難解なものを難解なままで理解することは可能なのか?
Walter Benjamin's Verstehen game
池田光穂
次のベンヤミンのエッセーの中の短文を読んで、 この文章をアレゴリー(allegoria)——あることを別の仕方で言うこと——として、自由に解釈しましょう。それぞれの文を、独立したものとして皆 さんの解釈行為を尊重するための便宜として「聖書」よろしく、通し番号振ったものも用意しました。
コノ緑地ハ公共ノモノトシテ保護シマショウ
何が「解決」されるのだろう? これまでの人生を振
り返ると、問題という問題は、ぼく
らの眺望をさえぎりかねない木立のように、そこに残されたままではなかろうか。その木立をすっかり伐り払ってしまうことはおろか、間伐して光を入れること
すら、ぼくらはほとんど考えない。ぼくらは歩みつづけ、木立を遠くあとにする。遠くから見れば、その木立は、たしかに全部見渡せはするけれども、暖昧な、
影のような、そしてそれだけにますます謎めいた、絡み合った様相を呈してくる。
テクストにたいする注釈と翻訳との関係は、自然にたいする様式と模倣との関係に似ている。同じ現象を注視するのだが、その注視のしかたが異なっているわけ
だ。ただし両者とも、聖なるテクストの木に結びつけば、永遠にざわめく群葉(むらば)となり、世俗のテクストの木に結びつけば、時が熟すると落ちる果実と
なる。
恋する男は、相手の女の「欠点」にも、奇癖や弱みに も、愛着をもつものである。顔のしわやそばかす、着古された衣服やへんな歩きかたが、どんな美点よりも ずっと持続的に、ずっといやおうなく、男をひきつける。そういうことはとうから知られているが、なぜそうなのだろうか? ぼくらの感覚はぼくらの脳裡に 宿っているのではない、そしてぼくらが窓なり雲なり木なりを感覚するのは脳髄においてではなくて、むしろ対象の見られる場においてである、という学説が真 実だとするなら、ぼくらは、恋人を見るときにも、自分のそとに出るわけだ。しかもこの場合には、痛いほどに緊張し、われを忘れて。感覚は鳥のむれのように 羽ばたいて、女の光輝のなかを飛びかい、目をくらまされる。そして鳥たちが木の葉蔭に保護をもとめるように、感覚は恋人の、影を作るしわや、ぎこちない身 ぶりや、肉体のめだたない欠陥のなかに逃げこみ、そこに隠れてほっとしてうずくまる。ほかならぬそのような場に、欠点や難点に、讃美者の矢も楯もたまらぬ 愛情の機微がひそんでいること——このことは、通りすがりの者などの腑におちることではない。
出典: ヴァルター・ベンヤミン「一方通行路」(ca. 1923-1926)『暴力批判論 他十篇』野村修・編訳、岩波文庫、1994年
【解釈用テキスト】
DIESE ANPFLANZUNGEN SIND DEM SCHUTZE DES PUBLIKUMS EMPFOHLEN
Was wird "gelöst"? Bleiben nicht alle Fragen des gelebten Lebens zurück wie ein Baumschlag, der uns die Aussicht verwehrte? Daran, ihn auszuroden, ihn auch nur zu lichten, denken wir kaum. Wir schreiten weiter, lassen ihn hinter uns und aus der Ferne ist er zwar übersehbar, aber undeutlich, schattenhaft und desto rätselhafter verschlungen.
Kommentar und Übersetzung verhalten sich zum Text wie Stil und Mimesis zur Natur: dasselbe Phänomen unter verschiedenen Betrachtungsweisen. Am Baum des heiligen Textes sind beide nur die ewig rauschenden Blätter, am Baume des profanen die rechtzeitig fallenden Früchte.
Wer liebt, der hängt nicht nur an "Fehlern" der Geliebten, nicht nur an Ticks und Schwächen einer Frau, ihn binden Runzeln im Gesicht und Leberflecken, vernutzte Kleider und ein schiefer Gang viel dauernder und unerbittlicher als alle Schönheit. Man hat das längst erfahren. Und warum? Wenn eine Lehre wahr ist, welche sagt, daß die Empfindung nicht im Kopfe nistet, daß wir ein Fenster, eine Wolke, einen Baum nicht im Gehirn, vielmehr an jenem Ort, wo wir sie sehen, empfinden, so sind wir auch im Blick auf die Geliebte außer uns. Hier aber qualvoll angespannt und hingerissen. Geblendet flattert die Empfindung wie ein Schwarm von Vögeln in dem Glanz der Frau. Und wie Vögel Schutz in den laubigen Verstecken des Baumes suchen, so flüchten die Empfindungen in die schattigen Runzeln, die anmutlosen Gesten und unscheinbaren Makel des geliebten Lews, wo sie gesichert im Versteck sich ducken. Und kein Vorübergehender errät, daß gerade hier, im Mangelhaften, Tadelnswerten die pfeilgeschwinde Liebesregung des Verehrers nistet.
01 コノ緑地ハ公共ノモノトシテ保護シマショウ
02 何が「解決」されるのだろう? 03
これまでの人生を振り返ると、問題という問題は、ぼくらの眺望をさえぎりかねない木立のように、そこに残されたままではなかろうか。04
その木立をすっかり伐り払ってしまうことはおろか、間伐して光を入れることすら、ぼくらはほとんど考えない。05
ぼくらは歩みつづけ、木立を遠くあとにする。06
遠くから見れば、その木立は、たしかに全部見渡せはするけれども、暖昧な、影のような、そしてそれだけにますます謎めいた、絡み合った様相を呈してくる。
07 テクストにたいする注釈と翻訳との関係は、自然にたいする様式と模倣との関係に似ている。08
同じ現象を注視するのだが、その注視のしかたが異なっているわけだ。09
ただし両者とも、聖なるテクストの木に結びつけば、永遠にざわめく群葉(むらば)となり、世俗のテクストの木に結びつけば、時が熟すると落ちる果実とな
る。
10 恋する男は、相手の女の「欠点」にも、奇癖や弱みにも、愛着をもつものである。11 顔のしわやそばかす、着古された衣服やへんな歩きかたが、どんな美点よりもずっと持続的に、ずっといやおうなく、男をひきつける。12 そういうことはとうから知られているが、なぜそうなのだろうか? 13 ぼくらの感覚はぼくらの脳裡に宿っているのではない、そしてぼくらが窓なり雲なり木なりを感覚するのは脳髄においてではなくて、むしろ対象の見られる場に おいてである、という学説が真実だとするなら、ぼくらは、恋人を見るときにも、自分のそとに出るわけだ。14 しかもこの場合には、痛いほどに緊張し、われを忘れて。15 感覚は鳥のむれのように羽ばたいて、女の光輝のなかを飛びかい、目をくらまされる。16 そして鳥たちが木の葉蔭に保護をもとめるように、感覚は恋人の、影を作るしわや、ぎこちない身ぶりや、肉体のめだたない欠陥のなかに逃げこみ、そこに隠れ てほっとしてうずくまる。17 ほかならぬそのような場に、欠点や難点に、讃美者の矢も楯もたまらぬ愛情の機微がひそんでいること——このことは、通りすがりの者などの腑におちることで はない。
リンク
文献
その他の情報
For all undergraduate students!!!, you do not paste but [re]think my message. Remind Wittgenstein's phrase, "I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein