病いの経験を表現することの意味
西村ユミ
◆20071220
文責:西村ユミ
臨床コミュニケーション(第11回)
【テーマ】病いの経験を表現することの意味を臨床コミュニケーションの観点から捉え直す。
【ワーク課題】
・痛みのために眠れぬ孤独な夜、妻を起こさずにいたフランクが、自分自身を表現しはじめること(ここでは一種の俳句が心に浮かんだ)」は、彼自身にとってどのような経験になっていたのかを考えましょう。
(=病いを語る言葉を失っていた者が、それを自らの言葉で表現しようとすることは、いかなる意味をもった経験なのか)
著者(アーサー・W・フランク)、カナダの医療社会学者
「・・・著者は、ふたつの重病を体験する。39歳のときに心臓発作を体験し、その1年後にがんの宣告を告げられる。本書はその体験をもとに、ひとりの人間として、患者として病いとは何かを鋭く考察したものである。著者は痛烈かつ辛辣に医療を批判しつつ、病いの体験を恐ろしいまでに率直に、赤裸々に語っていく。そして著者の手によって病いというものがわしづかみにされ、その内側から探求されていくのだ。普通に日常生活を送っていた者が患者へと変化するときに生まれる様々な感情、がん患者に賦与される烙印(スティグマ)、痛みにあえぐ孤独な夜、からだの驚異の発見、回復の祝祭、ケアの問題、生と死・・・・・・。病いをめぐる事象がことごとく見事なまでにえぐり出されている。」(訳者解説より)
・・・この話は、痛みから始まる。(略)痛みは病いに対するからだの反応である。多くの人が病いという言葉から連想するのは痛みであり、もっとも恐れるのも痛みである。がんを生き抜くうえで痛みがもっともつらい部分であるかどうかはともかくとして、筆舌に尽くしがたいものであるのは確かだ。痛みを表現する言葉はたくさんある。鋭い痛み、ずきずきする痛み、刺すような痛み、焼けるような痛み、鈍い痛みというのもある。しかし、こうした言葉では痛みの体験を表現することはできない。我々は「痛みを生きる」ということがどういうことかを表現する言葉をもっていない。痛みを表現できないため、言えることはなにもないと我々は思い込んでしまうのである。しかし沈黙すれば、痛みのなかで孤立するしかない。その孤立が痛みをますます増大される。自分が病気だと思った瞬間に気分が悪くなるのと同様に、痛いと思うだけで痛いのである。
私の痛みは、腰にできた二次腫瘍が圧迫されたのが原因だった。横になると、しばらくのあいだだが、痛みはさらにひどくなった。とうとう腰の少し上、肝臓のあたりを万力で締め付けられるような圧迫感で朝早く眼が覚めるようになった。それが数日つづくと、疲れが堆積し、眠くてしょうがないのだが、それでも眠ることができないのだ。覚醒とまどろみの中間の状態で、幾晩も過ごした。常に痛みにさらされていた。
そういう状態だったから、私の痛みは夜と切り離すことのできない関係を持つことになった。腫瘍は私のからだを占領すると、こころも支配するようになった。闇は痛みの孤独をいっそうきわだたせる。苦しむ者はやすらかに寝入っている人たちから切り離されるからである。暗闇のなかで、痛みに苦しむ者の世界はばらばらになり、秩序を喪う。(略)
夜、痛みに苦しむとき、私はキャッシー(妻)を起こすこともできた。彼女にそばに来てもらい、孤独を癒すこともできた。しかし、彼女を起こせば、彼女の自然のサイクルを壊すことになる。彼女は日中、働いているのだ。彼女の生活には私が失った秩序があった。私は自然のサイクルの外にいた。日中は疲れて働くこともできず、夜は腰を釘で打たれるような痛みで眠ることなどできなかった。私は昼も夜も中途半端な存在になった。自分は存在しているともいえず、かといって不在ともいえなかった。私には居場所がないのだ。
(略)
痛みの対処法は発見できなかったが、痛みがおさまる一日前になって私は大きな発見をすることになった。二階にあがろうとして、踊場で目に入った窓の光に心を奪われ私は立ち止まった。窓の外に樹が一本見える。その向こうにある街灯が、霜の下りた窓に樹の影を映しだしていた。痛みに苦しむ真夜中、私はとつぜん美しいものを見出したのだ。美を発見する余裕があれば、人は正しい位置にいるといってもいい。あらゆることが秩序だってくるように感じられた。じっと窓を眺めているうちに、一種の俳句のようなものが心に浮かんできた。
枝の後ろの街灯が
くもった窓に模様を浮かべている
ガラスは拭かないでおこう
きみを起こすといけないから
病いに顔があるとしたら、あの窓の美しさのようなものだとうと思った。鎮痛剤の切れ目に現れる痛みが引き起こす悪夢には、病いの顔を見ることができなかったように、その窓にも病いの顔を見ることはできなかった。窓は神話でもないし、比喩でもない。窓は窓である。しかし、私はその窓にわれを忘れた。痛みはそのときもつづいていた。その痛みのおかげで、私はあの美しさを見ることができたのである。秩序は回復された。
そして、秩序は表現を要求した。私がそのときつくった詩がいかにつたないものであろうと、私は自分を表現しはじめていた。表現できない痛みは我々を孤立させる。黙ることは孤立を意味する。表現がどんな形をとろうと、我々はそばに人がいるいないにかかわらず、それを人に伝えようとする。
〔アーサー・W・フランク・井上哲彰訳(1996)『からだの知恵に聴く』日本教文社(p.42-49)より〕
【メモ】
■ pdf によるプリント
西村ユミ:2007年度臨床コミュニケーション2_11回目(pdf, 100k)
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