取り憑かれることと関わること
The haunted and the origin of oralities
池田光穂
◆ 課題文
問 [弁護人(山口[紀洋])] 証人は昭和18年に代用教員をやられてますね。
答 [証人]はい。
問 20年終戦で退職され、22年結婚されましたね。
答 はい。
問 23年に長男がお生まれになって、33年ごろに息子さんの入院先で水俣病の患者さんたち をご覧になったわけですね。
答 はい。
問 昭和33年に、9月ごろ八幡プールにチッソの排水の流れを変えていますが、そのあたりの ことを覚えていますか。
答 はっきり覚えています。
問 なんか異変が起こったんですか。
答 はい、起こりました。
問 どんなことですか。
答 水俣川の下流でございますから、私の家はそのすぐそばでございますんで、そこに橋がかか りまして田舎では橋がかかりますとなんとか……。
問 簡単に異変だけを。
答 その河口にくるさかながずっと、中ほどから一番底のほうまで無数にさかながうずまいて、 でんぐり返っているというか……。
問 昭和34年5月に証人は初めて、Sさん[原文は実名、以下同様]という患者さんを見舞っ ていらっしゃいますね。
答 はい。
問 そのときどんな感じをうけたんですか。
答 ショックで寝込んでしまいました、その後。
問 それから水俣病のことを少ししらべてみようと思ったんですか。
答 はい、あまり意識的に調べようというんじゃなくて、いつの間にか調べて、まあ、なんか移 り住んじゃったんです。その時に見た患者さんの姿、魂みたいなものだと思います。それで、べつにしようと思うんじゃなくて、やっているという感じでした。
問 昭和35年1月に「サークル村」という同人雑誌に水俣病の患者さんのことについて初めて 掲載されましたね。
答 はい。
問 その後、水俣病の患者さんのことについては「熊本風土記」というやはり同人雑誌に筆を とっていたわけですか。
答 はい。
問 で、昭和43年1月12日に水俣で市民会議というのが発足しておりますが、証人はいわゆ るそこの発起人というようなお世話役になられたわけですね。
答 はい
問 それ以降具体的には水俣病の患者さんを助けるというか、お付き合いするというか、具体的 に運動していくということになったんですね。
答 はい。
問 市民会議を証人がお作りになった動機というんですか、それはどういうことだったんです か。
答 もう大体そのころは第一部として確か『苦海浄土』という本ですが、書き上がっておりまし て、ころがいい感じに、ちょうど新潟に第二[原文:第三――引用者による訂正]水俣病が発生した。非常に愕然といたしまして、私たちがもたもたしているう ちにまた水俣のようなことが起きたというんで、衝撃とやっぱり今が機会ではないかということです。
問 私がお聞きしたいのは、証人は患者さんじゃないですね、にもかかわらず、それ以降非常な ご苦労をなさって運動されているのはどういう動機だったんですか。
答 それは初期のころの、今でも同じですけれども患者さんの姿を目のあたりに見た、最初は学 術資料でみましたんです。だから、さかなが浮き上がったり、なんかやっぱり今まで、非常に、さかなの状態とか、それからネコが、まあ、私のうちでも動物を 非常に大切にしますので、生まれたネコを、漁師部落にもらってもらっていったんですけれども、私の部落はみんなそんなふうで生物を大切にするんで、ネコの 子が生まれるたびに、まあ、Mというのは特徴的な[漁師]部落ですけれども、いつもこのころ、ネコをいくらMにやっても、全部死んでしまうという話を部落 で……。
問 ちょっと、話の途中ですけれども、今の私の質問は証人自身が先程述べられたように、川本 [輝夫]さんたちにも力を貸したし、そういう精神的な動機というのは、それを簡潔に述べていただきたいんですが。
答 それは熊大の学術資料を見たことと、患者さんをお訪ねして、やっぱり、もう地獄、この世 の地獄図を見てうちのめされて、まあ、その残りの、生き残りの患者さんたちとは今でも付き合いがありますが……イヌぼえ様[邪霊を祓う呪文あるいは神―引 用者]のおめき声を書いてありました、全く初めて市立病院に行きましたところ、病棟からそういう声が咆哮しているんですね。そういう声を出しながら、壁に 爪痕が、市立病院とても新しかったんですけれども、その市立病院の新しい壁を、ベッドの上に、ケイレンがきて、落っこってすり傷だらけで腐っているんで す。その人たちの爪痕が無数についているんです。その病室にTちゃんも大きくなりましたが、まだ赤ん坊で、ちょっと一口にはその情景というのは平静には再 現できないんですけれども、そういう人たちの今から、そして今も死につつありますけれども、のかないんです。私の中から。その人たちが。それでせざるをえ ないわけですが、そういうことです」(pp.494-495)。
出典「証人 石牟礼道子(作家・支援者)[昭和]49・6・4 出張尋問(熊本地裁)『水俣 病自主交渉川本裁判資料集』同編集委員会編、Pp.484-495、1981年。
◆ 議論のためのテーマ
前回の議論のなかで、見られることよりも見ることのほうに〈精神的優位〉があるという意見がありました。そのことが、見た後での〈責任行 為〉への繋がっていくという意見がおおかたを占めていたと思われます。しかし、この〈精神的優位〉には「見なかったことにしておく」「見たことを忘れる」 という責任放棄を容易に引き出すことができるようです。見た経験=〈責任行為〉という関連性を断ち切らないためには、この関連性を忘却しないことと関係が ありそうです。このことを臨床コミュニケーションの観点から考えてください。
【ちゅうい】以上のテーマで、この ウェブ資料を使って議論をおこなう人は、ここから先は、議論が終わるまで読まないでください。実際の授業では、6人のグループでの議論(30分)とプレゼ ンテーション(各グループ5分以内)ならびに、参加した講師以外の教員(2名)のコメントが終わってから、後に配布しました。
グループ討論・プレゼンテーションの後に配布
■ 講義担当者(池田)によるコメンタリー[事前準備]
「亡霊や幽霊は、ありもしないのにもかかわらず、忽然として現れて(=見えて)コミュニケーションにおける忘却しつつあるものとの関連性を 忘れるなと我々に対して思い起こさせる(=想起)作用がありそうだ。今回の事例では、「そういう人たち……[が]のかないんです」(石牟礼)という言葉で 表現されている。コミュニケーションを繋ぐ〈亡霊的存在〉について考えてみる。
「手足を切断した経験のある人が、手足(四肢)を切断した後も、しばらくの間手足の感覚が残ることがある。さらに、眼に見えない幻の手足の 痛みを訴えるという奇妙な現象がある。これを医学用語では、幻肢あるいは幻影肢と呼んできた。幻肢は、だいたい9歳未満の子どもは体験しないものだと言わ れている。つまり、幻肢は、大脳皮質に身体像が形成されるこの時期以降の発達をとげた成人の切断者に認められる現象だとひとまず説明することができる。幻 肢痛はこのありえない幻の手足に、しびれ、疼痛や絞扼痛などを伴うもので、幻肢の感覚をもつものの5割から7割の人が体験する。幻肢痛には、切断される以 前の手足の状態と痛み経験とのつながりがあると言われている。つまり、切断にある姿勢や動作をとったときに痛みを経験した場合、切断後に同じような姿勢を とった時に痛みが再来するという。他方、幻肢をあり得ない痛みであるというふうに唯物論的解釈をすると、幻肢痛は文字通り「あり得ない痛み」とされて、手 足の切断者の痛みの増減は、生活不安、経済的家庭環境による心理的因子に関連すると説明される。心理学説では、痛みの長期持続例をその患者の環境に対する 欲求不満の表象にされてしまう。しかし、幻の手足がなくなった時には痛みは消失する。また手足の感覚神経の伝達路を切断すれば幻肢はなくなる。つまり幻の 手足が感じられないものに幻の痛みはないのだ」。
「幻肢と幻肢痛についてM.メルロ=ポンティは『知覚の現象学』において、その生理学的な説明と心理学的な説明の両方を論難して、幻肢は、 手足の表象ではなく、その両義的な現前だと解釈する。我々が「みずからに習慣的身体を与えることは、最もよく統合された実存にとって内的必然」だからだ。 幻肢をもつことは「その腕だけに可能な一切の諸行動に今までどおり開かれてあろうとすることであり、切断以前にもっていた実践的領域をいまもなお保持しよ うとすること」になる。手足の記憶の問題にからめてメルロ=ポンティは、幻肢は過去の記憶が呼び戻されているのではなく、実存的な身体もつ「準−現在」そ のものだと言う。つまり「腕の幻肢とは、抑圧された経験とおなじく、まだ過去になり切ってしまわない旧い現在」であり「どんな記憶も失われた時をふたたび 開き、それが喚起する状況を再現するよう、我々に呼びかける」ものだというのだ」。
出典:池田光穂2005「ファントム・メディシン:帝国医療の定義をめぐるエッセイ」『熊本文化人類学』第4号、Pp.93-98.
■ 現場でのコメンタリー
(未収録)
■ pdf によるプリント
臨床コミュニケーション2・2007年12月6日配布分(約220k)
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