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日本における教養教育の2つの源流; ビルトゥングとリベラルアーツの共通点と相違点

Between Japanse classical libral culture, Bildung, and modern universtiy libral arts education

Hugh of Saint Victor, 1096-1141

池田光穂

ここでは「日本における教養教育の2つの源流」であ る「ビル トゥング」と「リベラルアーツ」の共通点と相違点を明らかにする。だが、そのまえに、この2つの「リベラルアーツ」について、個々に説明しておいておかね ばならない。

【ビル トゥング】

ビル トゥング(Bildung)はドイツ語の「形成すること」で教育す ることの意味だと言われる。ドイツ語の教養には自分で身に付けること(self-cultivation)という強いイメージがある。教養を身に付けるこ とは、人間的成長なので、このことを題材にした成長小説(「形成過程が描かれた小説」)をビルドゥングスロマン(Bildungsroman)「教養小説」という。この人間的成長は、個人が 社会との軋轢や人間関係などを克服して成熟してゆくことが理想とされており、それは心の安定や調和を意味する。

ヘーゲル(1770-1831)は、精神の自己運動 そのものを「教養=ビルドゥング」と呼んでいる(『精神現象学』VI.精神,B.疎外された精神—教養)。教養は労働となるが、それを可能にするのは自己 を疎外する社会状況である。疎外を通して自己の認識は、懐疑から絶望へと一方では繋がるが、自己の形成=ビルドゥングを通して、自己実現を探究することを 可能にして、さらなる成長を遂げる。自己疎外と自己成長は、人間精神が真理をもとめて、やがて自分自身を乗り越え、自分自身になることを示す。これが絶対 精神(Absoluter Geist)に到る道である[才野原 2003:452]。

教 養とは精神が、実体的な生活の直接性から脱し、形成されてゆくことである。それが何にはじまるといえば、一般的な原理や観点についての知識を獲得し、ま ず、ことがらの一般の思想という場面へ引き上げことである。そして、それらのものを支持するにも、単体するするにも理由をあげ、具体的で豊かな内容の充実 に対し、それを明確に規定してとらえ、それにかんする整った報告とまじめな判断とを与えるようにならなければならない」(ヘーゲル 1967:92)。

日本では、戦前の旧制高校から1970年頃まで続い た大学文化のなかに「教養主義」というものがあり、その教養はまさにこのヘーゲル的なビルドゥングないしは、その日本の近代文化の影響をうけた特色あるサ ブカルチャーがあった[竹内 2003]。竹内によると、教養主義は、読書を通して知識を得て、人格を陶冶し、社会を変革(ないしは改善)することである。マルクス主義や「世界」「中 央公論」などの「雑誌」を通して、教養を身に付けることが、自分の幸せと共に、社会の安寧と幸福を願うという道徳的意識が渾然となった——ただし多くのロ マン主義に似て具体的な社会変革の設計図を描くことが少ない。

【日本の大学教育におけるリベラルアーツ】

日本の教養主義に生きた人たちは、カントやヘーゲル などの啓蒙主義哲学を知識習得のみならず、生き方のモデルとして採用した。したがって、教養としてのビルドゥングという理解はおおむね1970年代までの 大学カルチャーの中では標準的な考え方となった。

以下は「「古典的なリベラルアーツ教育」と「現代大学教育におけるリベラルアーツ」の共通点と相違点」 ページからの再掲です。

日本では、1948-49年の新制大学の設置以 降、そのような既成の学問の中心で「教養」教育を運営してきた。そこでは、「一般教 育科目、外国語科目、保健体育科目、及び専門科目」という大学科目の区分があり、そのなかで、「一般教育科目(人文・社会・自然)、外国語 科目、保健体育科目」が、ここで言う「教養」科目に相当していた。一般教育科目には、人 文・社会・自然という三分類がなされていたこと、外国語と保健体育も、教養科目を構成するものになっていたことが重要である。しかし、1991年におこな われた文部省・大学審議会(1987--2000)による「大学設置基準の大綱化(Deregulation of University Act)」が謳われて、旧い大学設置基準で「一般教育科目、外国語科目、保健体育科目、及び専門科目」と第19条で分けられていた科目群の規定を廃止し て、新しい基準ではその同じ第19条が「大学は、当該大学、学部及び学科又は課程等の教育上の目的を達成するために必要な授業科目を開設し、体系的に教育 課程を編成するものとする……教育課程の編成に当たっては、大学は、学部等の専攻に係る専門の学芸を教授するとともに、幅広く深い教養及び総合的な判断力 を培い、豊かな人間性を涵養するように適切に配慮されなければならない」とされた。この変更の含意は、「学部等の専攻に係る専門の学芸を教授するととも に、幅広く深い教養及び総合的な判断力を培い、豊かな人間性を涵養する」ためには、各大学は、自由に「教養科目」を自由裁量で構成してもよいということに なった。

しかしながら、教養主義は、建て前としての主義主張 は多くの学生や教員たちに共有されたが、戦後一貫してそれは衰退傾向にあった(竹内 2003)。また、形骸化してもなお、大学設置基準の大綱化までは、 大学の教育提供の「形式」としては、それ以前の教養主義を継承してきたので、教養主義のエートスは、それらの中に未だ痕跡を留めていた。それはとりもなお さず、1990年代初頭での大学教員は、そのような教養主義の影響のもとで大学生活を送ってきたからである。

【共通点と相違点】

共通点:

相違点:

ビル トゥング(教養) 日本のリベラル アーツ
  • カントやヘーゲルなどの啓蒙主義哲学
  • 教育を受けることは「教養」の過程の一部にすぎない
  • 知識習得というよりも、自己がどのような疎外状況を克服するかということに価値を置く
  • 外国語を学ぶことが「教養」とは単純には見なされていない
  • スポーツに親しむ生活は、教養主義のレパートリーの中の一つ(=全体的人間)
  • 古典的な受動的学習が中心
  • 形式主義を嫌う——陶冶は個人が個々の疎外や葛藤から成長すること
  • 哲学信仰からの後退
  • 人文・社会・自然の下位の3分野からなる一般教育科目
  • 人間を「自由」にするために、科目編制はフレキシブルでよい
  • 外国語科目がある
  • 保健体育科目がある
  • 現在では、それらの科目の横断する学際科目を設置してよい
  • 受動的に加えて能動的学習が推奨される
  • 形式主義化して、専門課程への通過点にすぎなくなる


Hugo de San Víctor, 1096-1141


文献

教養教育のデザインは可能か?

その他の情報

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831
For all undergraduate students!!!, you do not paste but [re]think my message. Remind Wittgenstein's phrase, "I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein