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善と悪について考える

How do we cope with scientist’s misconduct?

池田光穂

善と徳について,ここで考えてみよう。

善と徳の使い分けは,good と virtue に対応している。善を社会的属性としたのは外面的に観察や判断ができることを指す。それに対して徳は,日常的な使い方に従い,その人に内在する資質のよう に理解することができる。しかし後者も,やはりその判断には外面的に観察や判断ができることに我々は頼らざるを得ないわけだから,こちらも行為に表出する 社会的属性と言うことができる。冒頭で述べたように,徳とは「戦闘状態にある道徳的心術」(カント)というダイナミックなものだからだ。善をなすことがで きるのは,清浄な空気のもとでのみ可能という比喩も,この社会的環境要因のことを示唆している。

研究倫理をまなぶ際に,——データの捏造,剽窃 (自己剽窃を含む), 改竄,これを研究不正の三悪と言い,冒頭で表現した——から学ぶことは有効であるが,それだけでは人 は善を為し得ない。陸続と絶えることのない研究不正についての報道を見聞きすると,人々はそれなりに心理的に衝撃を受ける。しかしながら,日常の生活で不 正に無縁の科学者には衝撃的ではあるが,ただただ,このような巨悪がどうしてまかり通るのかという異次元の世界の印象だけしか残らない。ここでの私の主張 は,善きことをなしている人に,データの不正の弊害を説いても,正しい信念に基づいて研究を行っている者には,なかなか教訓として伝わらない。悪からのみ 学ぶことには,限界があるようだ。

どうしてであろうか。悪からのみ学ぶことにはどうや ら構造的な困難があるように思われる。何をもって研究の倫理を動機付けるかということを,この種のス キャンダルを聞いても各人の日常の経験から遠く理解することが困難になる——認知上のバイアスがかかる。研究者の善行は,これまで科学社会学で言われてき たところによると(1)真理を追究するロマン,(2)人びとに善きことをなしたい夢,(3)純粋に知ることを喜ぶ無垢な心に支えられてきた(Robert Merton’s the CUDOS; Communalism- Universalism- Disinterestedness- Organized Skepticism)。他方,研究者を悪業から見る視座は,専門職者の狭量・独占・権威主義から,偽悪的に表象されてきた嫌いがある(John Ziman’s PLACE; Proprietary- Local- Authoritarian- Commissioned- Expert work)。こういう対比は,善/悪をはっきり白黒つけるようなマニ教的断定として,それ以上の,なんら生産的議論を生み出さないだろう。

悪を体系的に取り締まることは,個人と組織の両面作 戦で包囲するという方法による。研究者の悪行が横溢するようになると,制度は2つの〈近代的装置〉を 使って,悪を制圧するように試みる。ひとつは,研究者の一人一人に訴える〈倫理教育〉である。もちろん,その中には,善の徳目を教えるのみならず,悪を列 挙して,劣情に訴え,それを抑止するという発想が背景にある。ただし,これは善を維持するためには悪が必要になる。供犠の羊を常に必要とするという問題が ある。他のひとつは,監視・処罰・啓蒙が組み合わされた制度を確立することである。研究公正(research integrity)という発想はここに由来する。これは公正性の観点から評価・判定・処罰基準を標準化する,研究組織の一種の〈免疫機構〉のようなもの である。

さて,悪を構造的に取り締まることには限界がある。 それを,近代の逆説理論というものから説明しよう。第二次大戦終結前後から登場する「近代の逆説」理 論なるものがかつて主張された。つまり近代化はよいこと以上の弊害をもたらし,我々はその処方せんを未だ持たずにいる(例:全体主義の台頭や冷戦構造の維 持)という主張である。この理論構成を使うと,研究の捏造・偽造・盗用という三悪は,研究者の悪よりも,そのようなことに手を染める誘惑を産み出す研究制 度の好まざる副産物のほうがより大きな問題をはらむことになる。しかし,この説明は「罪人を憎むよりも罪を憎め」という説諭と同様,近代が,システムに巻 き込まれながらも自律能力を持つ「責任のある主体(responsible subject)」を生み出した,肯定すべき現象の意味を過小評価するものとなる。

では,そのような環境におかれている,責任のある主 体,つまり我々はいったいどんなことをおこなっているのだろうか。そして,なにをおこなうべきなのだ ろうか。では,ここで言う「責任ある主体」とは何のことであろうか。それは言い換えると「責任を果たしている人間」ということである。責任は行為(=実 践)を通して果たせる。そして責任ある状態は,それだけでは自明にならず,専門家(professional)の公言(profess)に似て,問いかけ に答える/応えるかたちで果たしていることを説明せざるを得ない。責任は常に〈他者からの/他者への働きかけ〉から生まれると言ってもよい。したがって責 任には次の2つのタイプがある。すなわち,他者からの働きかけ(=審問)には応答責任(responsibility)が,他者への働きかけ(=実践)に は,それを自ら弁明する説明責任 (accountability)という2つのタイプの責任である。

我々は,悪がなす恐ろしさや,悪の制御不能の面に絶 望することなく,人間がもつ善行をなす力にもっと関心をむけるべきである。それを私は「驚くべき経験 的事実」と呼んでみたい。驚きとはこういうことである。もし人が誰も見ていなかったら研究者は捏造・偽造・盗用をもっと頻繁におこなってもよいはずであ る。人が周りの〈敵〉を自由に殺すことができれば——トマス・ホッブズの危惧はそうであったが——人類などは殲滅戦の結果すでに死滅していたはずである。 人間の歴史的経験は,我々の想像以上に,人間が平和裏に道徳的に隣人との関係を築く能力をもつことを示している。利他行動や善行に遺伝的根拠を求めようと する社会生物学や行動遺伝学は,そのような否定しがたい経験的事実への理論的説明への試みだと言えないことはない。社会システム論の立場にたてば,近代が 準備した「責任ある主体」の形成が,ほかならぬその主体の安全性を担保するように社会の制度が構築されたと主張するかもしれない。近代は(さまざまな暴力 性を生むと同時に,それを癒そうとする制度を作り上げる。これは近代の逆説という表現で説明できるものではなく,むしろ近代は道徳的な二面性を持つ社会で あると言っても過言ではない。

自己剽窃(Self-plagiarism)とは(下線でリンクします)

「過去に自分が書いたレポート・ 論文またはその一部を、自分が書いた内容であるからという理由で適切な引用や註釈なしに、他の科目 のレポート・論文に使用することが、自己剽窃にあたります」(https://bit.ly/3jyFqHl

ウィキペディアには、自己剽窃(じこひょうせつ; Self-plagiarism)あるいは自己盗用「とは、自分の文書(学術出版、論文、書籍、レポート、申請書など)やデータ、図、表と全く同じもの、あるいは、少し改変したものを、原典の引用なしに、自分で再使用し、発表・文書化する行為である。原則的には盗用とみなされ、研究公正・研究倫理違反とされる。しかし、違反としない人・機関もあり、問題点が多い」ウィキペディア「自己盗用」)。と記載しているが、端的に言って「違反としない人・機関もあり」という人も機関も現在では大問題であり、自己盗用とは(グローバルスタンダードでは)立派な研究公正・研究倫理違反であると認定される。

●では「徳は教えられるのか?」について考えてみよう——結論からいうとソクラテスはメノンの「徳は教えられるのか?」にはまともに答えることができず失敗する。

「徳は教えられるのか?」について議論したのは、プラトン『メノン』である。

【1】対話はメノンがソクラテスに対して「徳は教えられうるのか」と問うことから始まる。それをソクラテスはそれが何であるかを知らなければそれがどういうものであるかを知ることはできないとして「徳とは何か」という問いに主題を転換させ、メノンにその答を求める。

【2】メノンはいくつかの答を提出するも、いずれもソクラテスに否定され、苦し紛れのうちに知らないものを探求することはできないという後に「探求のパラドックス」と呼ばれるパラドックス『探求の対象が何であるかを知っていなければ探求はできない(さもなくばそれは顔も名前も知らない人を探すようなものである)。しかし、それを知っているならば既に答えは出ているので探求の必要はない』を提出する。それに対してソクラテスは想起説を以ってそれに答え、メノンに再び探求をするよう勧める。

【3】しかし、メノンは再び当初の「徳は教えられうるのか」という問いに立ち返り、ソクラテスにその回答を求める。それに対してソクラテスは(不本意ながらも)仮設法を以って答えようとする。曰く、徳とは知識であり、知識は正しさ(善)であり、知識とは教えられうるものであるからして徳は教えられうる

【4】ところがその直後ソクラテスはこの結論に疑義を申し立て、その破壊に取りかかる。曰く、徳を教えると称するソフィスト、テミストクレスやアリステイデス、ペリクレスといった名だたる政治家を例に取り有徳の政治家などですら徳を教えることができず、徳を教えうる者はいない。ゆえに徳は教えられえない。また、道案内を例にとり、その道を知らなくても適当に見当をつければ目的地に行けることから、人を正しく導くのは正しさだけではなく、思いなしもそれが可能であるから、正しさ即ち知識ではなくなり、徳は正しさでもなくなる。

【5】そこでソクラテスは有徳な人は知っていて有徳なのではなく、どの意味で彼らはいわば神がかりの巫女などと同じであるので、徳を神によって与えられるものであると結論付ける。しかし、これは徳の内容、本質にまで踏み込んだ回答にはなっておらず、実質「徳とは何であるか」という問いに対する回答は失敗に終わっている

メノンの戦略
ソクラテスの応答
【1】徳は教えられるのか?→ 【1】徳は教えられるのか?について答える前に、徳とは何かについて考えないとならないね。
【2】ソクラテスに対する「徳とはなにかに」ついて答えられないので、「探求のパラドックス」 を開陳して、徳は探求できないと、主張を変える。「それではどのやうにして探究なさるのですか、ソクラテス、一般に何であるか知らないものを。その中の如 何なるものを問題にして探究なさるのですか。いや、ともかくそれを探求して得た場合に、知らなかつた所のものがそれであるということをどうして知り得るの ですか」80d)。
【2】アナムネーシス戦略:魂は 不死であり、繰り返し甦ってくるとソクラテスは主張した。彼によれば、実は知識はいつも魂に内在している(86b)。人が学び知ったものとは、実は忘れて いたものを回収しただけだ。つまり、あるものが思い出されるとそれは真なる信念であり、理解による真の知識である。つまり、徳を探求するのは可能である。

ソクラテスは自身を教える者ではなく産婆とみなし、元から弟子の中に存在した知識を生まれさせる手助けをすると主張する。
【3】しかし、メノンは再び当初の「徳は教えられうるのか」という問いに立ち返り、ソクラテスにその回答を求める。→ ソクラテスは(不本意ながらも)仮設法(method of elenchus)を以って答えようとする。曰く、徳とは知識であり、知識は正しさ(善)であり、知識とは教えられうるものであるからして徳は教えられうる。仮説法は、「仮説の排除という否定的な作業をする方法である。この方法においては矛盾につながる仮説が徐々に見定められ、排除されることによってより良い 仮説が見つけられる。この方法は一般的で通常受け入れられる真理、なおかつ我々の見解を定めるような真理を求める。そしてこの方法はそれらの真理が他の信 念と一貫していることを確かめるためにそれらの真理をよく調べる。この方法の基本形式は、論理と事実にかんする検証としてまとめ上げられた一連の問いであ る」ソクラテス式問答法)。
ソクラテスは、「徳は教えられない」という知識を、1)あらかじめ知っておいてから、ここまで引っ張ったのか?それとも、2)産婆術的な仮説法(=ソクラテス問答)を通して、ここではじめて「徳は教えられえない」 ということを思いついたのか?ということが気になる。なぜなら、1)の場合は知っているのにも、それに答えることをはぐらかして、どうどうめぐりをして、 答えを出すという本音を最後にもってくる、倫理的問題がある。2)の場合は、結局は、それはソクラテスの結論ではなくて、この知識は、メノンとソクラテス の共同作業による、帰結主義(=結果良ければすべてよし)である。
徳は教えられうる」と言ったあとで、仮説法でさらに、それを解体する。「徳を教えると称するソフィスト、テミストクレスやアリステイデス、ペリクレスといった名だたる政治家を例に取り有徳の政治家などですら徳を教えることができず、徳を教えうる者はいない。ゆえに徳は教えられえない

ソクラテスは有徳な人は知っていて有徳なのではなく、どの意味で彼らはいわば神がかりの巫女などと同じであるので、徳を神によって与えられるものであると結論付ける」。つまり、ソクラテスは、最初の問いについて答えることができなかったのである。

★戦争は、絶対悪とみなすものから、必要悪だという領域を経て、むしろ、潜在的紛争を解決させるための「良き手段」というものまで広がりをもちます

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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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