ともに「いる」
co-presence / a common understanding
西村ユミ(Yumi NISHIMURA)
臨床コミュニケーション(4)20091022 担当:西村ユミ
ともに「いる」 co-presence / a common understanding
■本授業の課題
1.アフリカのボンガンド族は、資料に示すような「一緒にいる」という感覚をもっていると報告されています。これと類似した、皆さんが経験している他者と「一緒にいる(在る)」「ともにいる」という感覚について報告して下さい。
2.皆さんの感覚とボンガンドの人々との感覚との類似点と相違点(※)について検討して下さい。
(※)資料でも、「われわれの常識(それ)」との違いが語られています。
3.「一緒にいる」「ともにいる」こととコミュニケーションとの関係について考察して下さい。
(参考)前回の授業で、キャッチボール型とは別様のコミュニケーションのあり方について検討したことも参考にして下さい。
■時間配分
16:20〜16:45 導入
16:45--17:25 グループワーク
17:25--17:45 発表、まとめ
■グループ(1G:5--6名)
・これまで一緒になったことのない人と組む(可能な範囲で)
・「司会」と「発表者」を決めて、自己紹介を行ってから、グループワークを開始してください。
■資料
□遠くにいても一緒(p.320-321)
セバ(ボンガンドのインフォーマントの1人)の報告にも、「朝7時、ロソンボ(男や子どもが集まる集会所、談話室、作業場)に座って、誰それとコーヒーを飲んでいた」などという記録がたくさん出てきた。ところが、ロソンボで一緒にいたという人の中に、ベチュル・エケンダという老女の名前がしばしばあらわれているのである。この女性はセバの遠縁に当たり、身寄りがないのでセバの家の隣の、彼の弟の家で暮らしている。
女性はロソンボに入らないはずなのに、一緒にいて話までしている。どういうことだろう、と思い、セバに尋ねてみた。すると意外なことに、彼はその女性はロソンボの中にはおらず、セバの弟の家の脇にある、さしかけの台所に座っていたというのである。そこからロソンボまでは約20メートルもあり、しかもその間の空間にはロソンボの土壁がある。その相手のことを、セバは「一緒にいた」と記録していた。このとき私は、彼らの「一緒にいた」という感覚(以後「共在感覚」)が、われわれ(日本人)のそれとはずいぶん違っていることに気づいたのである。
□挨拶境界(p.327)
かれらの社会には、日常頻繁に出会う人もいれば、ほとんど出会わない人もいる。また近い親族もいれば、血縁関係のない人もいる。しかしそういうことに関係なく、とにかく近くに住んでいさえすれば、かれらは出会ったときは挨拶をしないのである。
そこで明らかになった。インフォーマントの家から150--200メートルの距離に引かれる線を「挨拶境界」と呼ぶことにする。この境界が、われわれ(日本人)のそれよりもはるかに遠いところに位置していることは明らかであろう。
□音声によるつながり(p.330-331)
あるとき私はインフォーマントのジャンマリーに、民間薬の使い方を説明してもらっていた。彼が私の家でベンチに仰向けになり、鼻に薬草の汁を垂らしてみせてくれていたとき、道路を隔てて向かいの彼の家の近くで、彼の第一夫人が「ジャンマリーオォー!」と彼を呼んだ。彼女の居た場所ははっきりしないが、50メートル以上離れていたことは確かである。するとジャンマリーは、間髪を入れずに「オォ?」とそれに答えたのである。正確に計測しているわけではないのだが、その答えは、われわれ日本人よりかなり早く、彼が妻の呼びかけを「予期していた」かのようにさえ感じられた。(もちろんそんなわけはないのだが。)つまりかれらは、そういった遠くからの呼びかけに対して、つねに「準備のできた」状態にいると考えられるのである。
またボンガドでは、話者間の距離は自在に変わりうる。(略)古市氏がある男と道を歩いていると、むこうから別の男がやって来るのが見えた。声が届く距離になると、2人は会話をはじめた。口に手をあてて叫ぶでもなく、単に声を太くしただけで会話は続いた。両者はどんどん近づき、やがてすれ違ったのだが、それでも両者は振り返ることもなく、同じスピードで歩きながら会話を続けた。けっきょくその会話が終わったのは、ふたたび距離が開いて声が聞き取りにくくなったときであった。このように、こと会話に関しては、ボンガドの個体間距離は、われわれの常識に比べてはるかに遠くまで引き伸ばされているのである。
□ある種の共在感覚(p.331)
そう考えると、セバの話も納得できる。彼の会話空間の触手はロソンボの壁を越え、20メートルの距離をまたいで、家の傍らに座っている老女のところまで届いていた。彼は彼女がすぐ脇にいるのとさほど変わらぬ気分で、彼女と語り合っていたのであろう。同様に、挨拶境界の内側での「非対面的な出会い」も、大声の発話によって媒介されていると考えることができる。150--200メートルといえばかなりの距離だが、かれらの大声はそのくらい離れていても、十分聞き取ることができる。セバが離れている老女を「一緒にいる」と記載したように、たとえ対面的な状況になくとも、大声で話すのが聞こえてさえいれば、かれらは相手に対してある種の共在感覚をもつのだろう。
■参考文献
木村大治「ボンガンドにおける共在感覚」、菅原和孝・野村雅一編『コミュニケーションとしての身体』(pp.316-344)、大修館書店、1996年
木村大治『共在感覚:アフリカの2つの社会における言語的相互行為から』京都大学出版会、2003年
(c) Yumi Nishimura. Copyright, 2009