は必然的に加害者のための研究でしかありえない」という言い回しが、加害者と被害者とは誰か、そして自分の研究がどのような帰結を生むのかについて明確に意識しないと、その研究を含めた社会状況を定義する権力者(=宇井純によると、権力者はしばしば民衆を犠牲にするという認識論的前提がある)の側に与する、と言いたいのであれば、そのように正確に発話すべきであろう。
ラディカルであるということは、根性論や精神論ましてや宗教的ドグマではないのだ。
もちろん、このような言葉の枝葉末節を捉えて、宇井の業績や彼が貢献した社会的実績全体を評価してはならない。しかし、グレートな研究者においても、宗教的プロパガンダを弄することがあるという点では、人間的に親しみやすいとも言える。
宇井純『公害原論III』亜紀書房、1974年