あなたには愛というものがわからない
水俣が私に出会ったとき(部分) ——社会的関与と視覚表象—— 池田光穂
K大学のS(3)は、はるか昔の反公害闘争時代における水俣との出会いを(まさに水俣の地で)私に語ってくれたことがある。「当時は国鉄の水 俣駅でいちど降りれば、もう一生ここから逃れられないような気がした」。まさにそのとおりである。水俣を外部から語る者には、水俣——より正確に言えば水 俣病事件——にかかわるコミットメントに関する儀式を経なければ、参入できないという心理的障壁が存在していた。もちろん、コミットメントの儀式も、それ が存在するのだと信じ込む心理的障壁もまた虚構だが、これらはすべて水俣病事件に関わる具体的な現象を、一般的で抽象的なものとして理解しようとする愚か な知的態度にするものである。だが、このエピソードでは佐藤がなぜ水俣での「途中下車」というものが、それほどインパクトがあるものと体験したのかを、我 々は想像することができない。
→(3)学術論文の通常のスタイルに従い、文中に登場する固有の氏名は呼称をつけずに表現している。それぞれの人間に対する敬意は論文以外 の表現手段により実現することができると私は考えている。
体験する以前に感じる、体験の重さや深刻さはどこからくるのか。授業や研究において、深刻な社会問題を取り扱う時に、指導教官は訳知り顔で 「この研究は非常に重たいテーマ」であると学生の前でコメントするが、なぜ重たいのかについての説明は常に省かれたままである。(少なくとも現場に居合わ せていた当事者を除き)「重たい」と感じるには、その深刻な対象を「見たという経験とその想起」が必要なのではないだろうか。あるいは、ビリー・ホリディ がアランの視覚表象に訴える黒人のリンチの情景描写を読んだ瞬間に、父親クラレンスを思い起こしたように。 その意味では、土本典昭が生産しつづけたドキュメンタリー映画の諸作品は、水俣に関心をもつ「ずぶの素人」が(イマジナリーな)水俣への参入を助けるこ とに大いなる貢献をおこなった。だが大学のキャンパスでのそれらの作品の自主上映は、ヴァルター・ベンヤミン[一九九五]の言う「気散じ」のなかでの視聴 というよりも、反公害闘争の礼拝的価値を強調するものであった。もちろんこれは主催者の意図というよりも、礼拝的価値をその映像作品の中に読みとろうとす る「真面目な学生たち」の過剰な読みとりだったかもしれない。 Sの言うように、当時の知識人あるいは知識人の卵たちが、水俣に一歩踏み入れたならば、そこから出られなくなるという心理的障壁があったにも関わらず、 その障壁を超えた出会いがあり、その価値の重要性は強調してもしすぎることはない。 次の話は原田正純が形をすこしづつ変えながら、いろいろなところで語る水俣病との出会いに関するエピソードのひとつである[原田 一九八九]。私は、こ の話につよく惹かれ、自分じしんがおこなう大学の授業の中でもよくこの箇所を学生に読んで聞かせたり、その一部の複写を配布して朗読することを好んで行 う。引用文は、一九六〇年以降、原田が水俣病研究に関わるうちに、母親の胎盤を経由して有機水銀が胎児に移行するという現象に次第に関心をもっていく状況 を述べたくだりである。そこにおいて、彼は水俣病という「疾患」(4)についてではなく、水俣病事件という社会現象が彼と取り結ぶ決定的な「関係」につい てドラマティックに語っている。
→(4)有機水銀中毒症である水俣病は、その原因に着目すれば一般の「病気」というよりも「傷害」にあたるものであるという自明の事実は、 ごく普通に「疾患」と書くことがいかに病気の社会性を閑却することで近代病理学概念が形成されてきたことをはからずも露呈する。そのことを想起するために 疾病という言葉に鉤括弧をかけた。
「この小児の問題こそが当時の最大の未認定問題であった。先輩たちの研究はほぼ核心にふれるものであったが、なぜか数年放置されていた。急いで 調査しなくては先輩たちに遅れをとるとばかりに私はあせった。その結果、この母子を診察のために頻繁に呼び出すこととなったのである。/ある日、母親が いった。「先生たちに何回も何回も診てもらうのはありがたいばってん、いったい、いつになったら結論がでるとですか、もう六年も七年もたってますばい。そ れに呼び出されて、この子ば連れてくると一日がかりで、一日の日雇い賃金がパーになって、生活が苦しかとです」。私は返す言葉がなかった。大学院生の私の 身分では日当を払うだけの金はなかった。そこで私は、一軒一軒患者の家を訪ねる調査に切り換えた。そして、そこで見たものは、すさまじい貧困と差別であっ た。大学を出たばかりの若い私には、それがどういうことか、理解をこえていて、わからなかった。ただ、彼らはなにも悪いことをしていない。彼らはただ魚を たべただけではないか、それがどうして、このように差別され、隠れるように生活していかなければならないのか?という憤りを感じた。その憤りをエネルギー に、私(原田)は調査をすすめた。(熊本大学医学部の)立津教授の指導よろしく、その結果をまとめた論文が、予想もしなかったことだが、一九六四年の日本 精神神経学会賞をもらった。これも、私と水俣病との関係を決定的にした要素のひとつとなった。患者たちに大きな借りをつくってしまったのである。私は、水 俣でおこっていたことを、その現場にいって見てしまったのである。それは、患者の悲惨であり、地域での差別であり、はげしい労働者の争議であった。/見て しまうと、そこになにか責任みたいな関係ができてしまう。見てしまった責任を果たすように、天の声は私に要請する。そして、なぜこのようなことになるの か、なにが問題なのか、知りたいと思った[原田 一九八九:二頁、文中/は改行、( )は引用者が補った]。
この文章は、有機水銀中毒症の患者と家族が過酷な社会状況のもとに置かれていることを、社会的不正義という一般論からではなく、人びとの日常 生活における具体的な苦悩から説き起こしている。私はまずこの点に注目したい。また、水俣病研究において重要な資料となっている初期の臨床研究データが、 患者と患者家族に負担を強いられる状況のもとで採集されたことを知ることができる。原田は科学としての医学に回収される図式を拒絶し、何よりも個別で具体 的な医療の立場を実践しようとする。このエピソードから言えることは、それもかなり不遜な言い方だが、原田はアームチェアの実験医学者の立場という存在論 的欺瞞に気づき、彼じしんのフィールドワークを通して社会医学の真の実践者になったという構図——ただしこれは良心的な社会科学者にとってはどこかしらデ ジャヴ(既視)の体験を呼び起こす——がここにはある。 しかしながら、この美しい物語にも何か気になることがある。私が授業を通して学生と共に考えていることは、原田が言う「見てしまった責任」ということで ある。ここで言う「見る」ことは、「知る」という言葉に言い換えてもよいだろう。あることを知るということが、本当に責任を感じることに繋がるのだろう か、というのがここでの疑問である。 反証を挙げなくても、見るという実践が何かの社会的関与としての責任を一義的に生みだすとは言えないことは明かである。しかし、屁理屈を捏ねなくても、 わたしたちはこの表現が分かってしまう、つまり正しい(あるいは共通の)隠喩的表現として理解してしまうのはなぜだろうか。私はこう考える。原田は、見 る・知る・関与する(=行為する)という知覚体験を隣接的にそして重ね合わせて表現している。つまり、それらが同時におこるような社会的な文脈が実際に存 在することを言外に述べているのだ。それは特定の条件下でおこる偶然の産物であるが(そうでないと、われわれは容易に反論を思いつかない)、説明がされた 事後では、見る・知る・関与する(=行為する)という隣接的な知覚体験は相互に必然的結びついたものに変わっているということである。だから彼の問題提起 は「重い」のだ。 単純に言えば、見ることが行為者に対して何らかの長期的な関与——それも道義的なもの——を引き出したということである。もちろん、この結びつきはどん な場合でも無条件にそうなるのではなく、ここでは語られていないなにか別のものが媒介しているのではないかと私たちは考えるべきなのだ。 文献
■クレジット:あなたには愛というものがわからない(You don't know what love is)
◆オンライン文献
熊本日日新聞「『智子を休ませてあげたい』故ユージン・スミス氏撮影『入浴する母子像』封印」(二〇〇〇年二月二八日朝刊)(http: //www.kumanichi.co.jp/minamata/nenpyou/m-kiji20000228.html)二〇〇五年一月一一日[最終 確認日]
【ご注意】
この論文の出典は、池田光穂、『水俣からの想像力:問い続ける水俣病』丸山定巳・田口宏昭・田中雄次編、熊本出版文化会館(担当箇所:「水俣が
私に出会ったとき:社会的関与と視覚表象」Pp.123-146
)、2005年3月です。引用される場合は原著に当たって確認されることをお勧めします。
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