「ちゅうすたい」とはなにか?
言語を媒介とするコミュニケーション
「人間が社会生活をおこなうかぎり続いてゆく、ある具体的な結果を引き出すためにおこなう対人コミュニケーション」すなわち臨床コミュニケー ションについて勉強をする授業担当者や受講者は、このようなコミュニケーションがもたらす最終的な産物として、〈正確で迅速な情報のやりとり〉、〈誠実な 心象の伝達〉あるいは〈持続する共在感覚〉を想定することが多いのではなかろうか——私の3年間の授業経験からの印象。
ここで採用される多くのコミュニケーションモデルは、信号・記号通信を理想とされる「言語モデル」を中心として想定されている。この言語モデ ルへの固執は、身体を媒介するような事例が持ち出されても「ノンバーバル・コミュニケーション」という表現にみられるように、やはり言語を中心的モデルと するものの呪縛からは完全に逃れているとは言い難い——バーバル(verbal < verb)コミュニケーションはしばしば形容詞が省略され、バーバル・インタラクションは、対人コミュニケーションそのものになる。
尤も、大学(研究科)において言語モデルが中心化される学問や議論そのものを過度に批判することはナンセンスである。また、それは天に唾する ことでもある。論文、学問的著述、講義、図書館、インターネットなど、大学のあらゆる知識生産の大部分は言語を媒介におこなわれている。我々は言語モデル が産出する中核的知識の権威構造を脱中心化することはできても、言語モデルにもとづく知識生産からは完全に自由になることはできないであろう。また、言語 モデルからより遠くかつ現時点では触知(tangible)できない(現在では提起も証明もされていない)Xモデルから、コミュニケーションモデルを考え ることは、こと臨床コミュニケーションの研究においては、論理的に言って全く不経済で無駄であると言える——オッカムの剃刀の原則を想起せよ。
したがって言語を媒介とするコミュニケーションを考えるこの授業では、これまでの臨床コミュニケーションを考える際にその究極目的 (telos)とされてきた〈正確で迅速な情報のやりとり〉、〈誠実な心象の伝達〉あるいは〈持続する共在感覚〉を自然なものとみる志向性から遠ざかる必 要がある。すなわちそれらの特性を裏切る事例を検討し、それとはほとんど関連性をもたないように思える言語使用に関する具体的な用例を求め、その諸相の中 でおこりうる言語使用のさまざまな可能性を探究すべきかもしれない。
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ちゅうすたい
[杉本]栄子 「ちゅうすたい」の他に何かあったいよ。父ちゃん、何じゃったかなあ。
[杉本]雄[たけし] うーん、と、しゃったい。
栄子 お舅[とう]さんが教えてくれらしたったい。私達の時代は喧嘩すっ時は「ちゅうすたい」ち言えば。
雄 うーん、「あかねこしゃったい」じゃ。こげん言うて、悪さしておこられた時の逃げる文句に使いよったっちゅうこつ、聞きよったなあ。
[石牟礼]道子 「ちゅうす」って私達も言いよったですよ、おどかこつ。
栄子 なあ。おどかこついうとき最後の言葉。
道子 そすと相手はちょっと返答のでけんですもんね、「ちゅうすたい」って言わるれば。
栄子 返答のでけんうちに逃げくっとですたい、勝とうち思えば。
道子 何か、パッと、こう自分ば消す薬か何か、パッち投げるようなかんじですもんね。相手は魔術にひっかかって、ちょっと困るんですね、早 よ言った方が勝ち。
[不知火海総合]調査団 言葉自体に意味はないんですか。
道子 だから意味は強いて言えば、逃げ薬。パッと煙で自分を隠す。
雄 意味はですね、口論でやりあうでしょう。自分が負けそうになったときに、自分は負けても大らかに生きている、堂々と生きている、そいう ことは問題にしない、ちゅうような表現、「ぜんぜん私に関係ないよ、そういうことは」ちゅう意味で、すっと身体をかわすわけ。その時使う言葉。
調査団 高等戦術ですね。
道子 はいはい。ちょっと、こう肩をそびやかして言うんですよ、「ちゅうすたい」ち。
栄子 それでグズグズしとればな、ピターち打ったるっとですもんな。私達、あ、言われそうじゃちゅうとき構えっとって、ピッ打ちよったで す。すと、相手はもう、はがいさしよったばってんね、どろころ、もう。言う時はな、逃ぐる覚悟でおらんば、最後の最後。言わずに泣き出すか。それをいかに 他人[ひと]に言わせんで自分で言うて逃ぐるか。
道子 ちょっと口とんがらせて、肩そびやかして。
調査団 それは水俣弁ですか。
栄子 水俣のことは知らんと、茂道弁です。
道子 いやいや栄町の方も、とんとん(村)の方もあっとですよ。
栄子 そんセリフば使いそこなえば大変ですよ、それこそもう。
道子 間合いのとり方まちがえればなあ。
栄子 なあ。
※[ ]は引用者(池田)の補足。また原文の「勝とうち」「『ちゅうすたい』ち」等の「ち」は促音表記で使う小文字で表記してあるがこの文 章では通常文字で表記している。
出典:羽賀しげ子『不知火記:海辺の聞き書』新曜社、Pp.89-91、1985年
■ みなさんへの設問
(i)〜(iii)の課題は各グループの必須、(iv)は全体討論で考えます。
(i)「ちゅうすたい」の用例をめぐる発話者の会話から、この言葉(語彙)がどのような会話の状況で使われたのか、語彙の社会的機能から考えて みよう。
(ii)「ちゅうすたい」に似た用例が、あなたの知っている言語使用において見つかるのか否か、またあるのであればどのような用語なのか、探し てみよう。
(iii)この用例のなかで指摘されている「ちゅうすたい」の身体所作を各人が再現して、実際に「ちゅうすたい」と発話してみよう。グループの 中でもっとも上手と思われる身体技法を創案し、実際に身体所作を創作し皆さんの前で提示してください。
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(iv)前項で案出した「ちゅうすたい」の身体所作をもってそのように発話した時に、あなた自身は「ちゅうすたい」の技法を自家薬籠中のものと しているオリジナルの話者の気持ちに果たしてなれるか?
——なれるとしたら、どのようなことが必要だったのだろうか?
——もしなれないとしたら、なにがその可能性(「ちゅうすたい」のオリジナルの話者がリアルに感じる気持ちを体験する)を妨げているのだろう か?
■ 文献紹介
デカルトやルソーなどの近代初期の言語観からの根本的な転換——ある固有の時間(共時性)における構造的言語観や、表現(=意味するも の)と内容(=意味されるもの)の間の恣意的関係を指摘——を果たしたF・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)について知るためには丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年がよい。言語と世界の関係について、その生涯を通して探究 を続けたL・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889-1951)の様々な著作や解説書を読むことを薦める。前期思想とよばれる言語と世界の間の厳密なルールの確立に格闘する彼を知るには『論理哲学 論考』岩波文庫ほかが興味深い。さらに前期の考え方を根本的に改めて言語ゲーム論に代表される、言葉の意味をその使い方のなかに求める後期思想の代表は 『哲学探究』(大修館書店全集版8巻)にある。人間は他者からどのように見えるかということを(準)反省的あるいは(準)解釈学的に知り、他者から自己が どのように見られるかということ自体を我々は操作——これをパフォーマンスと呼ぶ——しているということを明らかにしたのがゴッフマン(Erving Goffman, 1922-1982)である。『儀礼としての相互行為』法政大学出版会、2002年などがある。
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