わかることとできること
――もう一つのコミュニケーション論を考える――
山崎吾郎
[特別講師:日本学術振興会特別研究員]
◆ 「わからないけど、できる」コミュニケーションとは。
◆ 臓器提供の場面から
◇母親の立場としては、それでも「もしかしたら生き返るかもしれない」という思いはもちろんありましたよ。こんな状態を信じたくないという思いでいっぱいでした。だから「汗ばんでいるではないですか!熱があるではないですか!」とわめき散らしたんです。何か動きがあるたびに「体が動いているのではないですか!」と声を上げたりして。そのたびに医者からは「あれはただ、機械でつながれて動かしているだけです。自分の力では動くことはできません。」と説明をされましたね。でも、なかなか信じることはできなかったですよ。「声をかけ続ければ目を覚ますのではないか」とか「おきるのではないか」という思いでした。「奇跡がおきるかもしれない」と。結局、素人にはそういう知恵しかないわけですから。(山崎近刊より引用)
◇難しいことはわかりませんけども、脳死っていうのは、死んでいるけれど生身でしょう?だから、手術の時は脳死でも動くんですって。動くから麻酔を打つって言うんですよ。そういうことを考えると、そのときは知らなかったんですけども、今では脳死からの提供はかわいそうだと思えますね。手術のときに動くから麻酔を打つといわれたら、生きてるんじゃないかと思いますよね。それで、後になってなんとむごいことをしてしまったんだろうと思いました。かわいそうなことをしたなぁ、むごいことをしたなぁと思いました。でも、正直いって、何がなんだかわからなかったんですよ。もうそのときは忙しくて。(同上)
◇提供を決めたのは私です。どうしてでしょうね。どこかに息子の臓器は生きているんだと思えるからですかね。(…)でも病院にいたのは、たった5日ですからね。5日ではそこまで考えられなかったですね。人のためになるなんて思えるようになったのも、6年くらいたってからのことです。それまではとにかく息子に「ごめんね、ごめんね」とあやまっているような毎日でした。(同上)
◆ 考えてみること
◆詳しく知らないまま提供の判断に加わった人たちは、自分で判断したのだろうか。
◆充分に知らなくても判断できたのはなぜか。
◆この場面で、「より良い」コミュニケーションのためにどんな条件が求められるか。
◆「わかっているけどできない」(「わからないけどできる」)身近な例を挙げて、そこに隠れた問題について考えてみる。
参考
山崎吾郎(近刊)「脳死――科学知識の理解と実践」、春日直樹編『人類学への招待(仮)』ミネルヴァ書房。
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