第4章 歴史的実在としての神経生理学とその研究室:「実験室における社会実践の民族誌学的研究」
トーマス・クーン(1971)の指摘によればノーマルサイエンスの内部において、それぞれの研究者はパズル解きに専念する。またノーマルサイ エンス内の科学者がおこなうパズル解きに関する科学的方法論は、それぞれの科学者集団が実験室内で継承すると思われる「流派」のそれに依拠すると思われ る。したがってこの歴史社会学的展開に沿えば、パズル解きの技法は歴史的に継承されてゆくはずである。また、そのパズル解きに関する個々の課題を提供する より大きなパラダイム——本研究課題では「視覚に関する神経生理学」がそれに相当する——の内部で共有されている科学上の革新(刷新)たる理論の新たな展 開は、それぞれのパズル解きの技法にさまざまな影響を与えるだろう。
それゆえ神経生理学の実験室は、歴史的継承性という性格を有することになる。そのような歴史的実在は、個々の研究者の学問的成長——場合に よっては人間的成長をも含む——の中で具現化される。本研究の共同研究者であり、かつまた研究対象である佐藤宏道という研究者もまた、ボーヴォワール『第 二の性』の顰みに倣えば、生まれた時から神経生理学者であったわけではなく、学問的修練の過程のなかで(ある時点から)神経生理学者になったのである。そ して「科学の進歩」を担う歴史的主体も、一個人が成し遂げる科学的発見から成り立つという西洋近代の主体主義から自由になれば、近年の科学社会学あるいは 実験室の民族誌研究が明らかにしたように、研究室(ラボ)という小集団、学派(school)と呼ばれる目的意識を共有した研究者の集団、さらには学界そ のもの、ひとつの大きな〈研究主体〉となりえるだろう。
私(池田)は、視覚を中心とした研究テーマを追及する佐藤という神経生理学者を育てた主たる場所は、大阪大学医学部附属高次神経研究施設 (1961-1987)という研究施設であり、そこで視覚の神経生理学を研究教育した指導教官(メンター)を含む研究スタッフとその関係者が織りなす社会 空間であると思う。神経生理学者は、メンターのもとで、実験動物の飼育について習得し、実験方法について学び、共著者として論文の書き方について学び、 ジャーナルクラブ(抄読会)において関連する研究者の方法論について知りかつまた理論上の修練を重ねる。実験室での新参者は、実践コミュニティへの参加の 様式である正統的周辺参加(LPP)の形式をとりながら、やがて中核メンバーとなり十全参加がおこなえるようになる(第3章)。
ここで大学の講座(研究室)における教授の再生産効率について考えてみよう。もし、その研究室が永続性をもつのであれば、45歳で少壮の指導 教授に就任し20年間で平均2名の博士課程の大学院生を指導すると仮定すると、生涯のあいだに40名の研究者を育てることになる。このような世代のサイク ルのなかで単純に1名のみがその教室の主任教授として継承(succession)できるとすると、40分の1名、つまり全体のわずか2.5パーセントの 人しか、その学派の中で生き残ることができない。このことは、その教授が生産する研究そのものは、その指導教授のもとで展開されるさまざまな研究の多様性 のうち限られたものを表象(=代表)するにすぎないことになる。さらに研究の方法論は学問の進歩とともに変化してゆくので、論文のスタイルや研究対象にも 大きな変化が生じることになる。
しかしながら現実には、他の大学や研究機関の教員や研究員になるために、当該研究室以外の場においても指導的な研究者として生業を得ることが でき、またその学派を継承するような研究の広がりは、少なく見積もってもその数倍は期待できるかもしれない。また、高次神経研究施設のように、大学組織の 改廃によってまったく別の機関へと移転することもある。佐藤の場合は、それにあたる。にもかかわらず佐藤を高次神経研究施設神経生理学部(ひとつの研究室 に相当)の継承者とみなすことができる。その理由は、(1)同じ大学でその人脈を継承するものであること、そして(2)その学派の方法論や学風を受け継い でいることである。
このビジョンに従って、本章では佐藤を中心にして世代を前後して、高次神経研究施設神経生理学部という研究室の系譜の流れとして、具体的な研 究領域や方法論がどのように継承されているかについて解説を続けたい。
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以下の説明は、おそらく岩間の執筆になると思われる『大阪大学醫学伝習史(基礎講座・研究施設編)』(1978:289-294)と笠松によ る岩間教授記念文集”From Neurophysiology to Neuroscience”(1985)の序文の内容(本報告書の第9章と10章として再録)について、本章にとって必要かつ最低限の情報を要約する。
大阪大学では1953年頃から脳研究に関する研究所の設置の要望を文部省(当時)に対しておこなっていた。この要望の実質的推進者は解剖学第 三講座教授の黒津敏行であった。研究施設は1961年になってようやく認められ、黒津教授がその定年1年前に、医学部附属高次神経研究施設の施設長ならび に同研究施設神経生理学部の教授に就任した。62年の黒津教授の退官に伴い2代目の教授に就任したのが当時金沢大学の岩間吉也 である。岩間は1919年生まれで1954年には35歳で金沢大学の教授に就任していた。彼は東北帝国大学医学部出身であり、東北時代の岩間のメンター は、生理学第二講座教授であった本川弘一 であった。岩間が大阪大学を定年退官 したときに、恩師の本川先生ついて次のように述べている。
「本川先生は教室のなかでは歯切れのよい限られた言葉で複雑なことを説明する言語能力に卓越されており、それが当時の学生たちを魅了した。先生 はいつも私たちに現在研究中の新しいアイディアについて話してくださった。先生の実験室では若い研究者に対して元気づけるよう魅力に溢れていた。本川先生 は簡潔なこと(simplicity)をたいへん好まれていた」 。
それ以外の岩間の東北大学に関する医学研究上の思い出には、本人が書く次のような情報がある。
岩間は金沢大学時代に睡眠に関する脳波研究をおこなっていたが、大阪大学に赴任するようになるころから、ネコの賦活睡眠について埋め込み電極 技法による、外側膝状体シナプス前抑制の研究に着手することになった。
外側膝状体は、網膜から視交叉を経て最初に視神経の投射を受ける部位であり、大脳視覚野への中継部位でもある。そのため岩間研究室は、外側膝 状体を中心とした脳内の神経経路とくに視覚野などとの関係についての神経生理学研究がおこなわれるようになる。
佐藤が大阪大学大学院医学研究科修士課程の院生として入学するのは1980年で、岩間教授が61歳の時である。佐藤は慶應義塾大学文学部心理 学専攻を卒業し、神経生理学の岩間教授の門を叩いたのである。当時、山口大学医学部を卒業し、麻酔科医として研修を終えた後に助手として採用されていた香 山雪彦が、佐藤の面倒をみるシニア研究者 となった。香山と佐藤は、日本生理学会の英文誌にラットの上丘(superior colliculus)での記録をとった研究を出版(Jpn J Physiol 1982:32(6):1011-4)するが、これは共著ではあるが、はじめて佐藤が英文学術誌に掲載された論文である。
佐藤は岩間の定年退官の前年に、岩間教授の前の職場であり関係のあった金沢大学医学部の助手に就任することになる。佐藤はその2年後の 1984年に再び大阪大学の高次研の助手として戻ってくることになる。この時、岩間教授の後を継いでいたのが、津本忠治である。津本は1987年の高次研 の廃止ならびにそれを継承したバイオメディカル教育研究センター高次神経医学部門の教授として2005年まで務めた。津本はその後、理化学研究所脳科学総 合研究センター津本研究ユニット長として現在(2008年4月)まで至っている。
高次研が1987年に廃止された時、佐藤は米国ミズーリー州セントルイスになるワシントン大学の著名な視覚生理学者ナイジェル・ドウ教授の研 究室に3年間留学する。
ドウは1933年ロンドンに生まれ、ケンブリッジ大学トリニティカレッジにおいて1956年に学士を、1961年に修士号をともに数学で取得 した 。1958年から63年までポラロイドで研究員として過ごした。ポラロイドには視覚研究者のE.H.Land が在籍していた。Land は共同研究者のEdward F.MacNichol, Jr. とともに、ドウをウッズ・ホールのMBLすなわち海洋生物実験室 (Marine Biological Laboratory)で研究に従事させた。ここで彼らは金魚の網膜神経節の研究をはじめるのであるが、ドウは実験室にやってきたときには、その研究に関 する完璧な文献リストを用意しており、彼は金属の微小電極を用いて刺激応答から金魚の色覚に関する神経節の配列について発見したいと述べて、Landらを 驚かせた。
ドウは1962年にワシントン大学に就職し1992年にエール大学に転職するまで30年間在職することになる。ドウの研究関心は、網膜神経節 が色とパターンをどのように情報処理をおこなうのかということであり、ネコ、ウサギおよびサルをつかって実験をおこなった。この間1967年に生物物理学 のPh.Dをジョンズ・ホプキンス大学大学で取得後、1967年から69年までハーバード大学でポスドクの資格で研究をおこなう。ハーバードは言うまでも なくヒューベルとウィーゼルの視覚生理学研究の牙城であった。ドウは、A.L. Pearlman と共同して哺乳動物の視覚システムの学習機会の研究をおこなったが、有名なものは、色覚がないといわれていたネコに関する研究であった。彼によると、反対 色 とよばれる色の組み合わせの合成による色覚理論を外側膝状体の細胞で証明することに成功し、訓練したネコがそれを利用して色を区別していることを発見し た。70年以降のワシントン大学時代のドウは、一方向に光のパターンが動く環境に育てられた動物の視覚比較や、さまざまな発達段階で眼球を摘出したものと の比較研究に従事することになる。
佐藤はワシントン大学のドウ教授のそのような研究室の門を叩き、視覚の神経生理学者としての修練を2年間国外で積むことになる。この年 (1987)の7月に佐藤は大阪大学から医学博士号を取得しているため、ワシントン大学での彼の受け入れ身分はポスドク研究員であった。
佐藤は1989年に津本教授のバイオメディカル教育研究センター高次神経医学部門に戻り、翌90年に同じ職場で講師に昇進する(34歳)。
1992年ドウ教授は、古巣のワシントン大学からエール大学医学校 の眼科学と視覚科学学科 に転職する。本報告書の第5章で登場する七五三木聡は、エール大学のドウ研究室に訪問し短期の実験をおこなうが、ドウ教授の着任の9年後のことであった。
1994年七五三木は、群馬大学大学院医学研究科を修了し医学博士号を取得するが、同年、大阪大学保健体育部に助手に就職する。七五三木は群 馬大学教育学部出身で、筑波大学大学院修士課程に進学し、スポーツ科学を修了した柔道家でもある。母校の医学研究科に戻り医学博士号を取得するが、その当 時の専門は筋肉および骨系の生理学研究にあった。
七五三木が大阪大学保健体育部にやってきた翌年に、その組織の一部が同大学の医学部系の教授の人事ポスト(ジッツ)に佐藤が保健体育部の教授 に就任し、彼は七五三木の上司になる。佐藤が就任した翌1996年に七五三木は講師に昇進した。佐藤教授と七五三木講師の新しいコンビは、七五三木の研究 テーマの二重化あるいは端的に視覚の神経生理学への転向 を生み、その3年後には七五三木の主著で佐藤が共著の論文(J. Neurosci., 1999 19(22):10154.)が公刊されている。
佐藤は1995年に保健体育部という新天地に赴任し、また部下である七五三木の専門も異なることから、これまでの実験のインフラストラク チャーがあった環境から、彼自身のまさに一国一城の研究室づくりのための更地に降り立ったことは想像に難くない。佐藤のバイオメディカル研究センター時代 の遺産を継承していると思われる論文が佐藤の赴任の2年間は公刊されたものの、1997年と98年の2年間は論文の生産が停滞している。もちろん論文の生 産が停滞する理由には投稿を行わないこと以外に、査読から採択までのプロセスがスムースにいかないことも考えられるが、佐藤研究室のその後の論文生産性の ペースから推測するに、この空白は、研究室をゼロベースから立ち上げる準備期間であったと考えるほうが筋が通る。他方、この時期は大阪大学全体にとっても 大学院重点化 がはじまった時期で、組織間の格差が生まれる原因となった。1997年に医学部は医学研究科になり、翌年に保健学専攻を取り込んで医学系研究科に改組され た。保健体育部は大阪大学大学院重点化の7年後の2005年に組織としてはリストラされて、その一部である佐藤研究室は医学系研究科に組み込まれることに なる。
新生の佐藤研究室が創設期の産みの苦しみを脱してようやく安定期に入るのが2001年である。この年の2月に、佐藤が留学時代に学恩のあるナ イジェル・ドウ教授(エール大学医学校)が短期間ではあるが来日した。佐藤研究室においてもドウ教授はセミナーをおこなった。このことが契機になり、同年 7月に七五三木がドウ教授のもとで、次章で佐藤が詳述するような論文がうまれる実験がおこなわれる。
本章は七五三木の著述になるある1本の論文が佐藤研究室に生まれるにいたるまでの物語の概略について説明した。ここで筆者(池田)が強調した いことは次のようなことである。研究者や研究者の研究(=実験)の質を保証するものと言われている論文のインキュベーターは、研究室(=実験室)である。 七五三木という一研究者のある研究論文が生まれるルーツを遡っていくと、佐藤のメンターであった岩間先生が、70年以上前に東北大学で本川先生の講義に感 動するところまで遡れるということなのである。もちろん、本川先生や岩間先生は七五三木論文の直接のルーツとは言い難い。にもかかわらず、歴史的事実とし ての神経生理学とその実験室が、時空間をこえて発展継承するというビジョンを心に抱くものは、そのような偶然の繋がりの中に歴史の必然性を見るものなので ある。
文献
注釈
1)岩間吉也の読みは、英語の論文の署名にみるように「いわま・きつや」である。
2)本川弘一(もとかわ・こういち)は、後の1965年11月から1971年2月まで東北大学第12代総長を務めている。
3)当時の国立大学は文部省所轄で大学教授の任命は文部大臣名でおこなわれていた。大学教授の定年退職のことを公務員(役人)に準じてこの ように呼んでいた。
4)Kasamatsu(1985:i)より池田が翻訳した。
5)このような組織の先輩の研究者の共通の呼称はないが、医学部の基礎研究領域においては、臨床研修におけるオーベン(ドイツ語の上位を意 味する言葉で、研修医の面倒をみる役割をこう呼ぶ)のような言葉(池田と佐藤 1991)がないので、ここでは「シニア研究者」と呼んでおく。
6)ドウ教授の略歴の紹介はMacNichol, Jr.(1994:4166)による。
7)MBLは1930年に創設されたウッズ・ホール海洋学研究所に属する組織である。
8)ヤングが提唱しフォン・ヘルムホルツ(1821-1894)が発展させた赤・緑・青の三色説(trichromatic theory)に対して、赤/緑、黄/青、白/黒という三色の反対色に対して網膜上のそれぞれのシリーズに対応する同化と異化によって、それらの色が知覚 され、複雑な色彩はそれらの組み合わせによるものであると主張したのが反対色説(opponent-color theory)である。
9)米国の医師養成コースは医学校(School of Medicine, or Medical School)と呼ばれる専門大学院にある。
10)この学科とはdepartment の翻訳である。エール医学校(Yele School of Medicine)のこの「学科」は2008年現在、10名の臨床医のメンバー(clinical faculty members)と6名の常勤研究メンバー(research faculty members)を中心に、約24名の教員と医師で構成される大所帯の組織である。
11)転向という表現は、研究者はさまざまなキャリアを通して自身の経験の幅を広げてゆく可能性をもつという点では穏当な表現とは言えない が、多くの自然科学の研究者は限られた領域のなかでしのぎを削って限られたテーマを研究する経験的事実がある点でこの用語をここでは採用した。
12)大学院重点化とは、学部中心の大学組織を、大学院中心の組織に変えることである。大学院中心の大学とは、そこで教育を受ける者への博 士号を恒常的に付与すること、つまり研究者養成の主旨を鮮明化することであり、大学の格を上げようとすることに他ならなかった。大学院の重点化は、旧帝国 大学や新制大学の医学部(研究科)で行われたので、それを実施した当事者の意識のなかに露骨なエリート意識があったことを図らずも露呈した。
岩間吉也名誉教授( 医学部) 逝去
本学名誉教授岩間吉也先生は平成22 年3 月26 日に心筋梗塞のため逝去されました。享年90 才でした。
先生は大正8 年に宮城県亘理(わたり)町に生まれ、昭和1 8 年東北帝国大学医学部を卒業後、同大助手、助教授を経て、昭和29 年金沢大学教授(医学部第2 生理学講座)に昇任されました。昭和3 7 年には大阪大学教授(医学部附属高次神経研究施設神経生理学部門)に配置換えとなり、昭和58 年に定年退官されました。その問、医学部附属高次神経研究施設長、医学部附属分子遺伝学研究施設長、大阪大学附属図書館中之島分館長を務めたほか、昭和 54 年8月から56 年8 月まで医学部長を務め、大阪大学の運営ならびに生理学教育に貢献され、また後進研究者の指導育成にたゆまぬ熱意と創意を注がれました。
先生は中枢神経系の研究に大きな足跡を残されましたが、特に条件反射の神経生理学的研究、逆説睡眠時の脳内活動、視覚中枢におけるγーア ミノ酪酸やノルアドレナリンなど神経伝達物質の機能、視覚中枢の並列情報処理機構など、現在の脳科学の大きな研究領域の礎となる数々の研究をされました。
大阪大学退官後は、近畿大学薬学部特任教授、兵庫医科大学客員教授として教育に従事されましたが、また書物を友とされました。自宅をオ フィスとし、大阪大学附属図書館を拠点に広く自然科学について資料を収集すると共に、深い洞察をもって探求を進めておいででした。特に平成17年に出版さ れた「心臓の動きと血液の流れJ (講談社学術文庫)は、血液循環説を確立したウィリアム・ハーヴィの名著を非常に多くの労力と歳月をかけてラテン語から翻訳し、綿密な註をつけて完成した ものであり、全く妥協のない努力の結晶です。8 0 才を過ぎてからこの偉業に取り組まれた先生の尽きることのない学術への情熱には頭が下がるばかりです。
岩間吉也先生の在りし日のお姿を偲び、謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
出典:『阪大 NOW』第118号、p.67、2010年6月
◆「実験室における社会実践の民族誌学的研究」(目次)
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