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初期ハイデガーの「ケア(配慮)」の概念

——アリストテレスの現象学的解釈——

池田光穂

「「生」という語とその用法とが暖昧多義で混乱をき たしているからといって、簡単にこの語を使うのをやめてしまえばよいということにはならない。この語にはとにかくさまざまな意味方向が備わっているのであ り、それらを追跡してこそそういった各種の用法によって意味される対象性へと突き進みえようはずが、やめてしまえばその可能性も放棄してしまうことにな る」(p.18)。

「この術語(=「生」引用者)の多義性は、それが指 している対象そのものに根差しているのであろう。語意が曖昧であるのは、哲学にとっては、その暖昧さを取り除く機縁であるか、あるいはかりにその曖昧さが 対象そのものに根差す必然的なものであるなら、その曖昧さを明確に体得された、見通しのきいた曖昧さへと転換する機縁よりほかのものではありえない。多義 性(【ギリシャ語】〔さまざまに語られること〕)に服するとは、単に個々の孤立した語意をつつきまわすことではなく、その語が意味する対象性そのものを納 得のいくものにし、さまざまの異なった語意が出てくる動機の源泉を見きわめようとする徹底的な態度の表現にほかならない」(p.19)。

「事実的な生の動性の根本意味は気遣うこと (sorgen, curare)である。一定の仕方で方向づけられ気遣いながら「何かを期しつつある存在」、この中には、その生の気遣いの期するところ、すなわちその都度 の世界が現に在る。気遣うという動性には、事実的な生が自分の世界と関わり合うという性格が備わっている。気遣いの期するところとは、この関わり合いの相 方(Wormit des Umgangs)である。世界の現実存在、現存在の意味は、世界が、気遣いながら関わり合うことの相方であるという性格に基づいており、またその性格に よって規定されている。世界はすでにつねに何らかの仕方で気遣いの中に取り込まれ(据えられ)ているものとしてそこに現に在る。世界は、気遣いがどちらの 方向に向かうかに応じて、まわりの世界、共同世界、自己世界と分節してゆく。それに対応して、気遣いのほうも、やりくりのうえでの気遣い、職業上、娯楽上 の気遣いや、邪魔されたくない、死ぬまい、何々についてよく通じたい、何々に関して知りたいといった気遣いでもあり、また安心立命を得たいという気遣いな どでもある」(p.20)

「配慮的に気遣う(Besorgen)という動性 は、それがどう遂行されるか、関わり合う相方として何に関わってゆくのかという点で実に多様であり、何々に取りかかるとか、何々を用意する何々を製作す る、何々を通じて確かめる、何々を利用する、何々に転用する、何々を取得する、保存する、失ってしまう、といった具合にさまざまな様態を示す。その際これ ら様態のそにおいて用務を果たすうえでの関わり合いの相方は、その都度、一定の仕方で知られ親しまれいる。気遣いながら関わり合うことは、その相方をつね にある一定の仕方で見ている。この関わり合いの中で活躍し、これを時熟させるひとつの要因としてこの関わり合いを牽引しているのが、目配り (Umsicht)である。気遣うとは自分のまわりに目を配ることであり、目配りするものであるかぎりにおいて同時にこの目配りを養おう、関わり合う対象 との親しさを維持保全し増大させようと気を遣っている」(Pp.20-22)。

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Untitled, watercolor by Roland Barthes, 1915-1980