看護人類学から人類学的看護へ!講義
Prolegomena to Anthropological Nursing
解説:池田光穂
天職としての看護:看護人類学から人類学的看護へ(基礎資料集)06-02
写真は1860年(40歳)頃のFlorence Nightingale
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ナイチンゲールの言う「看護」とは?
:看護人類学から人類学的看護へ(基礎資料集)06-02
最大の謎は彼女の『看護覚え書き』の、近代看護学における位置づけの問題である。この”Notes on Nursing”(1860)は奇妙なテキストである。なぜなら看護について書いてあるにも関わらず、「反医師・反病院・反病院看護の宣伝」(ヒュー・ス モールの表現)の内容があることである。そして、ナインゲールの圧倒的な名声ゆえに(先ほどの統計学で不満をもつ学生よろしく)初学者なら誰でも感じるこ の疑問に、その後の近代看護教育の教師たちは真剣に考えこなかった――つまりナイチンゲールを学んでも国試には合格しない/あるいはナイチンゲールは国試 に合格しない。ナイチンゲールはその守護聖人性ゆえに、近代看護に都合の悪い矛盾するようなことをつねに不問にしてきたということもある。もっとも現代の 看護学者たちは、四大福音書の制定者である古代キリスト教の教父エイレナイオス(ca. 130-202)を真似て、文書を取捨選択、編集するには、あまりにも最近すぎて、そのような明々白々な犯罪的行為には手を染めるわけにはいかなかった。
ナイチンゲールの言葉に戻ろう。彼女は言う「病院の仕事にわが生涯を捧げながら、病院は貧しい病人にとって最良の場所ではないという結論に、 私は達しました」。そして「あらゆる看護の究極の目的は患者をそれぞれ自分の家でみることです。……私は病院や救貧院の診療所などはすべて廃止されること を期待しています。でも西暦2000年のことを話してもどうしようもありません」。
これらは、ともに1860年の『看護覚え書き』に書かれているわけだから、それから140年後には、病院や診療所が〈理想的には〉なくなるべ きだと考えていたわけである。驚くべきことにそれからようやく約100年後の1965年になって反精神医学運動の創始者とも言えるロナルド・D・レイン (Ronald David Laing, 1927-1989)とデイビッド・クーパー(David Cooper, 1931-1986)が、同じ英国のロンドンに理想的な治療関係を実現するための宿泊施設「キングスレイ・ホール」開設することになる。あまりにも早熟な 反病院思想をナイチンゲールは具現化していたことに、今さらながら驚愕せざるを得ない。
謎は彼女の人生にもある。真意は不確かだか、名声嫌いの彼女は、クリミア戦争から、ひっそりと偽名により帰国し、その後の1857年(彼女が 37歳当時)突然の病いに倒れ、その後10年間は病床に伏すようになる。先の写真は40歳の彼女なので、この病いに罹患してから数年以内のものであろう。 ただしこれは精神が病むというよりも、人間嫌い、あるいは厭世家(misanthrope)の傾向を正当化する「理由」だったかも知れない。いずれにせよ ナイチンゲールは公的な場所に現れなかったが、思索ノートや手紙は膨大な数におよび、たんなる「病い」の次元に押し止めることはできない(「元祖ヒッキー としてのフローレンス」)。
→Goffman, Erving . 1959. The Presentation of Self in Everyday Life. Norwell, MA: Anchor.
また、クリミア戦争前は熱心であった、看護婦の職業化や病院看護を、戦後の帰国後は否定するようになる。男性医師たちの出世第一主義にも失望し ながらも。しかし他方で、女性が医師になることも否定している(=反専門職の主張)。
これらの謎解きに挑戦したのが歴史家ヒュー・スモール(Hugh Small)の『ナイチンゲール・神話と真実』 である。ナイチンゲールの功績は、それまで、ならず者や売春婦の商売か修道女の業務とみなされてきた看護婦業を、専門の職業として確立し、その活躍の場を 病院とした。クリミア戦争従軍以前では、そのような主張を積極に推し進めていたのに、帰国後はそのプロジェクトに極めて消極的で、観方を変えれば実質的に 放棄している。彼女は、1855年衛生委員会の派遣によりクリミア戦争従軍により傷病兵の死亡率を激減させた。しかしながら、なぜ激減したのか、帰国後 ウィリアム・ファー(William Farr, 1807-1883)の知己を得るまでは、その理由も分からなかったらしい。
→ ヒュー・スモール(Hugh Small)『ナイチンゲール・神話と真実』田中京子訳、みすず書房、2003年; Florence Nightingale: Avenging angel, New York: St, Martin's Press, 1999. 原著サブタイトルには「復讐する天使」という物騒な文言があるが、そのような意趣は邦訳では汲まれなかった。日本ではまだまだナイチンゲール無謬論――偉 大な人は絶対に誤らないという考えで固められた頑迷な主張――が優勢だから訳者か書肆が配慮したのかもしれない。また、この邦訳の冒頭には「看護界の超大 物」による解説があるが、著者スモールの趣旨をネグレクトしているのか、無理解なのかは解らないが、これほどミスリードしている解説もなかなか近年みるこ とができない。たぶん、このことの「文化的齟齬」についても将来有能な研究家が登場し、日本のナイチンゲール受容の文化的特異性について考える際に貴重な 資料になるだろう。
スモールの謎解きはこうである。ナイチンゲールの本当の闘いは1856年8月6日の帰国後から始まる。病院改革と戦争中における傷病兵の扱い についての真の実態の把握を帰国後はじめて知り、真実の公開のために彼女はあらゆる手段、つまり政治家のコネを使うことも辞さずに、その計画を行動に移し た。1857年春に衛生統計学者W・ファーの協力で極秘報告書を完成した。しかし、〈都合の悪い事実〉があった。統計資料から、彼女の帰国後の1858年 から60年の2年間にわたる分析と検討から、クリミア戦争では兵士の傷病を治すはずの「病院が感染の温床」そのものであったからである。そして軍、内閣、 王室、医学者たちはナイチンゲールの国民的名声を利用せんがために、この事実(=病院は感染の温床)の公開について消極的であった。
1857年8月20日彼女は肉体的精神的虚脱状態に陥るが、それは彼女の闘いの敗北の結果である。つまりバーンナウトあるいは心身症に陥ったと いうわけである。しかし、この彼女の引きこもりは、真実を隠蔽した男性・国家・医学への「復讐」に他ならない。バーンアウトと引きこもりに苛まれながら も、ナイチンゲールは引き続き、衛生と看護改革に専念するが、それは私たちが理解する生物医学にもとづく看護の科学化や近代化では決してなかった。それが 『覚え書き』の謎解きに繋がるというのである。
彼女がクリミアに派遣される頃、英国で実際に働いている看護婦の3分の2が実は、個人の家庭で働き、またその半数が19歳かそれ以下だった。 当時の看護とは、非専門職の女性の未熟練労働の現場そのものだった。それが、まず彼女の『覚え書き』が上から目線で書かれている理由である。
病院が(先の指摘により)感染の温床であれば、何をすべきであるかは、当時の病院とは反対の環境において、自ら本復する能力をもつ患者を快適さ せることが重要であることをすでにナイチンゲールは判っていた。古代ギリシャに遡れる自然治癒力への信頼と、環境との関連について統計学的根拠があったこ とを、ナイチンゲール自身のクリミアでの「認識の失敗」から逆に学んだというのが、スモールの主張である。これは、些か出来過ぎたストーリーではあるが、 フェミニズム歴史学の観点からみれば、このことは十分に検討する価値がありそうだ。
とりわけ女性の社会進出――その領域での後進国である日本の官製用語だと「男女共同参画」――の黎明期のスーパースターであればその吟味の必要 性はなおさらである。この歴史学によると、これまでの歴史記述の主体は男性(あるいは男性的メンタリティ)によるものだったので、異性である女性を見るま なざしが反映されることが明らかだからである。したがって女性の生き様をより〈公平〉にみるためには、男性によって書かれた歴史を読み直し、当時の歴史的 ジェンダー観や、現在にも貫かれている男性中心の〈歴史的バイアス〉を修正してやる必要がある。
スモールの解釈は、ナイチンゲールが引きこもりになったのも、クリミア戦争への従軍前後での専門職看護の位置づけの主張の変化にもきちんとした 理由があり、またあの近代の科学的病院医療の看護学からみると大変居心地の悪い『看護覚え書き』にも、そう書かれる理由があったのである。すくなくとも、 古色蒼然とした、男性のセクシズムに塗れたジェンダーバイアスだらけの、ナイチンゲールいや近代の看護婦像を見直し、彼女の理念と行動を合致させる力強い 「女性の生き方の物語」として甦らせることに成功したことは確かである。
→宮田茂子『「大関和」を通して見た日本の近代看護―真説国家的セクハラを受けた職業集団』星湖舎、2010年[http: //amzn.to/IpT9IF]
→→Goffman, Erving . 1959. The Presentation of Self in Everyday Life. Norwell, MA: Anchor.
では、ナイチンゲール像のこのような修正主義(リビジョニズム)が私たちにもたらす教訓とはなんだろうか。イングランドのハンプシャーにある 彼女の墓碑銘はF.N.と生没年月日のみである。墓碑銘に固有名詞はいらぬ、私の大切にしてきたものを大切に、という遺言だという。どこかの国の名誉と栄 達を生きている間にほしいままにするどこかの業界の大物とは真逆の、まさに見上げた根性であるとは言えないか。彼女は自分が神話の主人公になることを明確 に拒絶している。その意志を継ぐためには、ナイチンゲールを「近代看護の始祖」という呪縛から解放してあげることが必要である。重要なことは、彼女の人生 すなわち「詩と真実」(ゲーテ)とは何だったのかに、ついて各人が考えることに尽きる。患い・憂いに苛まれながらも、人生に与えられた試練を、時に真正面 から時に狡猾に克服しようとしたナイチンゲールの生き方を知ることで、患者ならびに看護者のこれからの生き方の元気づけの糧とすること。つまり、ナイチン ゲールの生き方とは、自分の理想に挫折した人が、挫折の記憶を糧にして、ふたたび人生の意味を取り戻すプロセスに他ならない。
それが『看護覚え書き』が近代看護のそれと異なっていようとかまわない。なぜなら、それは近代医療や近代看護は孕む「誤った方向性」への警鐘そ のものだったからだ。この近代看護という大きな潮流に棹さすことは、近代以降の、すなわちポストモダンの看護の可能性を切り開く可能性をもっている。私の この論文の本文中の用語に照らし合わせれば、それが「人類学的看護」に他ならない。ナイチンゲールは『覚え書き』の中で看護という言葉を使う理由を次のよ うにあっさりと表現する。
“I use the word nursing for want of a better.”:「他によいものがなかったのでそのコトバを看護と言う」。
普通はこの後にくるあの有名な看護の定義「新鮮な空気、太陽の光…」が来るわけだが、その直前の文書は次のようになっている。
“If a patient is cold, if a patient is feverish, if a patient is faint, if he is sick after taking food, if he has a bed-sore, it is generally the fault not of the disease, but of the nursing.”:「もし患者が冷えており、もし患者に熱があり、もし患者が衰弱しており、もし彼[ママ]が食事を摂った後も具合が悪く、もし彼に褥瘡 があったら、それは病気によるためにではなく、看護のせいなのである」。
→註:小林と竹内の翻訳によると「…たいていは病気のせいではなく、看護に問題があるのです」(p.2)となっている。ナイチンゲール、フロー レンス『看護覚え書』小林章夫・竹内喜訳、うぶすな書院、2006年。
看護は患者に必要だと思われる人為的介入であり、その使い方次第では「患者によくない看護」というものが存在する。この部分に関する私のナイ チンゲール解釈はかなりへそ曲がりかもしれないが、あの有名な看護の定義「新鮮な空気、太陽の光…」は、この論文の冒頭で書いたドーナツのチョコ・スプ レーのチョコの装飾の部分であり、看護の本質的定義とは無関係であると思う。むしろその前の文章が指し示すように、病気の本質が作用するものではなく、 放っておいたら悪化するような(=つまりそれを回避すべく)「なされるべきもの(=患者に必要なこと)」を「彼」のために行うことが看護である、と彼女は 考えていたことは、英語の初歩的な文法さえ解ればすぐに気づくはずである。それが140年たった今ようやく発見できるとは、私たち眼は節穴だったのか?! 言うまでもなく、現在では女性もまた患者になりうる権利を獲得したわけだからナイチンゲールが書いた代名詞の「彼」とは両性の「患者」と理解しなければな らない。
そして文章の直示(deixis)――文脈から示される妥当な指示対称――から「なされるべきもの」を判断するのは、患者ではなく看護者であ る。しかしながら、我々の目の前にただしく提示されているこの看護の〈本質的〉定義が、驚くべきことに(ナイチンゲールの看護の定義の解説を含めて)後の さまざまな看護の定義として反映されていないのである。そして現在までその理念は反映されていないのである(私が知りえたのは、聖路加看護大学のもの、 ヴァージニア・ヘンダーソンのもの、そしてアメリカ看護師協会の3種類であるが、上記のような〈看護者の実践行為〉が定義づけの中に内包されているものは なかった)。
したがって、ナイチンゲールの意図を素直に汲んで看護の本質的定義(=ドーナツの本体のことである)をすると次のようになるだろう:看護と は、病人のために必要で、かつそうなされるべきことを、看護者本人が判断して、実行することにほかならない。
■ 天職としての看護
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