遇う[あう]
meet / see / encounter
西川 勝
臨床コミュニケーション(5)20091029 担当:西川勝
遇う
meet / see / encounter
今回の課題
対人コミュニケーションを考える上で、もっとも初発の問題は何だろうか。これは、私たちが考える臨床コミュニケーション (Human Care in Practice) の出発点はどこにあるのか、という問いにつながる。前回の授業では、ともに「いる」ということを考えた。今回はさらにその一歩手前の「遇う」ということが、どのような事態であるのかを議論したい。
1.日常的なことばである「あう」について、もう一度考えてみる。
2.最近、心に残っている「遇う」経験について話し合ってください。
3.「遇う」ことが、自分にとってどのような意味があったのかを話し合ってください。
4.「遇う」具体例と、「遇う」の意味についてグループでまとめた結果を発表してください。
参考文献
●森田良行『基礎日本語 −意味と使い方』、角川書店、昭和52年
あう[会う、合う]の項
●鷲田清一『「聴く」ことの力 −臨床哲学試論』、TBSブリタニカ、1999年
第3章 遇うということ(1,沈黙とことばの折りあい 2,間がとれない 3,補完性 4,だれかに遇うということ)
時間配分
16:20〜16:40 導入
16:40〜17:20 グループワーク
17:20〜17:45 発表とコメント
※1グループは5名前後で、司会者と発表者を決め、自己紹介の後、グループワークをしてください。
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「座らない乗客」
西川 勝
今週の月曜日のことだ。朝、ぼくは岡山行きの新幹線に乗り込んだ。間抜けな話だが、忘れ物を取りに行くためだけに、ぼくは大阪から岡山に向かっていた。研究会の会場で、バッテリーの残量が少なくなっていた携帯電話を充電したまま、忘れてしまったのだ。
気分はやけっぱちだった。「ひかり」の喫煙自由席は空いていた。大阪が始発だったせいもあるだろう。ぼくを含めて5名ほどの乗客を乗せて、新大阪を出発した。ぼくは進行方向に向かって右側の一番後ろ、窓際に座っていた。出発してすぐに、ちょうど左側後ろから二番目の座席に、初老の女性が紙袋を三つもってやってきた。彼女は後ろ向きに立ったまま紙袋から何かパンフレットのようなものを取り出しては、車内灯の下で老眼鏡をかけて読み始めた。それも丁寧という感じではなく、さっと見ては紙袋にしまい込み、次のパンフレットを出すという仕草なのである。何か大事なものを探していて、それを見つけてから座席に座って読み始めるのだろうと、ぼくは勝手な想像をした。
ぼくは忘れっぽい自分が馬鹿な目に遭うことに苛ついていた。だから、タバコでも存分に吸って岡山に行こうと決めていた。二本目のタバコに火をつけたときに、まださっきの女性が後ろ向きに立って、同じように紙袋からパンフレットを出しては入れているのに気がついた。もう、新神戸が近い。ぼくは、ちょっと不思議な気持ちになり始めた。彼女は何のために立っているのだろう。なぜ、座らないのだろう。座った方が楽だろうに、座ると暗いかな、いや、そんなはずはない。でも、・・・。あれこれ考えるが、腑に落ちるような理由が見いだせない。変わったひとだなあ。別に迷惑じゃないけど、気にはなるなあ。無視しようと思う反面、いったいいつまで彼女が立ち続けるのかを見届けたい気もした。座るときに、どんな風にするかも知りたくなって、ちらちらと彼女を見続ける羽目になってしまった。
新神戸について、新しい乗客が入ってきた。年配の背広姿の男性で、鞄と缶ビールを手に持っている。彼は左の一番後ろの窓際に座り、鞄から新聞を出し、缶ビールの栓を開けた。彼のちょうど前には、さっきの女性が彼と対面する格好で立ってパンフレットを読んでいる。新しい乗客も、立ったままいる女性を大して気にかけるでもなく新聞を読みはじめた。ぼくは、どうなるだろうと思った。彼女が後ろの乗客に気兼ねをして、座席に座ると思ったからだ。
ぼくの予想は外れた。彼女はまるで気にする様子もなく、相変わらず、紙袋からパンフレットを出しては読んでいる。後ろの乗客の表情も少し変化している。ぼくは、この状態がこのまま続けば、後ろの乗客はどうするのだろうと考え始めた。前に立っている彼女に話しかけるのだろうか。それとも、自分が別の席に移動するのだろうか。ビールは持って行くのか、それとも飲み終わってからなのか。もし、自分があの男性の立場であったら、どうするだろう。ぼくの頭はくるくると忙しく回って、外の景色を見る気にもなれない。
そして、その時が、不意に唐突に訪れた。彼女が座席に座ったのだ。別に変わった仕草はなかった。さっき座席に着いたばかりのような自然さだった。ぼくは腕時計を確かめた。新大阪を出て35分が経っていた。思わずため息をつきそうになった。
この後、ぼくが岡山で降りるまで、何も起こらなかった。
(c) Masaru Nishikawa. Copyright, 2009