看護人類学から人類学的看護へ!講義
Prolegomena to Anthropological Nursing
解説:池田光穂
天職と実践:看護人類学から人類学的看護へ(基礎資料集)05
看護人類学から人類学的看護へ(基礎資料集)06
天職(Beluf)の定義を思い出してみよう。天職とは、自分に定められた生涯の使命としての仕事や活動、あるいは運命的な職業と表明するものである。または、その職業的生涯を振り返った時に、結果的に良かったとその人にとって肯定できるものである。人類学的看護(anthropological nursing)とは、それに類似して、人類学という学問との出会いの後では、看護という現場での意識や行動が「天職に出会った時のように」その後の臨床実践の行動が根本的に変化することかも知れない。いや、私は敢えてそれを人類学的看護と呼んでみたい。
医療人類学は、人類学・社会学の民族誌学的方法、第二次大戦後に本格化する国際的な医療援助の現場での手法、そして臨床現場における人間行動の微細な観察などの手法を用いて、健康と病気について人類学から実践的に研究する分野である。これは身体にかかわる文化的事象を研究しようとする人類学の学問的嗜好と、よりよい生活の質をもとめる近代医療の社会実践が折衷的に融合したものとみてよい。アーサー・クラインマンがかなり昔に、この認識に基づき、人類学的な感覚と理想をもち、そこから既存の医療を組み替えてゆく実践を「人類学的医療」と呼んだ。看護人類学にもこのような学問的志向性を持たせるならば、看護学と人類学の遭遇と相互交渉が、お互いの他者意識を変えることを通して、やがて自らの主体も造り変えることだってあるはずだ。
私は、看護者の日常業務への気づきを通してこのようなテーマに取り組むことが、中長期的にその観察者としての視点や実践者としての具体的行動を組み替えてゆくのではないかと信じている。人類学的看護とは、文部科学省や厚生労働省が喧伝する、何らかの「変革の物語」を通して無理やりに職場に導入されるような大袈裟で窮屈なものでなく、日々の臨床経験を内省的にずらし――例えばD・ショーンのやり方を通して――同じ職場の人達との実践的対話を通して着実に実現されてゆくものではないかと考える。
実践という観点から、さらに考えてみよう。現場で協働する人たちは、他者の発話や身体の動きを観察しながら、同時に自己の存在(=身体)を効果的に周囲に提示している(提示=演技すること) 。現場力を考察するためには、その行為者の自己への意識がどの程度働いているか、またどのような影響をもたらすかについて知ることは重要である。だが〈意識〉は身体を駆使した〈実践〉に先立つという近代の主知主義的な考え方に呪縛されてきた我々は、それについて十分な考察をおこなってこなかった。
反省的実践(reflective practice)とは、行為がおこなわれている最中にも行為者の〈意識〉はそれらの出来事をモニターするという反省的洞察をおこなっており、そのことが行為そのものの効果を支えているさまを示す言葉である。これはドナルド・ショーンの命名による。ショーンは、この洞察を〈行為の中の反省 reflection-in-action〉、その行為者を〈反省的実践家 reflective practitioner〉と呼んでいる。同名の著作『反省的実践家』(1983)は、この反省的実践の重要性を説きつつも、実際にはこの種の実践がいかに難しいものであるのかを説いている 。
→ ショーン、ドナルド『省察的実践とは何か:プロフェッショナルの行為と思考』柳沢昌一・三輪健二 監訳、鳳書房、2007年。
さて現場で自らの身体をつかう〈実践〉と、このことを把握し自己の行為ついて再帰的(self-reflective)に思考する〈意識〉の関係については、いくつかの可能な解釈が考えられる。まず(1)実践状況のなかで〈意識〉は忘却され無反省的なまま放置されているという主張。あるいは(2)身体がおこなう〈実践〉と〈意識〉は融合した状態となって行為遂行のために最適化された状態になっているという主張。さらには(3)身体による〈実践〉状況におかれた〈意識〉のあり方は個々の状況によって多様な関係にあり一般化できないという主張が考えられる。ショーンの反省的実践の見方は明らかに(2)の考え方の系譜に属するものである。
ショーンの前掲書を子細に読めば〈実践〉と〈意識〉の関係は容易に解き明かせるものではないし、また言語化しにくい暗黙知や身体知の説明をもって片付くものとも考えていない。にもかかわらずショーンの過剰とも言える理論的説明が、彼が批判してやまない〈技術的合理性〉の延長上に彼がいまだ留まっていることを示している。看護学業界に人気のあるドナルド・ショーンであるが、その理論を有り難く押し頂くのではなく、看護の現場にチューニングして再構成する必要がある。でないと私が先に指摘したように、これまで世に数多出てきた看護理論のひとつになり、やがて他の理論と同じように専門家からも忘れ去られてしまうようになる。それは、本講演で取り上げたのは「文化」の概念――を自分たちの実践の外側に、かつ無反省に道具として飼い馴らし、実践がもつ可能性と限界を見極めない学術的怠慢に繋がる。大切なのは、そのような怠慢から決別することである。
人類学的看護を実践するとは(本来は偶然の邂逅に過ぎなったものが)なぜ、あなたにとって必然的な天職のように立ち現れるようになったのか、実践を通して、それを言葉に表す試みかもしれない。この理論を学問的に説明するには、文化人類学や医療人類学の知識は不可欠かもしれないが、ショーンの反省的実践家に似て、実際にはすでに、遺伝看護の現場で実践されている方がいらっしゃるかもしれない。ただ私が知らないだけかも知れない。それは、奇遇なことにナイチンゲールが『看護の覚え書き』に中でなにげなく記しており、その後160年間も誰も気がつかなかった彼女の〈本質的な看護の定義〉を、現代に甦らせるプロジェクトのひとつの試みなのである。
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