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なぜ、医療が〈翻訳〉なのか? あるいは〈翻訳〉でなければならないのか?

池田光穂

22■なぜ、医療が〈翻訳〉なのか? あるいは 〈翻訳〉でなければならないのか?

なぜ、医療が〈翻訳〉なのか? あるいは〈翻訳〉で なければならないのか? または〈翻訳〉かもしれないのか? さらには〈翻訳〉として医療を捉えるこ とに、どのような意味を私たちは生み出すべきなのか? そして私たちの声に耳を傾ける聴衆、参加者の皆さんにどのような演出的効果に基づき、この種の心証 を与えるべきなのか?

無責任なことながら、今となっては、なぜ医療が〈翻 訳〉なのか、という香具師の口上と思えるような、スローガンに自分じしんで興奮して、学会発表の予稿 集の原稿を書いたのか、全く不明である。だから、無責任ついでに、医療が〈翻訳〉であることは、私の錯認であり、妄想でした、ゴメンナサイ、他意はござい ません、と釈明すべきなのか? ただし発話者じしんによる〈釈明〉というのは、彼/彼女の〈真意の表明〉あるいは、〈真意の翻訳〉であるかぎり、それは完 全に無責任とは言い難く、ある種の倫理的行為でもある。

我々が、翻訳という社会的事象や翻訳行為という社会 的実践にまつわる発話をおこなう時に、しばしば出会う形容詞あるいは形容詞句として「原文に忠実な (fidelity)」あるいは、そうでない(=忠実ではない)という表現がある。では、なぜ翻訳は忠実でなければならないのか、あるいは、場合によって は「原文に忠実である」以上の要素を、翻訳家は時に「大胆に」しかけるものなのだろうか。そこでは、翻訳という倫理的実践がもたらす価値と、翻訳を読む人 たちに齎すなんらかの価値の間での優先事項をめぐって、葛藤あるいはバトルが行われていることを示唆する。このことは、翻訳家が生み出す翻訳をめぐる翻訳 語の選択や、その言葉が読者に対して齎す効果をめぐる、ぎりぎりの緊張感が張りつめる議論にのみ有効なことなのだろうか。いやいや、現実には、いっけん素 朴に思えるような教室内の英文解釈の授業においても、先生は生徒に、文法通りの翻訳を心がけることを促しながら、実際にはその訳文を聴きながら、文脈にお ける訳語の選択や著者の「言いたいことは何?」という、メタ解釈的な尋問をおこなっているではないか。そこでは、文章に忠実であるだけでなく、時にはその 忠実性を犠牲にしても、著者(あるいはその主張)を適格に理解することが優先されることすらあると、先生は生徒に諭す。翻訳者には複数の実践に即した複数 の〈戦略〉があり、先生は生徒に対してこれを調和的におこなうように促す。原文に忠実(=倫理的)であることよりも、真意を理解し、そして伝達するという 読者に倫理的(=忠実)であろうとすることは、いったい何を意味するのか。これらの一連の言語活動は、ただ単純にそして均質的に倫理的であることではな く、翻訳は複数の行為からなり、それぞれの行為への忠実さには、なんらかの倫理の異所配分、発話行為の中での要素間においてなんらかの倫理の不均等配分を 行うことを意味しているのではないだろか。



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