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家族に埋め込まれた死——文化人類学からの諸見解

Death embedded in familial settings: commentary from a Japanese anthropologist

池田光穂

 家族に埋め込まれた死——文化人類学からの諸見解

 ふたりの死

Dさんは93歳の男性であり「軽度の痴呆」があり、家族との会話も円滑にいかないこともある。しかし「明るく元気で、一家の大黒柱としての存在感」をも つ家族にとって、徐々に衰弱する彼が死へ向かっていることを受容するのは容易ではなかった。在宅看護にたずさわる村松静子(1)は、Dさんとその家族のあ りさまを次のように描いている。

「Dさんを直接介護するのは妻である。妻はDさんが 一日も早く元どおりの元気な姿を見せてくれることを望んでいた。そのため、動こうとしないDさんを無 理やり起こしトイレに連れて行こうとしたり、食事を食べさせようとしたりした。無理にさせられることを嫌うDさんは、顔をこわばらせ、なお一層動こうとせ ず、口を開こうともしない。「早く元どおりに‥‥」とはやる思いを胸に心の葛藤が続いた。」

 家族は、老衰だからDさんに無理強いさせないほう が良いのではという医師や、食事よりもまず水分を摂るようにという訪問看護婦の助言を聞かない。

「無理に食べようとするたびに誤嚥し、むせ、痰が絡 む。すると慌てて医師や看護婦を頼るのだが、また同じことを繰り返す。Dさん家族は、自分たちの思い を曲げようとせず、他者の手を借りることも嫌った。」
 この描写を通して村松は、衰弱の道をたどる病者を介護する家族は、その現状をなかなか受け入れることが難しく、「家族の心の葛藤・心の痛み」が深いもの であると示唆している。

ここでもう一人の男性について紹介しよう。カナダの 北極圏地方に住むヘヤー・インディアンのチャーニーという50歳の猟師の死を、その場で調査していた 原ひろ子(2)が1962年夏に目撃したものである。

チャーニーは風邪をひいて5日後に救護所(一種のヘ ルス・ポスト)にいる看護婦のところを訪れ薬を求めにいった後、家で療養していた。ところが、ある日 夕方に夢から醒めて周囲の人たちに「自分は死ぬことにした」と言いはじめた。遠くでキャンプしている親類の人はもとより周囲の人もチャーニーの話を聞くた めに集まるように呼びにやられた。彼のほうはと言えば、食事を少ししか取らず、死ぬと宣言してから紅茶しか口に含まないようになった。人びとは、ぼそぼと を話すチャーニーに、相づちだけを打ちテントの中で聞いている。死ぬことを言い出したのは、守護霊のお告げあったからであり、人びとはときどき黙考する彼 を霊と交信していると解していた。そして「チャーニーが話を休めると、まわりの者は互いに身をすり寄せ合っては、チャーニーが良い死に顔で死ぬようにと祈 るのである。」。彼が「良い死に顔」で死ねるようにと人びとが祈るのは彼自身の幸せばかりでなく、死後身体から離れた霊魂が周囲の人を道連れにしないよう にという意味も込められている。

翌日、遠方から近親や親友たちが駆けつけた。その夕 方チャーニーは自分の愛用の銃やモーターボート、狩猟用の犬、さらにはストーブやラジオなどの身の回 りのものを贈る相手を指名している。やがてカトリックの神父が呼ばれ、神父は終油の秘蹟を授け、そして次の日の未明に死んだ。

ヘヤー・インディアンの社会を長期にわたって研究し た原は、チャーニーの死後、埋葬がどのように執り行われたか、あるいはチャーニーが生前におこなった ことなど、具体的な描写と、それに密着した注釈を加えながら、彼らにとって「良い顔で死ぬこと」がとても大きな意味をもつことを強調している。

 文化人類学の利用と誤用

このような対比をしたからといって、私は決してDさんの死とチャーニーの死のあり方の善し悪しを比べたいのではない。つまりDさんに比べてチャーニーの ほうが幸せであったと言っているのではない。また誤解のないように言っておくべきだがチャーニーの死について記述した原も、あくまでもヘヤー・インディア ンにとっての霊魂観や彼らにとっての死のあり方を提示する。さらには生者と死者のあり方を通して社会の人間関係のあり方を教えるものとして提示しているの である。

ところが現実にはチャーニーの死はともすれば、我々 のなかで普通に見られるようなDさんの死との対比において、ともすれば称揚されることがある。ターミ ナルケアをめぐる議論のなかでも、ときに先住諸民族の死に方をロマンティックに賞賛する論者がいるが、これは以下のいくつかの点で問題があるように思え る。

まず、そのようなロマンティックな死が、先進工業地 域以外ではどこにでもある/あったような誤解を我々に与える。ましてや講演会場で、その種の吟遊詩を 朗読し聴衆を魅了するような演出など、たんなる人の感情を扇動するために有りもしない死を捏造しているにすぎない。

いくつかの死について多少なりとも立ち会った経験が あり、あるいは実際にそれを何らかの調査対象をとしたことがあり、また他の民族の死のあり方について 関心をもちその種の報告を読んだことがある人ならば、次のようなことは明白であろう。すなわち、「その社会における死に方」の諸事例にはなるほど「文化」 が規定するような共通性があるように思われること。他方、定式化されているにもかかわらず、実際の「人びとの死に方」には一定の広がりをもった多様性があ ることだ。より重要なことは、まれに生ずる例外的な事例は、その定式における多様性の範囲がどこで限界をもつのかについて教えてくれるのである。いくら チャーニーの死に方に憧れてみてもこのような死に方そのものは、我々の社会においては異様なものとして映らざるをえない。問題はその異様な死をロマン ティックな死の理想としたり、先進工業地域以外の地に住む「他者一般」の死と思い込むことである。したがって、死に方が文化に規定されたものであることを 良く理解できる者こそが、逆説的にも、その文化における「典型的な死に方について述べること」にまつわる危険性をよく認識できるのである。

我々とは異なる「社会」における死について、ある種 の典型として見ることの危険性。そして、それを何か失われたロマンとして意味づけることの危険性につ いて述べているのである。これはターミナルケアの専門的問題というよりも、次節でのべるように我々の社会における死の隠蔽にともなう、一般の人びとが死に ついて抱く誤解に関わる問題である。

 宗教から医療へ

ヨーロッパ大陸における死の概念の変遷を長期的に追いかけたAries(3)は、その中で5つの段階を経てきたことを示唆している。

まず、(1)「飼い慣らされた死」であり諦観をもっ て共同体の一員として死んでゆくこと。これは前期中世の死で、それに先立つ以前には「時間を超越した 死」があった。次ぎに(2)「己の死」があり、それは12世紀に始まる死の概念で、現世に執着し、死ぬことを不幸とみなすものである。さらに(3)「遠く て近い死」が登場し、それはルネサンスから18世紀のあいだ、死をより身近なものとしてきた、という。ロマン主義の時代である19世紀は、家族や恋人の死 に対して強い感情を引き起こした、それを彼は(4)「汝の死」とよぶ。そして、それ以降現代にいたるまでの(5)「倒立した死」とは、医療技術のために死 期が曖昧になり、また死そのものは社会から隠蔽されたものであると主張する。

Ariesは今世紀の先進工業地域ではもはや「死の 主体」が「死にゆく本人」にはないと述べている。それは死の主体が別のものに代わったというよりも、 社会そのものは死を放逐すると同時に隠蔽し、唯一「病院」にのみ死の場所が残されているという。むろん彼は、このような「倒立した死」が現代社会のすべて を支配しているとは言いきらない。死が「社会的で公的な事柄」でありつづけている事実も全面的には否定しない。

実際、現代的な意味でのターミナルケアの実質的な論 議とその実践は、病院で始まったのであり、またそれが「医療」であることを疑う人はいまい。現実は福 祉であったり宗教実践という要素が重要なものとして介在したとしてもである。その意味で、死は今や倒錯した事象であるというAriesの主張は重要であ る。死が公的な場から姿をくらました、あるいは放逐されたとしても、我々はそれまでの死の概念を全く捨てたわけでもないし、容易に捨てられるわけでもな い。死が公的な場から隠蔽され、病院のなかで処されるようになっても死は常に我々に、それまでの歴史が担ってきた死の意味をかいま見させる。Gorer (1955)が巧みにも表現したしたように、それは取り澄ましの裏側にある態度すなわち「ポルノグラフィー」(4)としてたち現れるのだ。

しかしながら、このような観念論(?)的な議論は、 現在のターミナルケアの現場で働く人たちには何の役にも立たない。なぜなら、ほかならないターミナル ケアは、それを医療の体系の一部に組み込み、またそれを具体的に支える技術論の探求に捧げているからである。この近代医療の技法としての細分化には、門外 漢から見れば凄まじいというか、ほとんど滑稽な技術体系の「形式化」をなしている。いわく臨床技法、心理技法、看護技法、宗教技法、家族技法、あるいは臓 器別疾患への対応技法といった具合である。そのうち、「病人を看ずに病気を観ている」という近代医療システムへの批判的反省がターミナルケアにももたらさ れるかも知れない。(瀕)死人を看ずして、(瀕)死を観ている、と。

 家族の死・社会の死

もし、文化人類学者が報告する死や葬制の多様性について知りたければ、内堀基光と山下晋司『死の人類学』(弘文堂)やR.Huntington and P.Metcalf『死の儀礼』(未来社)を参照にしていただきたい。あるいは日本における示唆を得たければ波平恵美子『脳死・臓器移植・がん告知』(福 武書店)がある。そこにはAriesの言うところの「時間を超越した死」がいかに社会的なものとして認識されるのか、またその様式がどうして千差万別であ るのかについての示唆が得られるであろう——むろん唯一の答があるわけではない。このような書物を一瞥しても分かるが、波平の著作を別にすると「病者を看 取る家族の心理・行動」という観点を見つけることは容易ではない。つまり、技法や参照枠として「伝統社会」のそのような側面や我々にとっての効用を発見す ることは難しい。

その理由は2つある。まず、第1に、病者を看るのは 核家族の成員だけでなく、親類や近隣の人、ひいては集団全体で看るなど、その看取る人間の境界は多様 な広がりをもっていること。さらに看るといっても、言い方は悪いが放ったらかしのようなものからきわめて丁寧な看取りまであったり、また先の「典型的な 死」に対する疑問で触れたように、いくら文化が規定するといってもその中でも「多様な死に方」があるからだ。実際、調査をおこなった人類学者はどうしても 限られた情報に偏らざるをえず、資料として十分な報告ができなかったのだ。人類学者はまず典型的な死に方について探求し、その後に例外的な事例を検討する ことによって、その「典型的」なるものの広がりを確定する。

また第2に、こちらのほうがより重要だと思われる が、人類学者にとって「死」はまず個人の出来事であるよりも社会的な出来事だという意識があり(これは デュルケームという先人の影響が極めて大きいが)、それに基づいて書かれた報告も、病者や看取った人間の心的状態よりも、霊魂や死の概念と(臨)死者の処 遇や儀礼を検討することに力点がおかれてきたのである。前者は言うまでもなく多様であるのに比して、後者の観念や儀礼は一様で収集され易いことは言うまで もない。

つまり、資料収集の方法論的制限と対象そのものへの 関心の低さから「看取る患者の心理・行動」が閑却されてきたというわけである。だが、ターミナルケア という極めて“特殊な興味”——人間にとって死は特殊ではないが、医療化の文脈におけるその治療概念の構成は通文化的にみてもかなり特異である——に、人 類学者が「はい、資料です」というかたちで答を準備できなくとも、それが学問的怠慢の結果であるとの責任を問われることもなかろう。

「家族へのケア」というかたちで、言わば“技法”で 構成されるターミナルケアに対して人類学は貢献できないかも知れない。また、文化の多様性を事例を もって「ほら別の世界にはこんなに豊かな死に方がありますよ」と提示してみても、それは日々臨床の現場で問題を抱え技法を通しての解決を探求されている人 びとには、たんなる心のやすらぎ、一粒の清涼剤にしかならないだろう。

むしろターミナルケアの現場においてスタッフならび に患者やその家族、ひいてはその社会がどのようにして死を認識しているか、どのようにその意味が維持 され、変化しているのかについて具体的に知るために人類学者を導入することのほうに、その効用があるように思われる。もし人類学者があなたのオフィスに来 て、あなたと共に“仕事”をしたいと言ったら、さてそんな変人と一緒に仕事することをあなたは受け入れることができますか?。


 文 献


 参考文献





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