〜さん づけの効用
Let us call our colleague's name with -San
ごぞんじのように[つまりこの日本語を読める人たちが理解できるように]、日本人では社会関係における身分上の上下について、よく配慮する /してきた社会である。これは、もともと伝統的な日本社会――つまり明治維新以前――では、身分制を基本にし、その身分内における同質性を維持することに 細心の注意が払われてきたからである。
それゆえに[因果性説]というか、そのために[機能維持説]というか、日本では敬語という用語法がある。さて、ここで議論したいのは、いわ ゆる敬称の用語法をめぐる、大学や研究機関あるいは学会での使い方についてである。
大学が研究機関あるいは学会では、社会のあらゆる側面での構成員間における人権の尊重、あるいは現場の運営原理における民主主義の効用が説 かれた結果、お互いに同僚を、職場での位階や[職務上の]身分を意識することなしに、〜さんづけで呼ぶことが提唱されるようになってきた。
これ自体は、単純に言ってたいへん善いことである。なぜなら、大学や研究機関あるいは学会での議論というものは、真理や妥当性というものを 規準にして議論が運営されるべきだと考えられているから、位階や身分などの社会性を介在させることは、余計なノイズであり、場合によっては自由な議論を妨 げるものであると、多くの人たちは考えるからだ。
しかしながら、他人を〜先生というふうに、敬称で呼ぶことが弊害だらけというわけではない。たしかに身分制というものは、百害あって一利も ない。しかしながら、弁護士――もうマッチョ世界ではないのだから弁護師と書き換えてもよいが、それだとなんか口先だけの弁舌師の感じがするのはなぜだろ う――と医師に対しては、「とりあえず先生と呼んでおけ」というように、敬して遠ざけるためには、便利な用法である。あらゆる人間関係が、親密性や気軽な ことだけで動くわけでもあるまい。我々がこれまでの学校で、裏で先公(せんこう)と呼ばれた職業の人たちのことを先生と表面的に使ってきて、適当にやり過 ごしてきた、便利が方便がひとつ減るからである。だいたい、内面で思ったことをすべて表面に表すのは、明らかに病理的兆候であるし、程度の差はあれ、人間 社会とはそんな単純なものではないだろう。社会や文化により程度はあるが、そのような二分法はどのような社会でもおおむね確立されている。だから、このこ とに伴う背理があるのだ。
それから、全体主義的に「みなさん、ここではお互いに〜さんづけで呼びましょう」というのも、慣れていない人はなかなか苦痛になり使いづら い。もちろん、慣れればどうってことないのだが、半強制になると、使い慣れない人は苦痛になる。私の知人で、対面では、池田先生と呼んでいる人が、私の職 場の公的な場面ではいつも「池田先生、いや間違ってしまいました。池田さんが……」とほとんど、どもり――これは差別語と公認され我々の抑圧の対象になっ た半分死んだ用語である――のごとくなんども繰り返されるのに直面するのは、何かつらい気持ちになる。〜さんづけの半強制制度の犠牲者なのではなかと感じ て気の毒になるからだ。
本来の意義からいうと、友愛を基調とする場で〜先生というのは、徐々に廃れつつあるのに、それに追い打ちをかけるように、〜さんづけを半強 要させるのは、いかがなものか。そして、その提案が、司会進行者や若手ではなく、その機関の長や職階の高い人からの提案だと、いよいよ緊張するようにな る。つまり、一種のダブルバインド状況を作ってしまうというわけだ。
したがって、このような提案は、まさにみんなが〜さんづけで呼ぶような雰囲気がある程度できてから、その痕跡のようにのこる「〜先生」の呼 称を廃絶するという段取りを踏むのがよい。実際に私が参加しているメーリングリストにおいて、ある程度議論が盛り上がったり、メールだけではなく実際に研 究会などで交際した後に、このような提案があったので、その方(リーダー)の「〜さん」づけの提案は、極めて違和感無くおこなわれたことがある。こういう 提案は、嫌みがなく本当にさわやかである。
〜先生とお互いに呼び合ってきた世界というのは、実は身分制という特権で守られてきたぬるま湯[若手の人には地獄だが]の世界なのである。 その証左に、「〜先生」と内外で呼び合う世界は、医師と弁護士とあと教師の世界であった。そういう排他的な社会が崩壊しつつあるからこそ、内部から〜さん づけで呼ぼうという動きが生じてきたのだろう。
構成員をおたがいに〜さんと呼ぶのは、その組織運営が自由で民主的にすることと、お互いに連動していないと、その提唱(=そらぞらしく先生 とよぶ制度の廃止のこと)に存在意味がないことは言うまでもない。まず職場の平等主義的雰囲気が「〜さんづけ」のスピードを加速するのであり、「〜さんづ け」の制度が平等主義の社会環境を造り出すのではない。
このようにみると、差別語や軽蔑語の撤廃についても同様で、言語使用を抑圧するだけでは何の意味もない。むしろ、その社会的意味について深 く思慮し、その議論をみんなが共有することが重要であるということだ。