Allan Burns' Maya in Exile: Guatemalans in Florida.
Philadelphia:
Temple University Press: A research notes
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"The Maya are the single largest group of indigenous people living
in North and Central America. Beginning in the early 1980s, hundreds of
thousands of Maya fled the terror of Guatemalan civil strife to safety
in Mexico and the U.S. This ethnography of Mayan immigrants who settled
in Indiatown, a small agricultural community in south central Florida,
presents the experiences of these traditional people, their adaptations
to life in the U.S., and the ways they preserve their ancestral
culture. For more than a decade, Allan F. Burns has been researching
and doing advocacy work for these immigrant Maya, who speak Kanjobal,
Quiche, Mamanâ (sic, by maybe Mam), and several other of the more than
thirty distinct languages in southern Mexico and Guatemala. In this
fist book on the Guatemalan Maya in the U.S, he uses their many voices
to communicate the experience of the Maya in Florida and describes the
advantages and results of applied anthropology in refugee studies and
cultural adaptation.Burns describes the political and social background
of the Guatemalan immigrants to the U.S. and includes personal accounts
of individual strategies for leaving Guatemala and traveling to
Florida. Examining how they interact with the community and recreate a
Maya society in the U.S., he considers how low-wage labor influences
the social structure of Maya immigrant society and discusses the
effects of U.S. immigration policy on these refugees."- Book database
マヤは、北中米に住む先住民の中で最も大きなグループである。フロリダ州中南部の小さな農業地域であるインディアタウンに定住したマヤ移民の民
族誌で、この伝統的な人々の経験、米国での生活への適応、そして彼らが祖先の文化を守る方法を紹介している。アラン・F・バーンズは10年以上にわたっ
て、メキシコ南部とグアテマラに住むカンホバル語、キチェ語、マム語、その他30以上の異なる言語を話す移民マヤの調査と支援活動を続けている。米国に住
むグアテマラ・マヤに関する本書では、彼らの多くの声を用いて、フロリダに住むマヤの経験を伝え、難民研究や文化的適応における応用人類学の利点と成果を
述べている。バーンズは、米国に移住したグアテマラ人の政治的、社会的背景を説明し、グアテマラを離れ、フロリダに旅立った個人の戦略についての個人的な
エピソードを含んでいる。彼らがどのように地域社会と関わり、米国でマヤ社会を再構築しているかを検証し、低賃金労働がマヤ移民社会の社会構造にどのよう
な影響を与えているかを考察し、米国の移民政策がこれらの難民に及ぼす影響を論じている。
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Burns, Allan F. 1993(Burns, Allan F Professor and Chair)
Maya in Exile: Guatemalans in Florida. Philadelphia: Temple University Press.
・1986年「移民改革統制法 Immigration Reform and Control Act of 1986」による、それまでの不法滞在状態から、在留の権利をもつ移民者への変更が、アメリカにおけるマヤ民族の存在に大きな意味をもつ。
・1987年ビニシオ・セレソ(Vinicio Cerezo)政権期におけるマヤ言語の正書法の国家制定。
・【課題】グアテマラ先住民庁の解体からグアテマラ・マヤ言語アカデミー(Academia de Lenguas Mayas de Guatemala[綴り確認のこと], ALMG)までの、先住民言語保護の観点からみたグアテマラ先住民政策を、簡潔にまとめること。
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0. Introduction by Jero'nimo Camposeco.(pp.xviii-)
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・スペイン語と英語のバイリンガルで書かれている。
・コミュニティ:San Miguel de Acata'n y San Rafael La Independencia.(Akateco, Kanjobalと分類されていたが、後に独立言語として認められる)、近くにハカルテク(Jacalteco)、カンホバルの言語集団があり、相互に類 似性をもつ。
・カンポセコのライフヒストリー、北米にいたるまでのグアテマラ内戦状況、北米での生活など。
・生年は、戸籍上は1938年10月1日だが、実際は1937年10月2日である(その事由はp.xxiiにある)。
・父母はホセとアントニアで行商(特にシェーラのサルカハでできる女性のスカートを商う)に従事する。
・幼少の時代からのマヤ儀礼への参与。
・共同体は、土地の産品の交易を通してクチュマタン高原西側でゆるやかな交流圏をつくっていた。
"Otros arti'culos de mucha demanda eran los productos de fibre de maguey (ishte) tales como cuerdas, "lazos,""jaquimas" para atar bestias, "morrales" (bolsas), redes, adornos de pared, etce'tera. Asimismo fabrican arti'culos de lana de oveja negra como los sacos cerrados o "capishayes" para protegerse del fri'o o la lluvia, los manteones para los aparejos o monturas de caballos. Las mujeres especializaron en tejer una cinta de palma al que llamamos "trenza" para la fa'brica de sombreros en Jacaltenango y sobre todo para los sombreros especiales que usan los mames de Todos Santos."(Camposeco 1993:xxviii).
・カンポセコは師範学校の教育を受けることを、サン・ミゲルのメリノール司祭から進められ、シェーラのla Casa de la Culura、の書籍店に職を得る(p.xxx)。
・当時の先住民教育は、カスティーリャ語化(=スペイン語はカスティジャノ、つまりイベリア半島語という意味があるのを、スペイン語を使うメス ティーソの文化的価値観の体系に統合しようという教育政策)が進められ、スペイン語の話せない先住民の子供たちのスペイン語識字運動が国家の教育政策とし て進められていった。
・1977年(彼が40歳)にウェウェテナンゴ県のイシュタウァカンの鉱山労働者の全国行進がはじまる。そのリーダーの一人は、ウィウィ (Wiwi)の呼び名をもつMario Mujia Co'rdoba で、カンポセコの友人のサンミゲルの看護婦クリテバル・コルドバの息子であった(P.xxxvii)。
・その後、軍の掃討作戦の結果、多くのミゲレーニョがアメリカに逃亡することになった。カンポセコを受け入れたのはペンシルヴァニアのモホーク 先住民族だった。先住民の土地で知り合ったのはKayuta Clouds(雲のカユタ)だった。
・1983年2月にモホークの首長と地元紙 Akmesasne Notesは、彼に対してフロリダの村落司法サービス局とアメリカン・フレンズ・サービスの弁護士に会い、マイアミのアメリカ移民局の収容所に収容されて いるカンホバルに面会するように依頼されている。
・モホークの協力もあり、人類学リソースセンターのシェルトン・デービスにも会い、グアテマラの先住民族の窮状を訴え、これがきっかけになり CORN-Maya(Comite' de Refugiados Maya, ref. pp.62-5)が結成された。
・1993年時のカンポセコの所感:"La situacio'n en San Miguel ya no es igual. Es difi'cil que la tranquilidad vuelva. El pueblo traditional y paci'fico que existi'a antes es so'lo un suen‾o ahora. Los miguelenos, jacaltecos, solomeros, mames, quiches, aguacatecos, kanjobales y otros mayas refugiados en Florida y en otros estados, como pueblo, como nacio'n, o como grupo no volvera'n a Guatemala. Quiza's algunos individuos lo hara'n temporalmente o definitivamente."(Camposeco 1993:xlvi).[翻訳]「サン・ミゲルの状況はもう過去のようなものではありません。静けさが戻ることなど困難です。かつて存在した伝統的で平和 な村は、現在では夢想にしか過ぎません。サン・ミゲルの人、ハカルテコの人、ソロマの人、マムの人、キチェの人、アグアカタンの人、カンホバルの人、ある いは、フロリダやアメリカの他の州にいるその他のマヤの難民、つまりこれらは、あたかも共同体であり、国家であり、グループでもあるわけですが、これらの 人々はグアテマラには帰還しません。たぶん何人かの人たちは、一時的あるいは永続的に帰還する人もいるかも知れませんが。」
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1. Maya Refugee and Applied Anthropology (pp.1-)
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・この書物が書かれたいたときのフロリダのマヤ先住民4千人
・グアテマラ内戦:「隠れた戦争 hidden war」(Beatriz Manz, 1988)
・グアテマラの難民化は早くに始まったが、難民キャンプの設営(1980年代初頭にメキシコ・チアパス州)が遅れて(国内外にも認知が遅れた) グアテマラ国軍による国境を越境した難民への迫害が続いた。グアテマラ国軍の国境越境による攻撃活動は、メキシコ領内に難民キャンプが設営された後にもお こった(p.24)。そのため、グアテマラ難民のキャンプは、当初設営されたチアパス州からカンペチェ州まで移動したこともあった(p.25)。
・(グアテマラ人類学研究小史のような記述が続く。p.10)
・(その後、応用人類学史)the Cornell-Peru Project, は"Vicos project" として有名だが、後にさまざまな開発批判にさらされた。
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2. Escape and Arrival (pp.23-)
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・1981年以後:グアテマラ国内外に60万人ほどが難民化し、アメリカ国内には20万人ほどが滞在するといわれている(Zolberg et al. 1989:212)。アメリカ合衆国への最初のウェーブは83年から86年の10万人程度であったが、難民申請のうち1461件の申請は却下され、認めら れたのはたった14件であった(p.23)。アメリカ合衆国の当局者たちは、グアテマラ難民が政治的理由ではなく、経済的な理由によりアメリカにやってき ているという認識が当初よりあった(p.27)。(【コメント】:このような認識は冷戦構造の中央アメリカ観に由来する側面がある。なぜなら、サンディニ スタ期(1979-90年)のニカラグアと異なり、グアテマラでは当時、共産主義勢力と軍事政権が交戦状態にあり、難民化しているのはゲリラないしはその シンパサイザーか、その紛争のとばっちりを受けた農民であり、もし仮に政治的な理由で難民になったとしても、自由主義陣営であるアメリカは、その当事者た ちを保護するつもりはほとんどなかったのである)
[Zolberg, Aristide, Astri Suhrke, and Sergio Aguayo. 1989. Escape from violence: Conflict and the refugee crisis in the developing world. New York: Oxford University Press.] ・マイアミのインディアンタウンに労働力が必要になる季節には、約5千人が住む。
・アメリカのへの難民の移動は、グアテマラと地理的に間にあるメキシコ経由してくる。難民のすべてがアメリカに移民するということはなく、メキ シコ領内において労働移民として定着した者がいた。
・メキシコ国内における難民の移送のエピソードはp.25を参照のこと。
・グアテマラの政治状況の悪化(p.30)
・コヨーテとミグラのエピソード(ロドリーゴとフリアンの対話、pp.31-2)
・コノーヴァ(Coonover)『コヨーテ』(1987):越境移民の物語の“代表格”としての——(p.32)。
・インディアンタウンへの到着第一日目のエピソード(p.33)。
・グアテマラにおける汎先住民運動の第一のウェーブは1970年代で、ニューヨークとペンシルバニアのネィティヴ・アメリカンがグアテマラのマ ヤとの接触・文化交流をおこなったのを嚆矢とする(pp.36-)。
・グアテマラにおける北米先住民の犠牲者(Kayuta Clouds)(p.37)。
・ナラティヴ・タイプの形成:ナラティヴは事実の反映ではなく、アイデンティティを構成する要素。
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3. Life Crisis and Ritual(pp.41-)
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・インディアンタウンの地理(p.42)
・洗礼(p.45)
・ハシンタとドミンゴの話(p.46)。
・カンホバル人の政治的組織は、(マヤ系先住民の)Civil-Religious hierarchyに類似するという指摘(p.51-)。
・現地での政治参加(p.52-)
・フェスティバルにおけるカンホバル人によるスピーチ(p.59)
・IRCA(Immigration Reform and Control Act of 1986),p.61
移民改革法/改革移民法(定訳の存在?):米国内で就労できる労働者を合法的滞在者のみとする規定する法律。これにより、それ以前の不法滞在 者を法的手続きにより合法的な労働者にする措置をとると同時に、これ以降は、雇用者は不法滞在者を就労させることができなくなる。(画期的な法律であると 言われている)。
・CORN-Maya (Comite' de Refugiados Maya),p.62
・先住民マヤ・アイデンティティにまつわる議論(p.64)
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4. The Maya in Community and Ethnic Context(pp.67-)
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・7つの仮説(p.69):
(1)ある移民のこれまでの職業は、米国内での雇用にどのような影響を与えるのか?
(2)移民の地位は、仕事の様子、職業の稼働性、職業上の成功にどのような影響を与えるのか?
(3)米国の労働市場は、男性と女性の役割と期待にどのような影響を与えるのか?
(4)職場の内外でのコミュニティにおける異なった民族諸集団の諸関係とはいかなるものか?
(5)インフォーマルセクターの仕事は、どのようにして、これらの異なった[民族]諸集団におけるフォーマルセクターの仕事に補充・追加されて きたのだろうか?
(6)移民たちはどのようにして仕事を見つけ、また、労働支援や就職斡旋(job referral)に関する公的ならびに私的プログラムの役割は、どのようなものであろうか?
(7)インディアンタウンのコミュニティのこれらの人々に対して、1986年の移民改革法のインパクトはどのようなものであったのだろうか?
・セミノール先住民族など先住民族との関係:インディアンタウンの歴史(p.69)
・インディアンタウンの3つの居住地区:インディアンタウンそのもの、ブッカーパーク、インディアンウッド退職者用造成地(the Indianwood retirement development)
・不法入国者の貧しさに驚く黒人(p.86)
・改革移民法適用直前のインディアンタウンの状況(around, p.90)
・ミゲル・カルロスの唐辛子を植えること(p.95)、トルティージャを作る時間がない!(p.97)
・異なった民族集団で同じ人口構造(p.98)
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5. Work and Changes in Social Structure(pp.103-)
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・仕事を通しての移民のアイデンティティの発見(p.103)
・SAW(季節農業労働者、Seasonal agricultural worker)
・農家(agriculturalist)と農園労働者(farm worker)の違い(p.105)
・労働選好性:単一の仕事につきたがる傾向(p.106)
・身体の大きいメキシコ人に対して、グアテマラ人は熱心に働くにもかかわらず体力的ハンディがある(p.108)。
・ゴルフコース・ワーカー(p.110)
・マヤの言語使用:第一言語はマヤ、第二言語は英語(p.112)
・労働組合(p.116)
・労働の季節的変動:5月〜10,11月はオレンジとレモンの収穫がない時期(p.117)
・女性の役割(p.118):Juana Estrella のエピソード(pp.118-9)
・移民の子供たち(p.119)
・婚姻パターン(p.120)
・変貌する町(p.124)
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6. Conflict and the Evolution of a New Maya Identity(pp.125-)
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・マヤのイメージの変化(p.126)
・墓場の問題(p.130)
・民族的アイデンティティ:デュボスとロマヌッチ−ロス(De Vos and Romanucci-Ross 1982:368)による、「シールド(楯)」と「エンブレム(紋章)」の機能。(De Vos, George, and Lola Romanucci-Ross. 1982 Ethnic Identity: Cultural continuity and change. Chicago: University of Chicago Press.)を、マヤ・アイデンティティにおいて検証する(pp.130-)。
・エスパーニャ征服時のセツルメント・パターンが、フロリダに再現される(p.132)=文化的再生産の事例
・空間利用(p.133)
・壁の装飾(pp.133-)
・南米における織物協同組合の設置とカトリック修道女(p.136)
・インディアンタウンにおける助産婦(pp.137-)
・マリンバ演奏と共同の精神(p.139)
・仮面舞踊(p.140)
・文化のブローカーとしての Gaspar Domingo(p.141)
・1960-70年代におけるプロテスタントへのグアテマラ国内における大量改宗(p.143)
・インディアンタウンにおける、初期のマヤ先住民イメージ(p.147)
・1920年代のラ・ファージが報告した、カンホバルの大量飲酒(p.148)
・マヤ高校生の語り(p.149)
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7. Visual Anthropology and the Maya (pp.152-)
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・1960年から1970年代初頭:ナヴァホ・フィルム・プロジェクト(p.154)
・Hubert Smith によるユカテク・マヤの映像記録:The Linving Maya (1985) シリーズ
・インディアンタウンにおける映像記録の練り上げとそれにまつわる問題:1.映像記録がそのまま内戦に関する弾圧に流用される(1990年代初 頭は依然として、1996年末の和平合意頃まで。しかし、1999年末のFRG右派政権成立以降、再び人権活動家や政治家に対する脅迫や暗殺事件の増 加)。2.資金面での問題。3.日雇い労働者の出演時間の確保が困難。
・28分の『難民状況のあるマヤ(Maya in Exail)』が完成(around, p.168)。
・ビデオを州政府が買い上げるのは「あまりにも政治的(too political)」と二の足を踏む(p.170)
・映像に使う言語(カンホバル語)の問題(p.171)
・二番目のフィルム『マヤの祭り(Maya Fiesta)』の完成(p.172)
・メキシコの難民キャンプにおける上映(p.173)。
・自己表象することを「成功」すること(p.173)
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8. Always Maya (pp.174-)
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・"Siempre Maya"
・さまざまなマヤ表象とその流通:古代マヤ表象(p.174)、民族マヤ表象(p.174)、言語と開発(p.175)、抵抗するマヤ (p.175)、織物のマヤ(p.175)、犠牲者としてのマヤ(p.175) ・アメリカからの国外追放(deportacio'n)に対する強い恐れ(p.176)
・移民の宗教へのコミットメントの無さが逆に、インディアンタウンにおける(民俗カトリック的な)祭礼への非宗教的関与を高める。たとえば、元 の共同体ではプロテスタントはマークされており、祭礼には参加できない(p.177)。
・「グアテメックス(Guatemex)」ラテン系移民のハイブリッド的表象の創出(p.178)
・メキシコのタマーレスとグアテマラのタマーレス(p.179)
・民族構成の変遷(p.179)
【重要!】−−−−−−−−−−−−−
・15歳の未婚の母マグダレナ(Magdalena Aguirre)の事例(p.181):養育を拒絶する彼女と、グアテマラの女性の成長に関する筆者の人類学的解説(pp.182-)
・忍従と恐怖と恥に対する感情に関するJune Nash の説明(pp.183-)
・生業と社会構造が、子供の役割と責任道徳を構成する。したがって、マヤ女性(マグダレナ)のトラウマを理解するための、社会文化的背景を理解 することができる。
・ラテンアメリカで多く採用されているナポレオン法典の特徴(→ニッポニカ2003(小学館)「所有権の絶対性、契約自由の原則、過失責任主義 などの立場は、近代市民法の基本的原理として、その後に制定された各国の民法典の模範となった。」)。
・愛情表現の北米大陸とグアテマラの差異(p.187):このような一連の解説はマグダレナの行動を文化的に解釈するのみならず、彼女の立場を 擁護することにも採用されている。 ・1992年当時でも、米国からグアテマラへの帰還は効果的な戦略ではなかった。
・1990年代初頭の世界の難民は、1,700万人と推定(p.191)
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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099