丸山 博
Maruyama HIROSHI, 1909-1996
丸山 博 (まるやま ひろし)
-------------1900s----------------
1909・明治42
・12月13日広島市に生まれる(第1回誕生日数え年1歳〕
-------------1910s----------------
1916・大正 5
・広島市国泰寺小学校入学
-------------1920s----------------
1921・大正10
・宮城県柴田郡船岡村船岡尋常小学校卒業
1922・大正11
・船岡尋常高等小学校卒業
1927・昭和2
・仙台第一中学校卒業
-------------1930s----------------
1930・昭和5
・静岡高等学校理科乙類卒業上智大学哲学科(在学1年)
1931・昭和6
・大阪医科大学入学(5月から大阪帝国大学医学部となる)
1932・昭和7
・「阪大仏教青年会」発足(講師・平井巽大学2年)石原修、梶原三郎の影響で衛生学を専攻
・暉峻義等(てるおか・ぎとう 1889-1966)、小倉金之助、高野岩三郎、森戸辰男らにより社会科学的な目を開かれる
1934・昭和9
・漢方医渡辺漁(松園)(1865-1934)没により漢方医学研究を断念
1935・昭和10
・『佛教哲学体系』刊(平井巽述大学5年)
・大阪帝国大学医学部卒業医学部助手
・社会医学的実践と研究の場として「アルファー会」発足
1936・昭和11
・土屋光代と結婚(塚口在住)
1937-1938
・岸和田市の乳児死亡実態調査(岸和田市に転居)
-------------1940s----------------
1940-1946
・大阪府行政官を兼務(学務部社会課警察部労政課内政部衛生課内政部健民課)大阪市に転居)
1942・昭和17
・大阪大学医学部講師、日本民族衛生学会、人口問題全国協議会、日本統計学会に研究報告
・「乳児死亡について…特に壮丁人口との関係における国民福祉の測定値として」など(1943・奈良県生駒郡に疎開)
1944・昭和19
・衛生伍長(大阪市東区京橋前之町陸軍病院大手前分院兵舎)
1945・昭和20
・医学博士 (学位論文、乳児死亡率が社会衛生の指標となることを実証した、アルファー・インデックスの提唱)
1947・昭和22
・厚生技官(大阪労働基準局衛生課長労働基準監督官)
・保健婦の養成、教育に従事。労働者の健康調査をもとに労働、生活条件改善のために労働組合結成を援助
-------------1950s----------------
1950・昭和25
・『公衆衛生』(三省堂社会科文庫)刊
・厚生技官(厚生省大臣官房統計調査部計析課)(東京に転居)
1956・昭和31
・「健康相談』(岩波新書)刊
・保健婦の養成、教育に従事。保健婦サークル土曜会」発足
・日本統計学会 日本人口学会 生物統計学会に研究報告「死産統計で当面している問題について」「縦書きと横書きの心理的統計的法則性について」など
1958・昭和33
・大阪大学医学部教授 (衛生学) (大阪に転居)
-------------1960s----------------
1960・昭和35
・「社会医学研究会」発足(第1回研究会創立総会)
・「医学史研究会」発足(第1回総会)、『医学史通信』発刊(この雑誌は杉並組合病院内の医学史研究会関東地方局=たぶん川上武、から1985年当時まで
刊行された)
※文献:丸山博「まえがき」『日本科学技術史体系・医学1』日本科学史学会編、第一法規、1965年
1961・昭和36
・『医学史研究(Studium historiae medicae)』の創刊、4月
・近、現代の医学、医療、医学教育の歴史的検討の必要性を提示
・人口動態研究に過去帖、宗門改め帖を活用し、国民の健康度の測定を事例、統計、歴史的に把握することを提示(松田武先生?)
1962・昭和37
・講義に森永ヒ素ミルク中毒事件を取り上げる
1963・昭和38
・緒方洪庵没百年記念映画「洪庵と1000人の若者たち」作成
・第31回日本統計学会総会報告「森林太郎(鴎外)と小島勝治一統計学史上の二人の業績」
1966・昭和41
・桜沢如一(G・0・)(1893、1966)没
・9/7〜10/6 日本学術(自然科学)代表団 中華人民共和国訪問
・第1回日本民族医学会(大阪)、第1回地方自治研究者集会(大阪)
1967・昭和42
・「大阪から公害をなくす会」発足
1968・昭和43
・「搗精の自由を守る会」発足(「有害食品研究会」の前身)
1968・昭和43
・7/23〜8/24 マクロビオティック欧州視察旅行
・12/19〜1/11 インド伝承医学研究視察団(インド〕
1969・昭和44
・「アーユルヴェーダ研究会」発足(準備会・ゼミナール始める)
・日本の医学医療における東洋医学の復権、民間医療の採用に道を拓くため、肉体と精神・心・魂の関連究明のためインド伝承医学研究に着手
・「有害食品研究会」発足
・第13回経済統計研究会総会、第37回日本統計学会大会を大学紛争のため欠席
・第27回日本公衆衛生学会(岡山)にて「14年目の訪問」(森永ミルク中毒事後調査の会)を発表(1955年のミルク中毒の調査、救済、責任問題に道を
開いた)
-------------1970s----------------
1971・昭和46
・「日本有機農業研究会」発足(食品添加物・農薬問題に警鐘。生産者、消費者とともに食品公害解決に取り組む〕
・大地原誠玄完訳『スシュルタ本集』(アーユルヴェーダ研究会刊)
・日本翻訳者協会出版文化賞受賞
1973・昭和48
・大阪大学医学部教授定年退官
・退官記念講演/オムニバス衛生学七話;歴史1) 衛生学に首ったけになった話、2) 森鴎外に首ったけになった話;統計1) 「浪華の鏡」のこ
ろ、2) 生死活殺論医学;医学1) 死児をして叫ばしめよ、2) 命あっての物種一食品公害論、衛生学一アーユルヴェーダを語る
・『保健婦とともに』(増補"保健婦養護教諭とともに』医療図書出版刊)
・5/13〜5/22 ソ連保育事情視察(自治体問題研究所)
・5/13〜5/22 第2回インド医学視察団(インド)
1974・昭和49
・『食品公害とたたかう』(増補『食品公害論』・医療図書出版刊)
1975・昭和50
・4/24〜5/6 第1回アーユルヴェーダ国際ゼミナール(インド)
・10/9〜10/16 ベトナム視察団(新日本医師協会)
1976・昭和51
・奈良東大寺二月堂「十二支絵馬奉納満願文言」書(絵馬奉納講社世話方)
・第41回日本民族衛生学会報告「医学校卒業生名簿から作った死亡生残表について」
1978・昭和53
・6/10〜26 インド、カトマンズヘの旅
・『いのちの危機にいかに臨むか一母と教師の健康読本』(共著 有害食品研究会すこやかな子どもを育てる勉強会刊)
1979・昭和54
・7/21〜8/1 シベリアの旅(国際児童年企画)
-------------1980s----------------
1980・昭和55
・8/9〜19 世界記録会議で過去帖調査報告(アメリカ)
1984・昭和59
・大阪経済法科大学客員教授『いのちと食』(せせらぎ出版刊)、『森鴎外と衛生学』(勤草書房刊)
1986・昭和61
・梶原三郎(1895-1986)没
1989・平成元
・4/29〜5/10 インドのチベット寺ダラムサーラでダライ'ラマ14世と会見
・丸山博著作集 第1巻『死児をして叫ばしめよ』(農山漁村文化協会刊)
・丸山博著作集 第2巻『いま改めて衛生を問う』
-------------1990s----------------
1990・平成2
・丸山博著作集第3巻『食生活の基本を問う』
・『大学教育への直言』(共著 法律文化社刊)
・大阪経済法科大学退職
1991・平成3
・「日本伝統医学協会」発足
・カリフォルニア大学日本校大学院教授
1993・平成5
・『アーユルヴェーダヘの道』(東方出版刊)
1996・平成9
・10月10日死去、享年87歳(満86歳)
出典(丸山博の手帳より抜粋作成・山崎万里)——加筆修正(誤記等が散見された)
:http://www2.begin.or.jp/ytokoji/ayurveda/maruyama_nenpu.htm
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