かならずよんで ね!

書き込みと欠如

writing and its deficiency

池田光穂

ヴィトゲンシュタインやフローベール、ルーセルが述べていることは、次のような事柄である。すなわち、欠如が自ら を書き込み自分の効果を波及させるような場をそこに見出すことはできないが、それでも、その欠如がすでに書き込まれ ているような——欠如のない言述という理論上の可能性や意義を画定してくれる、また別の言語活動の必要性や要請を通 じてでしかないにしても——、そのような言述、たとえば学問的な言述は、はたして存在するだろうか、ということだ。 言語活動が欠如によって恒常的な機能低下に陥るのに対して、欠如のほうはと言えば、たとえ何らかの言述のなかに記し づけられることがないにしても、ひとつの語りの様態から別の様態への終わりなき移行を通じて、言語活動のおかげで、 最終的に場の過剰——「多すぎることば」——に到達できるのだ(そのとき欠如は、つねに空いているひとつの場の流動 的な複数性のなかで散逸する)。おそらくは、この「多すぎることば」が、見えざる同伴者——舞台には登場しない人物 ——を構成(と同時に解体)するのだろうし、ロジェ・ラポルトの数々の書物はつねに、そうした同伴者に関わりながら 著されている(ブランショ 2017:107)。

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