規格化された討論の技法
Standardized Method for Group Discussion
皆さんが実践するグループ討論の方法と、その一般的ルールについて説明します。まずは下記の図をごらんください。
見にくい場合は画像をクリックしてください。
これからグループ討論の方法について説明します。
ここでのグループ討論は、世の中でおこなうさまざまな集団の討論の形式を、大学・大学院での授業(教育)という枠組みのなかで抽象化・洗練化さ せたモデルとして考えて規格化ないしはプロトコル(儀典化)したものです。
まず皆さんに守っていただきたいルールがあります。それは、ここでの議論は、道徳的判断(例:未知の患者に余命1週間であることを伝える家族会 議)でも、政策決定(例:内戦で混乱している外国に治安目的のために軍隊を派遣する)でもありません。議論の決定が特別な道徳的判断を引き起こさない、あ るいはそのようなことが忌避されている、いわゆる純然たる学問的議論についてです。後者のような議論のタイプが人間の活動において常に成り立つという保証 はありませんが、少なくとも学会や研究会では、このような運用方式によって、議論を通してさまざまなアイディアを交換して、それぞれの研究分野における生 産的な活動に寄与させる方法がとられています。このような方法に精通することは、理性的かつ冷静に考えることができることと同じであると、ここでは考えて おきます。
教室で保証された学生同士の議論においては以下のようなことが保証されていないと、価値中立な議論のトレーニングになりません。
(1)討論とは言語を操る一種のゲームである。ゲームをおこなうことの中には、熱中、遊び、仮想性が含まれる。
(2)ゲームに私情を持ち込むのは御法度である。議論はしょぼいが、声が低音でカッコイイとか、イケメンだから良い意見だと判断する者は正しい ゲームプレイヤーとは言えない。もちろん、議論がこんがらがったり、激高するようなことが怒って、もまず冷静に軌道修正する努力をおこなうべきである。
(3)相手の論理をきちんと、別の論理を動員して批判することと、非難することとは違います。相手の論理が未熟だと、どうしても相手を見下して 個人攻撃(ad hominem)に転化する危険性がありますが、これを制するのも理性の力です。また、本当に良いことだと称して、道徳的事象にまつわること(これはよい が、これはわるい)ということも極力抑えるべきです。人生訓を展開しても犬も喰いませぬ。
(4)議論がゲームだからといっても、相手をねじ伏すことがゲームの勝利ではありません。より説得的な議論を展開できたものが勝利ですが、この ような判断は普遍性をもつ部分と、そうでない部分があり、歴史社会的文脈いかんでは、その正反対の判断が適切と判断されることがあります。議論の公平性を 保証するには、反対の意見が出てきて、それが最終的な結論とどのような関係にあったのかをきちんと記憶に残るようなものです。全体の総意が統一されても、 個人の意見の多様性が保全されるように配慮することも重要です。
ここまで来て学生・院生の皆さんはもうお気づきになったと思いますが、このような議論の一般原則は、じつは大学内で多くおこなわれるゼミナール や、他の大学の研究者などと一緒におこなうことが多い、学会の分科会やシンポジウムで採用されていることとほとんど変わりません。ということは、このよう な議論の方式に精通することは、専門性を活かして大学や社会の現場で働く職業的トレーニングそのものになるということです。
グループ議論は以下のようなステップを踏んで進みます。
このようにして制限時間が来た時点で議論を切り上げるようにします。
その次は、授業(教室)全体で各グループの発表をレポーターにより発表してもらいます。これをおこなう理由は、グループのすべてを聞いて回ると すべての議論について聞くための時間と労力が膨大になるためです。
主宰者は最終的に論評を加えることができますが、あまり講評てな感じで価値判断を全員のメンバーに押しつけるものは禁じ手です。
さあ、それでは指定されたグループで討論をおこなってください。時間はXX分間しかありません。時間内に終わるのも司会者のテクニックです[た だし慣れるまでは失敗するものですからまずはリラックスをこころがけます]。VV番教室に派遣?された学生と教員は所定の時間に戻ってきてください。
[終わった時]この時点でZZ分たっています。たぶん移動の時間などを含めてほとんどの時間が経過している可能性があります。
この日の授業では、そのうちのいくつかのグループをセレクトして、レポーターの方に発表してもらいましょう。(ワープロのミスタイプで「みなさ んに発砲してもらいましょう」となりましたが、笑えますね。しかし、なにか実態を反映してたりして?!)
臨床コミュニケーション
臨床コミュニケーションとは、人間が社会生活をおこなうかぎり続いてゆく、ある具体的な結果を引き出すためにおこなう対人コミュニケーショ ンのことを言います。ここで言う臨床とは、狭い専門領域としての臨床(clinic)ではなく、その現場における実践状況(human care in practice)のことをさします。臨床コミュニケーション研究において、このような脱専門領域の意識を共有することは重要です。なぜなら臨床コミュニ ケーションとは、専門家どうしの対話のみならず、専門家と普通の人(例えば患者など)、そして日常経験の中に生きる普通のひとどうしの対話などから成り 立っているからです。
ディスコミュニケーション
コミュニケーションの不在や失敗を、私たちはディスコミュニケーションと呼びます。ディスコミュニケーションは良好ではないという点で、い ちはやく「問題の発見」や「改善や治療」の必要性が叫ばれます。しかし、劣悪な関係性であれば、コミュニケーションを遮断することが最善の選択になること だってあるはずです。我々はコミュニケーションとディスコミュニケーションの様式を深く学び、それらを上手に操ることも必要なのです。良好なコミュニケー ションを目指す人は、ディスコミュニケーションについての深い理解が不可欠です。