映画『別離』を通して認知症の人について考える
Nader and Simin, A Separation
解説:池田光穂
作品情報:『別離』(Nader and Simin, A Separation) は、2011年のイラン映画。 監督・脚本・制作: アスガル・ファルハーディー(1972 - )
【登場人物】
【あらすじ】
1.夫・ナデルと妻・シミンは結婚14年来の夫婦で、11歳
の娘テルメーとテヘランで暮らしている。家族は中産階級の上流に属し、夫婦は離婚の淵に立た
されている。シミンは夫と娘とともに国を出たいのだが、ナデルはアルツハイマー型認知症(痴呆症)を患う父のことを心配し、国に留まりたいと考えている。
そこでシミンは家庭裁判所に離婚許可を申請するが、認められなかったため、彼女はいったん夫の許を離れ実家に帰る。 2.ナデルは父の世話のためにラジエーという敬虔で貧しい子連れの女性を雇う。ラジエーは短気な夫ホッジャトに無断でこの仕事を得ていた。しかもホッ ジャトが無職のため家族の生活はこの仕事に依存していた。ある日、ラジエーはナデルの父をベッドに縛りつけ、閉じ込めて出かける。ベッドから落ちた彼は、 帰宅したナデルとテルメーに意識不明で発見される。激昂したナデルは、帰ってきたラジエーを怒鳴りつけてアパートの玄関から無理に押し出し、ラジエーは階 段に倒れ込む。その夜、ラジエーは妊娠していた胎児を流産してしまう。 3.ラジエーとホッジャトはナデルが胎児を死に至らせたとして告訴し、ナデルの裁判が始まる。争点はナデルがラジエーの妊娠を知っていたかどうかに絞ら れる。ナデルは妊娠しているとは知らなかったとする一方で、自分がラジエーを押し出しても、位置や力の加減からして階段に倒れ込むことはなく、流産の直接 の原因にはなりえないと主張し、逆に、父をベッドに縛り付けて放置した罪でラジエーを告訴する。ナデルは、シミンの実家の助けを借りて保釈金にて収監を免 れる。ホッジャトとナデルの感情的な対立が深まり、ホッジャトはナデルの娘テルメーの学校にまで押し掛け、ナデルやテルメーを貶める発言をするなど、行動 がエスカレートして行く。 4.一方、テルメーはナデルがラジエーの妊娠を知らなかったとする証言に疑問を抱いていた。そして、ラジエーがナデルの父をベッドに縛り付けて出かけた 先が病院であると知ったナデルが、その病院を教えたのがテルメーの学校の教師で家庭教師でもあるギャーライ先生であることを知っていたことから、テルメー はナデルの嘘を確信する。ナデルに真実を迫るテルメーの姿に、ナデルは自分の嘘を認める。しかし、後日、判事に証言を求められたテルメーは父親をかばうた めに嘘の証言をしてしまう。 5.取り巻く異常な状況の中で精神的に追いつめられたテルメーを見かねた母シミンは、テルメーを守るためにホッジャトとラジエーに慰謝料を払うことによ り示談でおさめようとするが、ナデルは自分の罪を認めることになるとして拒否する。こうしてナデルとシミンの間の溝は一層深まって行く。 6.示談の話が進む中、ラジエーはシミンに、事件の前日にナデルの父が町中に出てしまい、彼をかばうために車にはねられ、その夜から腹痛がしていたとの 事実を告白する。夫ホッジャトにそれを話せば殺される、しかし真実を隠して慰謝料をもらうことは罪であり、それは幼い1人娘ソマイェに災いをもたらすとラ ジエーは怯える。 7.シミンとナデル、そしてテルメーの3人はホッジャトとラジエーの家に行き、そこで慰謝料の支払いを含めた示談の手続きをする。ナデルは最後に、ナデ ルのせいで流産したことをコーランに誓うようにラジエーに求めるが、ラジエーは怯えて逃げ出す。それを追って来たホッジャトにラジエーはようやく真実を語 る。ホッジャトは激しいショックを受け、自分の愚かさを激しく責める。 8.(シーンが代わり)ナデルとシミンの離婚手続きが行なわれる。両親のどちらについて行くか判事に問われたテルメーは両親の前では話せないとして、ナ デルとシミンは部屋を出て行き、廊下で待ち続ける。 ※ 出典(ウィキペディア日本語『別離』文章は一部変えてあります):http://p.tl/B32 |
【着眼点】
・男性の身体/女性の身体、親族の身体/非親族の身体の明確な区分と境界の比較的厳格な管理
・災因に関する信念(ヴァルネラブル=脆弱なソマイェ)
・コーランに誓って嘘をつけない強い信念
・離婚に伴う未成年の子供の帰属
・離婚訴訟手続き
・保釈金とはなにか
・子供の成長を気づかう親の配慮や気持ち
・社会階層差(中流のナデルとシミンの一家と、下層労働者階級のホッジャトとラジエーの階級落差や、所属する階級の人々)
・物語の〈時間構造〉――映画には結末というものがないが欲求不満にはならない
他に気づいたことを書いてみよう!
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【コメント】
この映画は、英語タイトル"Nader and Simin, A Separation"(「ナデルとシミン、離別」)
のように、夫婦の離婚をメイン・テーマにする。しかし、認知症の父親を必死に介護する息子ナデルと、父親の介護をめぐって巻き込まれた事件(ラジエーの流
産に関わるナデル関与疑惑に関する事件や、ナデルの父親への虐待疑惑という対抗訴訟、両者の示談)が全く無関係ではないことが、的確に表されています。ナ
デルの父親は、物言わぬ存在ですが、彼の身体は彼をとりまく様々な人たちに、さまざまな影響力を与えており、この映画の立派な登場人物の1人にほかなりま
せん。
皆さんと認知症コミュニケーションの授業の際にこれまで議論した際にも、認知症の家族・親族・遠い親類について、皆さんが語る際には、それは一般化・普
遍化されて「個性の失った認知症一般の人」ではなく、さまざまな社会の網目のなかで、それぞれに存在感を主張する「千の顔をもつ具体的な認知症の人」に他
なりません。
【課題のようなもの/議論のためのヒント】
もし、日本で「千の顔をもつ具体的な認知症の人」が社会のなかで大きなプレゼンスをもたずに「個性の失った認知症一般の人」になりつつあるとすれば、そ
の原因はいったい何でしょうか? 映画を手がかりにしてもよろしいですし、映画とは関連性をそれほど持たなくてもかまいませんので、日本で「千の顔をもつ
具体的な認知症の人」が社会のなかで大きなプレゼンスを持つように「回復」するためには、どのような方策が、今の私たちに求められているでしょうか?
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クレジット
認知症コミュニケーションA(第5回2013.06.20)
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