日本で医療人類学を造ること:1980年代大阪での10年間の思い出
HIHANTEKI-IRYŌ, A Critical Medicine: My personal memories in 1980s of the Nakagawa Yonezo Schule, Osaka, Japan
医療の人間化の大道(the Royal road to humanization of medicine)——中川米造(1984:65)
極東に位置する我々は、医療人類学の極北にいることから、中心に向かってどのようなメッ セージを発するべきか?——これは僕だけの所感なのか?
1.歴史的エピソード
これから述べる私の話は寓意であり、歴史的資料にはならないでしょう。もちろん、嘘や 偽りはありませんが、私の記憶違いなどが多々あるでしょう。皆さんに、この寓意を語るのは、1980年代の日本において「医療人類学」というものがまだな い時に、当時の若者はどのように医療人類学を想像したのかというお話しです。
私は、不本意なことに、大阪大学大学院医学研究科(修士課程)に入学しました。本当 は、京都大学大学院に入って自然人類学の勉強がしたかったからです。だから、大学院に入って1年間のコースワークの後に、どの研究室に所属して研究論文を 仕上げるのかについて大いに悩みました。そして、日本でも有数の研究施設である、ある生物化学研究室に入って半年間、概日周期と脳内の代謝メカニズムにつ いての研究に従事しました。しかしながら、それまで地方大学の学部(undergraduate)のコースに属し、自然環境の中でニホンザルの食物生態学 の研究をした経験のある私にとっては、この実験室での動物実験に明け暮れる日は、苦痛以外のなにものでもありませんでした。おまけに研究室のボスは、快活 な先生とは言い難く、慣れない生化学を学ぶことにも疲れて半年でドロップアウトしてしまいました。
その時に、医学史や環境医学を講じられていた中川米造教授のところを訪問して「僕は医 学研究科で人類学のような勉強をしたいのです」と自分希望を述べました。彼は、海外には医療人類学という新興分野があるから、それを勉強したらどうか、と 助言してくれました。僕は先のラボラトリーで気付いた様々な人間関係にも快適さを覚えていましたが、結局、中川教授のところで研究をすることに決心しまし た。1973年から74年にマーガレット・ロック氏が京都でフィールドワークをおこなったことを基にして書かれた、伝統的日本医療である漢方への受療行動 に関する民族誌「現代都市における東アジア医療」が1980年出版されており、中川さんが、そのことを覚えていたからなのだろうと思います。
(マオイストのエピソードは英文要約参照)
2. HIHANTEKI-IRYŌ: A Critical Medicine
2.日本における批判的医療:私的回顧
我々の研究室では、医学史、医療思想史、医療社会学、医療経済学、医学哲学、そして医 療倫理——後に、生命倫理学となる——の著作を勉強していました。私たちは、中川さんの提案もあり、それらの学問を総合して、医療人文学(メディカル ヒューマニティーズ)と総称していました。そして、私が、その活動に加わり医療人類学の、それらの隊列に加わりました。ここに集った若者たちの特徴には共 通性がありました。年長の人たちは、かつての大学紛争経験者で、後に医師になった人たちです。1960年末から1970年代はじめには、医学部にも学生紛 争がおこりました。若者たちの体制(エスタブリッシュメント)への要求や拒絶にはさまざまなものがありましたが、医学部の学生の主張の中でもっとも大きな 流れはインターン闘争という、大学卒業して医師国家試験を通過しても、無給の徒弟見習いを大学病院でおこなうことに拒否した運動でした。私が大学院に入っ た1980年には、そのような紛争は一切なく、またそのサブカルチャーとしての小さな伝統も残っていませんでした。
そのような中で、中川教授のもとに、なぜ、時代遅れのラディカル志向の若者たちがあつ まったのでしょうか? ひとつには、戦前から続く社会医学のマルクス主義の伝統を除くと、医療人文学(medical humanities)に属する伝統がなかったからだと思われます。1980年代のポスト大学紛争時代を生きた医療人文学をめざす若者には、正統派のマル クス主義は、形式主義的(例:医療行為を労働過程としてみる)であり、教条主義的(例:医療専門職は社会変革の前衛であるべき)でした。マルクス主義的解 釈の代わりに、医療を社会のなかの要素としてみたり、ある社会的・歴史的な文脈のなかで独自な変化をするものを説明したり分析する、学問的枠組み(パラダ イム)が日本では枯渇していたのです。それらの可能性を試すために(明治維新の時の政府が海外の西洋の学問を幅広く輸入したのと似て)医療人文学の諸分野 (医学史、医療思想史、医療社会学、医療経済学、医学哲学、生命倫理学、そして医療人類学)を目指すということになったのでしょう。おまけに、1980年 (54歳)になるまで教授に昇任することのなかった中川は、医学部の生物医療が席巻する大阪大学の医学部では、明らかに少数派に属する教員で、またその全 国の医学部でも同じような状況だったのでしょう。
その時に出会ったのが「良妻賢母の抵抗」という(マーガレット・)ロック先生の論文で ある
【ロック先生そのような身体化の例として、身体化を連想させる医療用語のかたちをとった 流行語として「母原病」や「登校拒否症」を取り上げて、社会のなかで苦悩する現代日本人の身体化の問題を検討している。身体化という表現行為は、もはや精 神病理の類型である必要はなく、それを受けとめ解釈する個人・家族・社会との相互作用との関連で理解されなければならないというのである】
私は、その後、大阪大学の研究室を離れて、1984年から87年まで、中米ホンジュラ スの保健省で、マラリア予防および疫学対策のボランティアとして1年を首都で、残り2年を農村で過ごした。もちろん、応用医療人類学の福音を、むこうの保 健省の人たちに説くためである。しかし、私が付き合っていたのは、末端の保健関係者(ワーカー)で、そこで「現地の伝統文化の尊重」などと主張しても笑わ れるだけであった。そこで路線を変更して、現地の民族医療や、農村の健康の商品化や、医療化などについての社会調査に徹することにした。しかし帰国してか ら、小さな論文は発表するものの、それらをまとめて1冊の本(民族誌)にするのには、意想外の時間がかかり、実際に出版するのは、帰国後の14年後の 2001年であった。
3.大阪大学と批判的医療
ジョージ・フォスターとバーバラ・アンダーソンの医療人類学の教科書では、1970年 代末の医療人類学のルーツには4つあるという。これは医療人類学領域を形成した学問領域を次の4つの起源にもとめる立場である。フォスターとアンダーソン の教科書(1977:4-8)では、自然人類学、民族医学、文化とパーソナリティ研究、国際公衆衛生に分けられているが、それは最も有名なものである。別 表に掲げた分類には、さらに幾つかの下位に属する学問分野が位置づけられるが、これは私が1990年代の末に書き加えたものである(http: //www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/ima-all.html)。
大阪大学の批判的医療研究は、したがって、欧米の初期の医療人類学の中心的関心のあっ た民族医学ではなかった。むしろ、医療社会学、それもタルコット・パーソンズのものではなく、アーヴィング・ゾラやイヴァン・イリッチ、あるいはエリオッ ト・フリードソンのような批判的立場の研究を好んで取り上げた。その意味ではアーサー・クラインマンのPatients and Healer in the Context of Culture は、我々にとって非常にアンビバレントな気持ちにさせる民族誌ではあった。もちろん、ハーバードの秀才、クラインマンの名声は、すでに我々の研究室にはと どいていた。この著作は、冒頭のシュッツ流の現象学的社会学のスコラ哲学的な人間表象の解説に始まり、台湾のシャーマンである童乩とクライアントおよびそ の家族の相互作用が、見事なまでの類型論と巧みな解釈で語られるのである。他方で、その記述は、エヴァンス=プリチャード風の、行為者の行動と解釈に焦点 が当てられた非常に冷徹なものであり、批判的な研究を批判した、我々にとっては不満の残るものだった。
しかし、我々はこのような偏った観点——人類学的認識は医療批判の視座ないしは道具に するという功利主義的な構え(スタンス)——から民族誌を読む事の欠点は随分後になって私は気付いた。それらの観点は、あまりにも狭量だった。医療人類学 が開いた「医療」という概念の沃野の広さを狭めるものだった。僕たちは日本での医療人類学の展開の可能性を狭めるものに過ぎなかったのではないかと反省し ている。
しかし実際のクラインマン夫妻については、もっと楽しい経験がある。それは国際会議に 日本に来た夫妻は、中川先生を通して、私たちに大阪の観光を依頼してきた。私たちは、台北の童乩が活躍する仏教寺院についての彼の民族誌を読んでいたの で、それに類似した、大阪の生駒にある石切神社に夫妻を連れていった。それは私が、その神社よりも山側の密教系の修験寺院で参与観察に励んでいたからであ る。もっともこの参与観察は、私にとっては、医療人類学の仕事は、生涯の仕事になるという楽観的な見通しはならず、かといって、将来どのような職業に就こ うかという夢もなく、自分の関心の赴くままに、エソテリックな宗教の実践に、研究に従事するというよりも「耽溺」していたのである。いずれせよ、御夫婦を 電車で大阪の郊外の東大阪にある石切神社におつれして、神社に祈願するお百度参りや、「怪しげな」——文化相対主義に敏感な人類学者は決して言わない—— 民間療法の施術所(ワークショップ)などをお見せした。そして、帰りに大阪の中心部に戻り、ちょうど戎の日だったのだろう、大阪難波にある今宮戎神社にお 参りというおまけまでついた。1976年30歳半ばにしてCulutre, Medicine, and Psychiatry を創刊され、僕たちが出会った時には40歳半ばのクライマン博士は、非常に大人しい感じの人で、むしろ奥さんのほうが気さくで話しやすかったという記憶が ある。
4.カップの中の医療人類学者たち:日本
旧マオイスト派の批判的医学の研究者たちは、しばしば人類学のメインストリームから 「医療人類学ではない」としばしば陰口をたたかれてきた。私は、その旧マオイストの代表的な「医療」人類学者なので、表だって批判されたことがない。なぜ なら(日本語の)陰口は、論争における批判的態度とは異なり、当人がいないところで、発話する行為だからである。曰く「大阪の人たちは、医学サイドからコ メンタリーをしているにすぎない」「(文化人類学者のように)相対主義的立場に立っていない」というものだった。そのことについて、私は大きな異論はな い。私が最も気にくわないのは、そのことを堂々と言わないことだ。日本人がしばしば自らの文化的寛容性のなさを自嘲的に表現する際にこう表現することがあ る。つまり、ムラ社会の人々の、典型的な行動パターンだと。
このような気が滅入る陰口に対して、私が救われたのは、ミッシェル・フーコーがインタ ビューで答えているように、あなたはどんな方ですかという質問に辟易して次のように解説したことである。「わたくは身元というのは、わたくしたちの社会の うちにある周知の種類の権力から生まれる最初の産物の一つだと思っています」(中山訳、2008:29)。だから、この教訓は(1980年代の日本では) 御自身が「医療人類学者」と強調すればするほど、それは医療人類学という学問の権威に屈服していることになる。
これは単なる処世訓ではなく、実際に、我々の身に降り懸かってきたことでもある。とい うのは、大学院生だった僕たちは、東京大学のある先生に会議に呼ばれた。そこで、彼はこう言い放った:「日本で医療人類学会というものをつくる。ついては 君たちにも協力してほしい。ここにいらっしゃる◎◎先生が会長だ」。この人は当時、厚生省生物製剤課長(〜1984年6月)で、後に東大教授になった人で ある。彼は、後にエイズ薬害事件(the HIV-tainted blood scandal)で全国的に名前を知られることになったが、当時、彼は官僚であり、そのような研究成果もなく、私たちは、まったく「東京の」その権威主義 的な思考に辟易した。私たちは、東京の人たちと「手を切る事」を決定し、大阪に戻り、アメリカ人類学会連合の医療人類学会(SMA)の前身の学問的アク ティビストたちに倣い「医療人類学ニュースレター」を急遽、発行することにした(1988年7月1日)。この時のニュースレター0号の巻頭言には中川教授 の「医療人類学ことはじめ」というエッセーを掲載した。もちろん、すでに研究会への招致などで知っていた、ロック先生にも「変貌しつつある医療人類学:民 族医学から批判的・解釈学的アプローチへ」という寄稿をいただいた(第2巻5号、1989年11月)。
5.医療人類学を組み替える
以上、私の医療人類学を勉強しはじめた頃の話をしても、そこには道徳的に褒められるべ き話はないし、まるで、自分でもピカレスク・ロマンを語っているような気持ちしか湧いてこない。皆さんにとって、医療人類学の開発途上国の黎明期のエピ ソードがどのような意義をもつのか、分からないかもしれない。
私たちの医療人類学についての反省を述べてみよう。
(1)はじめに生物医療に対する批判的ありきのトーンになっていた。
人類学や民族医療は、生物医学を批判するための道具になっている。批判をすることが自己目的化しているから、思いのほか、現状の生物医学あら探しにな
る。否定的な側面が出てきたら、鬼の首をとったように喜ぶ。これは、ロック先生が、生物医療にも、その個人が主体的に利用することで、制度がもつようなし
ばりから自由になったり、抵抗する可能性をもつことができるという視点とは対照的である。つまり、クライアントからの生物医療の主体的利用と、その意味に
ついてさまざまな確度から検討し、多様な解釈を拓くという視点がなかったことになる。
(2)分析の際に、全体論(ホリズム)が相対的に欠如していた。
私たちが好きな議論は、医療概念の相対化や、医療化であったが、これらのことに没頭することは、医療行動の具体的な諸相への関心を低下させ、論点先取
(petitio principii)の誤りを起こす危険性があった。
以上が我々の自己批判である。
〈民族誌というジャンルの可能性に託す〉
・ナラティブではなく、民族誌のジャンルの可能性
・(時間性の限界を持ちながらも)書き込まれたものが、解釈の可能性を引き出す
・〈情報の海〉化の世界的現象が、逆に、一般論記述(普遍的描写)よりも個別記述の可能性をもつ(ギアツの批判を踏襲せよ!)
医療人類学はいったいどんな学問なのだろうか?
医療人類学は、病いや健康に関する人類学的研究といわれる。しかし、現代社会では、権威ある医学を定義するのは、生物医学である。つまり医療人類学と
は、病いと健康に関する人類学のみならず、したがって生物医学の知識を使って、自分の研究対象を理解するだけでなく、生物医学をも研究の対象として相対化
されなければならない。
では、医療人類学の革新性とは何なのだろう?——私が考えるに、その理解の手がかりの ヒントは、クリフォード・ギアツの「薄れゆくジャンル」にあると思われる。つまり、アプローチの方法は折衷的でありながら、医学と人類学という2つの領域 からのアプローチが可能であり、人類学者は医学の、医学研究者は人類学の、それぞれの領域破壊の可能性に関する信念を共有している。学問的厳密さは期待で きないが、2つの領域を横断し、それぞれが持っているアプローチや分析の欠点を超えて、対象にアプローチするという強みをもつ。初期の医療人類学的研究に は、学際横断的で、さまざまな分野の人たちが、かなり自由度の高い対話をしていたように思われる。
しかし、医療人類学はもっとも早く長く見積もって半世紀以上、短く見積もっても30年 以上の歴史をもつわけであり、研究の蓄積も多く、人気もある。少なくとも医療人類学は斜陽産業とは思えない。他方、その分、その学問が確立したわけだか ら、当初のような危うさも冒険心も少なくなってきたのも事実だ。
我々の批判的医療研究、すなわちマオイストは、創世記の医療人類学ニュースレターに憧 れて、日本初の医療人類学ニュースレターを発刊した。そしてやがて、批判のルーティン化や、日本における他の領域の学問——例えば医療社会学や生命倫理学 の誕生——を通して、マオイストは実質的に、解散状態となり、19XX年X月に最終号(通巻X号)を出版して、やがて廃刊を迎えた。
日本では、欧米と同様、医療人類学への人気や期待はあるが、欧米のような学会やネット ワーク組織はない。日本と欧米におけるこの差はなんであろうか?研究者の質というよりは、人口の少なさというのは、いまだハンディであり続けている。だ が、それ以上にもっと本質的な違いがあるかもしれない。また、日本の医療人類学は欧米に比べて弱いという主張は、日本の研究者が、活発に海外に出かけて成 果を発表するという現状に鑑みれば、それほど大きな意義のあるクレーミングとも言えないだろう。医療人類学者は文化人類学者とならびコスモポリタン的性格 をもつと思う。
では、日本のみならず、欧米の医療人類学もまた、その分野の盛衰はともかくとして、お 互いに協力し、これらのマンネリズムからの脱却を図らねばならないだろう。私の処方せんは、医療人類学は安定したパラダイムに安住することではなく、再 度、かつてのような「薄れゆくジャンル」としての特性を取り戻すべきだということになる。そのためのレッスンとして、私は、自分たちがショックを受けた、 ロック教授の「良妻賢母の抵抗」というものを再読する必要がある。
なぜ良妻賢母の論文なのかということには、我々はいくつか正当化可能な理由をあげるこ とができる。それはまず、日本語で書かれた論文で、欧米の研究者にはほとんど知られていないことである。そして当時の女性の心身症状——これは同じ時期に アーサー・クライマンが中国の「神経衰弱(neurasthenia)」を取り上げたことと積極的な意味で対照的であるが——の単純な医療化図式に関する 再考という性格をもっていることである。そして、最後に、日本のフェミニズム研究の進展や政府の女性の社会進出への支援にも関わらず、現政権を含む日本の 保守層が「日本女性の美徳」として、ほとんど化石のような良妻賢母を相変わらず普遍的な価値として称揚していることである。日本のリベラル派の人たちに とって、良妻賢母は、過ぎ去ってしまった過去の遺物なのではなく、現在でさえ、日本の女性たちにとって、強力なジェンダーイデオロギーであり続けているか らである。そして、そのようなジェンダーイデオロギーは、過ぎ去ってしまった過去の遺物だと、認識論的に相対化しても、現実になぜこのようにしぶとく生き 残っているのかということを、国内外の研究者は、適切な説明をおこなうことができないからである。
良妻賢母の枠組みは、これまでの日本では、歴史学、教育学、そして東アジアフェミニズ ムの観点からさまざまに批判されてきたし、これはジェンダーイデオロギーの一つであることも明白である。その意味では、女性が固有にもつ心身症というもの の背景に、良妻賢母のイデオロギーが現前としてあり、それは(その当時の医療化論の紋切り型の)単なる抑圧的な機能ではなく、「良妻賢母」というアイデン ティティを有する人たちの、社会的役割付与からの抵抗=レジスタンスとしても解釈できうることを主張した医療人類学の(ほとんど唯一の)論文なのである。
ロック教授の論文の視座から、我々が医療人類学がもつ革命性について歴史的に思いを馳 すことは、有意義である。なぜなら、革命とは、本来の語義は、根源に戻ることを指すわけだからである。
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【図表】
1.自然人類学(Physical anthropology)
古病理学[paleopathology/医学史的病理解剖学]
疾病地理学・歴史学
栄養生態学
人類生態学[human ecology]
2.民族医学(Ethnomedicine)
呪術研究
シャーマニズム研究
民族植物・動物学研究
民俗医学
民俗病因論
民族病理学
身体論研究
3.文化とパーソナリティ研究(Culture and personality studies)
精神分析(諸流派)
心理人類学
トランスカルチュラル精神医学
比較精神医学
民族精神医学
4.国際的な公衆衛生学(International public health)
寄生虫病学(公衆衛生・疫学や行動生態学を含む)
近代医療導入後の文化変容
開発人類学
これが現在の医療人類学の紹介者のスタイルは、ある種の階層性をもたず、より具体的なテーマの提示(SMAのホームページ)か、医療人類学と同じような性
格をもつ学際分野を提示して横断的な(intersectional)連携関係をしめすようなもの(Inhorn 2007)になっている。
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SMAのウェブページ:What is Medical Anthropology?
- Health ramifications of ecological “adaptation and maladaptation”
- Popular health culture and domestic health care practices
- Local interpretations of bodily processes
- Changing body projects and valued bodily attributes
- Perceptions of risk, vulnerability and responsibility for illness and
health care
- Risk and protective dimensions of human behavior, cultural norms and
social institutions
- Preventative health and harm reduction practices
- The experience of illness and the social relations of sickness
- The range of factors driving health, nutrition and health care
transitions
- Ethnomedicine, pluralistic healing modalities, and healing processes
- The social organization of clinical interactions
- The cultural and historical conditions shaping medical practices and
policies
- Medical practices in the context of modernity, colonial, and
post-colonial social formations
- The use and interpretation of pharmaceuticals and forms of
biotechnology
- The commercialization and commodification of health and medicine
- Disease distribution and health disparity
- Differential use and availability of government and private health
care resources
- The political economy of health care provision.
- The political ecology of infectious and vector borne diseases,
chronic diseases and states of malnutrition, and violence
- The possibilities for a critically engaged yet clinically relevant
application of anthropology
出典:http://www.medanthro.net/feature/what-is-medical-anthropology/
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医療人類学と交差する分野や研究領域(Inhorn 2007)。アスタリスク*は Inhorn and
Wentzell(2012)で、まだ残っているものと(新たに加わったもの)である。
- Global Public Health*
- Science and Technology Studies* ( ->Feminist Technoscience Studies)
- genetics/Genomics*
- Bioethics
- Public Policy*
- Social Work
- Occupational Science-Disability Studies*
- Medical History*
- Gender Studies-New Masculinity Studies* ( ->Gender, LGBT, and
Sexuality Studies)
- (International) Area Studies*
- (Mental Health)
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【レジデント制度】
「研修医(resident)のこと。米国では1年目の研修医をインターンともいう。日本では初期臨床研修(通常2年間)を終えた後、専門領域の研修を行
う後期臨床研修医(通常3年目以降)をレジデントと呼ぶことが多い。また、初期臨床研修医をジュニアレジデント、後期臨床研修医をシニアレジデントなどと
区別して呼ぶこともある」コトバンク)
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◎中川米造
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/070228nakagawaq.html
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Anyway I wonder how we had understood medical anthropology without
studying abroad?: A personal commentary of Margaret-Lock-Sensei
and MAOists of Osaka University (chiefly in 1980s)
Mitzub'ixi - Mitsuho IKEDA
The Center for the Study of Communication-Design, Osaka University
Machikane 1-16, Toyonaka, Osaka, 560-0043, Japan
rosaldo@cscd.osaka-u.ac.jp
As we have plenty of Japanese medical anthropologists today, it is
laborious to summarize general overview of the present future of “our”
academic paradigm in Japan. Nevertheless if we back to 1980s, we are
easy to account a few “big names” of Japan, United States and Canada
(also England) for explaining the configuration of “birth” of Japanese
Medical Anthropology. In short I do not intend to talk a nostalgic
buzz, but I contextualize my political and academic positionality in
that time. I was a member of, the Medical Anthropologists in Osaka,
acronym MAO, the parodist self-appointed MAOists of Osaka University,
whose mentor or guru was Prof. Yonezō NAKAGAWA, medical historian,
educator, and one of pioneers of bioethics in Japan. Under his liberal
and anarchistic atmosphere, we could discuss on our concerned broad
social medicine arena of the HIHANTEKI-IRYŌ, “critical medicine” in our
lab. This was a part of the laboratory history of social hygiene
academics (Gesellschaft für Hygiene) from pre-war the Osaka Imperial
University era. We have confronted with the Lock-Sensei’s critical
essay on “Cultural resistance by Japanese good mothers and wise wives,”
(RYŌSAI-KENBO NO TEIKŌ), 1983. The paper inspired us to need to rebuild
MAOist’s thinking on critical medicine, also inspired by George L.
Engel, Ivan Illich, Michael Foucault, Thomas McKeown, and so on
(needless to say a series of foreign MA big names). I revisit our old
theme and your new one: what premises that critical medicine can be
potential to innovate “our” life beyond the Japanese cultural context.
I also imagine building the anthropological medicine that was appeared
in Arthur Kleinman’s paper once upon, instead of building medical
anthropology in Japan.
The Margaret Lock’s Conference,
At Department of East Asian Studies,
Princeton University
On March 13 and 14, 2014
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【論文解題】
マーガレット・ロック「『良妻賢母』の抵抗:現代日本における身体化と医療化」『季刊人類学』15巻1号、Pp.36-60、1984年
・河合隼雄「コメント1」『季刊人類学』15巻1号、Pp.60-62、1984年
・中川米造「コメント2」『季刊人類学』15巻1号、Pp.63-65、1984年
目次
1.序論
2.「ソフト」な支配と「儀礼主義」的抵抗:権力の日本的概念
3.身体化と個人間関係
4.個人間関係と欲求の表現
5.身体化と病気の意味
6.健康と治療に対する責任
7.傷つきやすい女性の体
8.良妻賢母
9.母が原因である病気
10.現代の中産階級に属する日本女性のイメージ
11.結論
◎Arthur Kleinman
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Kleinman
◎Paul Ricoeur (1913—2005), On Inscription(時間概念の固定?)
http://www.iep.utm.edu/ricoeur/
"Ricoeur’s concept of “human time” is expressive of a complex
experience in which phenomenological time and cosmological time are
integrated. For example, we understand the full meaning of “yesterday”
or “today” by reference to their order in a succession of dated time.
To say “Today is my birthday” is to immediately invoke both orders of
time: a chronological date to which is anchored the phenomenological
concept of “birthday.” Ricoeur describes this anchoring as the
“inscription” of phenomenological time on cosmological time (TN3 109)."
Volume 3 of Time and Narrative
"Anthropologists are, above all, men and women who like to work with
living people, with spoken languages rather than languages that have
been written down, and with the real things that ancient peoples made
-- their tools, weapons, and pots, and the foundations of their
houses." - Margaret Mead, 1965:1
Mead, Margaret., 1965. Anthropologists and what they do. New York: F.
Watts.
Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2015-2017
For all undergraduate students!!!, you do not paste but [re]think my
message.
Remind Wittgenstein's phrase, "I should not like my writing to spare
other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate
someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein