カントにおける人間と動物の関係
Introduction
to Kantian animals and animal Kant
このページの目的は、カントが人間を考える際に、動物を手がかりにどのようなことを言っているかを検証することである。しかし、人間の欲望や要 求について考えることで、カントの人間の想定の限界について明らかにするという目的もかねている。
「今日もし、
もっともロボット化された、もっとも非「個性的」な個人がプラトンの『国家』を読むとすれば、
びっくりしてつぎのように叫ぶであろう。そこでは個人は、分業によってわりあてられた自分の
場所に完全に従属させられていて、なんの自由もないではないか、と。けれども、プラトンの時
代においては、だれも——プラトンのもっとも激しい論敵でも——こんなふうに彼を非難はしな
かった。アリストテレスもしかりである。なぜならば、プラトンの国家機構のなかでの暮らしは、
当時の個人にとって、彼の個性の侵害を意味するものではなかったからである。つまり、個人は
とうてい今日の個人ではなかった。じっさいに現存する欲望や要求だけが「侵害し」うるものな
のである。われわれは、モアの『ユートピア』を読むときにも同じ感じを持つ。けれども彼の生
きていた頃には、だれもが、人間はユートピア島においては無条件に自由なのだと考えていた。
共同体がその成員に、なんらかの宗教に所属することを命じたら、ユートピアの住民としては、
個人の束縛だと感じたであろうが、十一世紀の共同体においては逆におそらくだ
れからも自由の侵害とは感じられなかったであろう」(ヘラー 1976:14-15)。
友人の田中朋弘さんによると、カントの人間の定義は、理性の観点からおこなわれ、人格と物件や、文化と自然の二項対立がみられるという。ただ し、人格ではないものを、尊厳をもたないとして任意に処分できると主張したものではない。カントの関心はむしろ、人間性にもとづく世界観 の構築にあった。
■動物に対する責任
「われわれには動物(Tier)に対する直接的義務は存在しない。動物に対する義務は、人間性(Menschenheit)に対する間接的 義務 (indirekte Pflicht)である」(Kant 1992:S.256) Immanuel Kant, Eine Vorlesung ueber Ethik, 1990, Philosophie Fischer. 『倫理学講義』1775-1780年頃の講義
■精霊に対する責任
「精霊(Geist)に対する義務は消極的(negativ)であるに過ぎない。われわれは精霊との交渉、談話を告げるような行為に関与し ては ならない。この種の行為はすべて、人間を狂信的、夢想的、迷信的にし、人間性の尊厳に反するものである。なぜなら、人間性の尊厳の要素をなすものは、理性 の健全なる使用であるが、精霊とかかわり合うならば、理性の健全な使用が不可能となるからである」(ebid. S.257)。
■生命のない物件への義務について
「この義務も間接的には、人間性に対する義務を目指している。(中略)物件(Sache)に対するこの義務を遵奉するに当たっては、物件そ のも のに関して考慮する必要はないけれども、他人のことは考慮しなければならない。したがって、動物、精霊および物件に対するあらゆる義務は、間接的には人間 性に対する義務を目指している」(ebid. S. 258)
■人格と物件
「存在するもののなかには、その現実的存在がわれわれの意志に依存するのではなく、自然に存在すしているものがある。そしてこのような仕方 で存 在するものが理性を持たない場合は、手段としての相対的価値をもつだけであり、それ故それは物件(Sache)と呼ばれる。これに反して、理性的存在者は 人格(Person)と呼ばれる」 Kant, I., Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, 1785, VI 428
■人間の尊厳
「人間性(Menschheit)そのものが尊厳(Wuerde)である。なぜなら、人間は誰からも(他人からも、また自分自身からさえ も)単 に手段として用いられてはならず、むしろ常に同時に目的として用いられなければならないからである。まさにこの点にこそ、人間の尊厳(人格性 Persoenlichkeit)が存在する。そして、それによって人間は、人間ではなく、使用されうる他のすべての存在、すなわち一切の物件 (Sache)を越えている」。 Kant, I., Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, 1785, IV 462
■人間の尊厳と道徳性
「目的の国では、いっさいのものは価格(Preis)を持つか、あるいは尊厳をもつかのいずれかである。価格をもつ物は、何かほかの等価物 (Aequivalent)で置き換えられる。しかし、あらゆる価格を超えたもの、したがっていかなる等価物も許さないものは、尊厳(Wuerde)を持 つ」。 Kant, I., Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, 1785, IV 434
「ところで道徳性は、理性的存在者が目的自体となりうるための唯一の条件である。彼はこの条件のもとでのみ、目的の国において立法する成員 たり 得るからである。だから、道徳性と、道徳性を持ちうる限りの人間性だけが、尊厳を備えているのである」 Kant, I., Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, 1785, IV 435
■自然と文化
・「自然(Natur)は、(中略)われわれの感覚(Sinn)の対象、したがってまた経験の対象たりうる限りの、一切の物の総体として理 解さ れる。この語のもとでは、あらゆる現象の全体、すなわち一切の非感性的対象を除いた感性的世界が理解される」(Kant, 1786., IV S.467) Kant, I. Metapysische Anfangruende der Naturwissenschaft, 1786.
・「人間の使命とは何だろうか。(中略)人間は、享楽ではなく文化(Kultur)、すなわち人間的要素を最大限に発展させることを使命と して いる。(中略)最終的な自然目的は文化である。これは最大の道徳的な完全性を生じさせなければならず、道徳の道徳性が究極目的、つまり一切の使命の最終段 階、であるように思われる」。
Kant, I., Vorlesung ue ber Anthropologie, 1791/92; teilw. 1793,
Ko369,
Kant im Kontext III (Komplettausgabe).
・「任意の目的一般に対して(したがって、その自由において)理性的存在者を有用たらしめることが、文化(Cultur)である。したがっ て文 化だけが、人類に関してわれわれが自然に帰する理由を持つ、最後の目的でありうる」 Kant, I., Kritik der Urteilskraft, 1790, V 431-2.
※カントの時代にはCulturとKulturの両方の記法があった。
・「人間がその理性によって課せられている使命は、彼が人びとと共にひとつの社会のうちに存在し、その社会において芸術と学問を通して自己 を陶 冶(cultiviren)し、文明化(civilisiren)し、道徳化(moralisiren)することである。そしてまた、幸福と呼ばれる平穏 と歓楽生活とへの刺激に受動的に身を任せようとする動物的性癖がいかに大であろうと、むしり能動的に、彼の自然性が粗野であるために彼につきまとっている 障害と闘って、自己を人間性(Menschheit)に値するようにすることである」。 Kant, I., Anthropologie in progmatischer Hinsicht, 1798. VII 324-5.
リンク
文献
その他の情報
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クレジット:カントと人間中心主義(田中朋弘ノート2009年12月19日)
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