臨床コミュニケーションの現在
Human Commucation in Practice, Ver. 2.0
クレジット:!Bienvenido! 臨床COMチームの報告 CSCDコミュニケーションデザイン研究会2009年10月14日:別名「臨床コミュニケーションの現在、あるいは「臨床コミュニケーション2.0」
ここから前半部です
前半部の議論の構成
臨床チーム関係者の皆さん
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(省略)
前半の議論の構成
なぜ〈臨床・身体〉への関心が高まるのか?
臨床コミュニケーションとは
身体的関与を促す授業
教育成果達成の逆説
マンネリズムに抗して
授業をみる眼を〈複眼化〉せよ
コミュニケーション能力は教えられるか?
身体を媒介とした参加への関心
1.コミュニケーション不全の問題を(A)〈身体〉への着目によって解消しようとすることと、(B)〈身体〉のコミュニケーションと〈言 葉〉のそれとは異なると主張することは必ずしも同じことではない。
2.しかし〈言葉〉が原因とみなされるコミュニケーション不全が問題視されるとき、意見(A)のような主張は十分に吟味されることなく流通 することがある。
3.このような文脈の中の授業改革では〈身体〉や〈参加〉に着目した教育技法への関心が高まる
臨床コミュニケーション
【定義】(→出典)
人間が社会生活をおこなうかぎり続いていく、ある具体的な結果を引き出すためにおこなう対人コミュニケーションのこと
臨床とは、狭い意味でのクリニックではなく、その現場における実践状況のことを指す
大阪大学コミュニケーションデザイン・センターの授業科目として2006年より出発した
身体的関与を促す授業
グループ討論と発表という〈参加型教育〉を導入。
PBL(Problem-Based Learning)
SGL(Small-Group Learning)
SDL(Self-Directed Learning)
グループ形成 → 結論を導く議論 → プレゼンテーション
教育成果達成の逆説(A←→B)
A:
顧客としての受講生
顧客のニーズ
顧客の評価
顧客内部の意見の多様性
伝わること
予測できること
B:
プロバイダーとしての教師
プロバイダーのニーズ
プロバイダーの評価
プロバイダー内部の意見多様性
伝わらないこと
予測できないこと
逆説:予想したことと逆のあるいは全く異なる評価が生まれることがある!
マンネリズムに抗して
興味深く感動が大きい分、落ち込みも多い
状況依存的な授業展開
教師のストレス
授業は飽きる(すべての学生・教師にあてはまる)
〈感情労働〉としての授業
授業を退屈にさせない工夫が必要!
授業をみる眼を複眼化する
大阪大学大学院でのまとめの授業(2007年)
授業をみる眼を複眼化する
マヤ系先住民青年へのリーダシップ研修(2007年)
コミュニケーション能力の涵養は可能か?
改善には、さまざまな意見がある。
受講者が望むコミュニケーション能力向上は、需要の確保のためにも必要。
コミュニケーション能力は人間の生き方に関係する部分があり、すべて授業で満たされる訳ではない。
にもかかわらず授業のなかでコミュニケーション能力をより広範に涵養することができるはず。
教師が授業の実態についてまず把握することが重要!
まとめ
身体を介した参加への関心の増大
臨床コミュニケーションの登場
身体的関与を促す授業をおこなってみた
その教育成果には逆説的成果もある
マンネリズムに抗することの重要性
授業をみる眼を〈複眼化〉せよ
コミュニケーション能力は教育可能である
ここから後半部です
臨床COM・専門家・CSCD
研究対象は決して不変ではなく
何のための学問?
専門家とは?
医療・保健・看護・福祉の専門家
専門家のジレンマ
ジレンマの解消
問題解決への取組
妄想や欲望の効用
研究対象は決して不変ではなく(霜田求さんへの手紙[抄])
私は『生命倫理と医療倫理(改訂版)』をみながらよく思うのですが、医 療人文学(=医療人文社会科学でもいい)は細分化し、個々の部分(例:生命倫理学、医療倫理学、医療社会学、医療人類学など)それなりに展開を遂 げている、しかし、細分化した分、現代医療を反省的に捉える「大きな背骨」がなくなりつつあるのでは?と思うのです。
「大きな背骨」がリオタールの「大きな物語」に当たるのかどうかわかりませんが、医療人文学の最大の取り柄は「批判的精神」にあると思いま す。では、件の批判の的になっている我々の研究対象はどうでしょうか?——ちょっと限界効用が逓減気味だが神通力のあるEBM, Translational Research という鵺(ぬえ)的な周辺領域科学の取り込み, CAM ( complementary and alternative medicine)の積極的な取り込みについて、医療人文学がやるべき批判的研究がまだまだあると思うのです。
たぶん我々の研究会を組織した時には、阪大には「臨床なになに学」という人文社会系の学者と大学院生が分散していているので勢力を結集し て、マーケットの拡大と院生の販路拡大という実利的な野心もありました。しかし、そこはマッチポンプで、研究対象そのものの練り直し(=見立ての変更)や 研究方法の見直しがないと、どんな学問も枯渇してゆきます。
何のための学問?
この質問は、“その学問”の社会的な存在意義の自明性が失われた時に、当該の研究者や“その学問”を支えてきた社会のメンバーによってしば しば発せられる。
“その学問”をはじめて学びはじめる時、また隘路に陥った時、やり続ける価値があるかについて発せられる疑問(それ自身の価値)。
実践者の良心に訴える倫理的な審問として。
専門家とは?
専門家はプロフェッショナル(professional)という。
プロフェス(profess)は、公言する・告白することである。
職業の真性(本物)性や公正性を表すが、社会の分業化とともに専門的独占性を意味するようになる。
専門家は同業団体(association)をつくり自分たちの権利と利益をまもる。
独占の正当化のために倫理規定をつくり、未熟者や違反者を排除するが、同時に内部で研鑽を積み、質を向上させる内部規範をもつ。
医療・保健・看護・福祉の専門家
専門家の特徴に加え、下記の独自の特徴をもつ。
〈善行〉(benefaction, bene + facio)
社会規範の提供(=よい人間の見本)
臨床コミュニケーション(=具体的な結果を引き出すための対人コミュニケーション)
プライバシーの露呈が憚られる生活を強いられる。
逸脱した時には、厳しい指弾と放逐があり、業務にプレッシャーが伴う。
専門家のジレンマ
その専門的技量に優れているという期待があるので、その業務に過度の社会的期待がかけられる。
専門家に業務を任すと、一般の人は具体的内容を正確に知ろうとする努力を怠る傾向をもつ。
業務独占と価格維持を保証するのは、専門家の供給不足であるが、これは専門家の〈善行〉の原則と対立する。
専門家も一般の人も局所的な問題の解決と、社会全体の問題の解決とのギャップに無自覚の傾向。
ジレンマの解消
専門家への無理解→→専門家の窮状の広報。
収入確保と〈善行〉の両立→→既得権益との競争の認知と領域の安定的確立を模索する。
部分と全体の解決の調和→→部分には質の向上、全体の解決には大衆を味方に!。
問題解決への取組
どのように感じるべきか?
どのように考えるべきか?
どのような問題をあぶりだすか?
どの問題がより速やかに解決が求められるか?
具体的にまずどのように動くべきか?
動いたことを、どのようにふり返るか?
時には原点に戻って〈わくわく感〉を取り戻す!
妄想や欲望の効用
〈わくわく感〉を取り戻すためには、想像力を駆使することが必要(→「妄想の効用」)。
そのためには既存の枠組み・縛り・限界を〈忘れること〉が不可欠であり、原点に戻りあの頃〈夢みたこと〉を思い起こすという作業を試みれば よい(→「ユートピアの構想」)。
課題:〈CSCDの未来〉:この組織は10年後どうなっているか? いや、もとい……
課題:〈私たちのコミュニケーションの未来〉:私たちは将来どんなコミュニケーションをおこなっているのか?
私の話題提供は以上です
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