身体に障害をもつことの意味
西村ユミ
◆20071213 文責:西村ユミ
臨床コミュニケーション(第10回)
【テーマ】身体に障害をもつことの意味を臨床コミュニケーションの観点から捉え直す。
【ワーク課題】
1)下記の対面コミュニケーションの場面(たとえば、私と歯医者、私と学生)や自分自身の経験を参考にして、「身体障害」が「対面の場にある両者の意識」にどのような変化をもたらしているのかを考えてください。
2)また、そのように考えた理由も述べてください。
私―著者(ロバート・マーフィー)、米国の人類学者
「著者自身のいい方によれば、『ボディ・サイレント』はある実地調査についての民族誌的な記録であり、人類学者である彼の“はるかな異郷”への旅の報告書です。異郷と彼がいうのは、1972年依頼彼をとらえて離さぬ不治の病いのことであり、その結果麻痺し、なお刻々と沈黙へと向けて後退を続ける彼自身の身体のことです。損なわれたからだという奇妙な“場所”に住むのが彼の旅であり、その一見不条理な世界にそれなりの論理と意味を見出そうとするのが彼のフィールド・ワークというわけです。」(訳者解説より)
盲目であれ対麻痺であれ、身体障害というのは、対面の場にある両者の意識という舞台の中央にでんと構えるものだ。そして双方がその場を正常化するために何らかの手をうたなければならない。(略)これに参加するものは、何ひとつ具合の悪いことも、隠しごともないかのようにふるまおうとする。よく使われる忌避とか恩着せがましい親切とかのテクニックの他にも、行動のシナリオにはいくつかの可能性がある。ひとつのやり方は、まずはじめにそれとなくそのことに触れてしまうことだ。“さあ、これでお互いに隠しっこなし、本題に入りましょう”というわけだ。ふつうこれをやるのは相手を楽にしてやることにかけては名人級になっている身障者たちの方で、すでに述べたように、彼らはこれをほがらかな調子でやってのける。さもなければ相手は早速逃げ出してしまうだろう。もっとも、たまには相手が苦しむのをみて身障者の方がそのまま放っておくこともある。嫌な相手を追い散らすにはこれはよい方法にちがいない。
(フレッド・)ディヴィスもいうように、これらいわゆる“原光景”における隠しごと――つまり一方の身体障害――は、両者の社会的関係のありかたをねじ曲げずにはおかない。身障のないものの方では、何か相手を傷づけることをいいはしないかと心配し、まるで地雷原でも歩くかのように忍び足で出会いの場に入場する。身障者の方では相手が何を考えているのかがよくわかるし、逆にその相手の方も身障者が自分の考えを見抜いていることを知っている。お互いがお互いの知っていることを知っていることを知っていることを知っている・・・・・・。というわけでそれは影響に反映を繰り返す鏡ばりの部屋のようだ。しかし前にもみたように、この鏡もまた遊園地のマジック・ミラー同様、反射するばかりでなく歪曲もする。その過程は、一度そこへ踏み込むとずるずる吸い込まれて抜け出すことの難しい流砂に似ている。近代社会学の祖の一人、ゲオルグ・ジンメルがいったように、実はすべての社会的な出会いに一触即発の危険が潜んでいるのであって、身障者の場合は、ただこの一般的真理が極端な形をとった例にすぎない。ジンメルはまた、社会行動は“目的論的に決定されたお互いについての無知”にもとづくものだとも述べている。つまり、人々がもしお互いに私的なことがらについてはっきりとした情報を掴んで、自らも隠しごとなくすべてを正直に出すようになると、かえって社会性というものは破壊され、人間社会は成り立たなくなってしうまう、ということだ。我々は実際には、互いに情報を相手に与えぬようにするばかりか、情報をせっかく与える場合にも適切に事実を歪曲し粉飾をほどこすのである。そうして、双方が与え合う“悪意のない嘘(ホワイト・ライ)”を単に嘘として切り捨てることなく、おつき合いのためだと納得しつつ半ば受け入れる。身障者とそうでない者との間の関係が特に面白いのは、それが単に罪のない軽い嘘だけではなく、大きな嘘――つまり、身体欠陥などあってもなくても変わりないという嘘――にもとづいているということだ。こうした危うい関係の中では、誤解はますます巨大化し社交性はますます損なわれていく。
(略)
車椅子生活に入って間もなく、私はこの他にも自分自身をとりまく世界の中に微妙な変化が生じているのに気づいた。1980年にいきつけの歯医者に頭を撫でられたことがあったが、それっきり彼のところには行く気がしない。大学の学生たちも以前とちがって別れ際によく私の腕や肩に軽く触れることがあるが、これはしかし私には気持ちのよいものだ。なぜだろう? 歯医者は子供にでも対するように私を扱ったわけだが、学生たちは私との間にある絆を確認しようとしている。彼らはいわば壁のこちら側へと手をさし延べて、私と同じ側の人間であるいことを伝えようとする。私は一介の中年教授で、試験の際に脅威となって彼らの上にのしかかるという点でも他の教授たちと変わりがない。それでも身体的な障害はたしかに私を彼らへと近づけた。それは以前より、そして他の教授たちより、彼らが私に感じる社会的な威圧が減少したせいだ。もっと年上の大学院の学生たちなどは、私が身障者になってはじめて私のことを苗字でなくファースト・ネームで呼び始めたほどだ。これも非礼というよりは近しさの一表現だろう。
〔ロバート・F・マーフィー(1987)・辻信一訳(1997)『ボディ・サイレント――病いと障害の人類学』新宿書房(p.161-169)より〕
【メモ】
■ pdf によるプリント
西村ユミ:2007年度臨床コミュニケーション2_10回目(pdf, 104k)
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