カトリーヌ・クレマンが読むレヴィ=ストロース
Claude Levi-Strauss for whom Catherine Clement reads
解説:池田光穂
クロード・レヴィ=ストロースの4つの民族(Tristes Tropiques, 1955)
出典:カトリーヌ・クレマン(Catherine Clément, 1939- )『レヴィ=ストロース』塚本昌則訳、白水社、2014年(Catherine Clement, Claude Levi-Strauss. Collection QUE SAIS-JE? No. 3651, Presses Univeritaires de France, Paris. 2010.)
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0.前奏曲
(なし)
1.民族学者の生成
「大西洋の両側で、動物である、あるいは神聖であると思われた「被造物」を人びとは苦境に陥らせた。ヨーロッパ人はひょっとしたら神かもしれないという考
えを確かめるために、インディアンはヨーロッパ人たちを溺死させ、その亡骸の周囲に見張り台をつくり、彼らがみずからを浄化するかどうかを見ようとした。
ヨーロッパ人はと言えば、すべてのインディアンのうちに一匹の動物を見ることができるように、非人間的振る舞いの目録を作成した。たとえば、一五二五年、
オルティスはインド(→インディアスの間違い?)顧問会議で次のように宣言した。「彼らは人間の肉を食い、正義というものを知らない。素っ裸で歩き、蚤、
蜘妹、生の蛆虫を食べる……。彼らに髭はなく、たまたま生えることがあっても、急いで抜いてしまう」(p.14)。
2.職業の道へ入る
「自分の命を守るために、粗悪なぼろ船に乗船したが、そこにはシュルレアリスムの父アンドレ・ブルトン、さらには歴史的なトロツキストであるヴィクトー
ル・セルジュ〔1890-1947年、ロシアの革命家・作家。フランス語で著作を書いた〕もいた」(p.17)。
・トゥピ・カワヒブ(ピメンタ・ブエノ地方)——トゥピ・ナンバの末裔
3.地質学というモデル
4.カール・マルクスの使用法
「ボロロ族の社会は、風俗観察者(モラリスト)にひとつの教訓をあたえる。彼は先住民の説明者の言うことに耳を傾けるがよい。村の二つの半族が互いによっ
て、互いのために生き、呼吸しようと努めているこの舞踏劇を、彼らは私にしたように描きだしてくれるだろう。彼らは、相互性を熱烈に心がけることによっ
て、女たち、財産、奉仕を交換する。互いの子供たちを結婚させ、死者たちを互いに埋葬しあい、生命は永遠で、世には救いがあり、社会は正しいことを相互に
保証し合っているのだ。これらの真理を主張し、これらの信念を抱きつづけるために、彼らの賢者たちは壮大な宇宙論を練りあげた。その宇宙論を、部落の平面
配置と、住居の位置の中に書き込んだ。矛盾に直面すると、それを何度も取りあげて手直しした。対立を受け入れるのは、ただそれを否定して別の対立を取り入
れるためであり、集団を縦横に分割し、それを結合させ対立させて、そのあらゆる社会生活と精神生活からひとつの紋章を作りあげた。その紋章では、対称性と
非対称性とが均衡を保っている、ちょうど同じ悩みをもっと漠然と悩んでいた美しいカデュヴェオ族の女が、自分の顔に彫りつける巧搬な図柄のように。
(……)ボロロ族は人を欺く活喩法〔プロゾポベ——不在者、死者、動植物などに語ったり行動させたりする修辞学の技法〕によって、自分たちの体系を成熟さ
せようとしたが無駄というものであり、他の部族同様、次の真理を否定することはできなかった。ある社会が生者と死者の関係について作りだす表象は、生者の
あいだで支配的な現実の諸関係を、宗教的思想という視点から隠蔽し、美化し、正当化するための努力に、結局は還元されるという真実である」(悲しき熱帯
plon版:277,邦訳2巻 Pp.89-90.)
5.象徴的なもの、ポリヌクレオチド、根と羽根
6.狂人、良識ある人びとの保証人
7.ブリコラージュという薄暗い月
8.構造主義とは何だったのか
9.日本的魂における往復運動
10.「神話学はひとつの屈折学=反射学である」
11.悪い父親が泉に行くとき
12.女性の世界は悪臭にみたされている
13.火を付けること——ジャガーからオポッサムへ
14.蜂蜜に夢中の少女
15.〈天のカヌー〉と掘っ立て小屋の煙
16.「彼らを結婚させよう、結婚させよう」
17.陰気な道化師と陽気な戦士
「食人習慣のある社会の驚くべき特徴は、女性がそこで特別な位置を占めていることである。女性たちにはその実践が禁じられていたり、女性の肉がけっして食
べられなかったり、あるいは食人儀式において女性たちが主要な儀式的役割を果たすからであり、無標というということは決してない。食人は容易に首狩りに置
き換えることができる。夫である狩人が帰還すると、女性たちは誇らしげに頭骸骨をすばやくくつかむ。グレゴリー
・ベイトソンの有名な民族学の著作『ナヴェン』は、ニューギニアの部族イアトムルの儀式を記述している。母方の伯父は道化師の女浮浪者に扮装し、父方の女
性は戦士の衣装を身にまとい、首狩り隊を演じる。ニューギニアでは、インドシナと同様、この首狩りたちは、自分たちは首狩りのために襲撃した他村の女の
「夫」だと呼称する」(クレマン 2014:87-88)。
18.愛情と極貧
「初めてインディオとともに草原に露営する訪問者は、このあまりに何ものももたない人類の姿を眼の前にして、苦悩と憐れみにとらえられるのを感じる。まる
で、何か恐ろしい大異変によって、敵意にみちた大地の地面に押しつぶされたようだ。揺らめく炎のかたわらで裸で寒さに震えているようだ。訪問者は、茨の茂
みあいだを手探りで歩きまわり、たき火の明かりの暖かい照り返しでそれとわかる手や腕や胴に突き当たらないように気をつける。しかし、この極貧の生活もい
ろいろなささやきや笑いで賑(にぎ)わっている。夫婦は、失われた統一性への郷愁を感じているかのように抱き合っている。よそ者が通りかかっても、その抱
擁は中断されない。誰のうちにも計り知れぬ優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい動物のような満足が感じられ、これらの多様な感情が集まって人間的愛情の最
も感動的な、最も真実の表現であるような何かが感じられる」(「悲しき熱帯」原著, Pp.335-336:邦訳2:192)。
19.ハマグリの水管、山羊の角、鮭、ヤマアラシ
「人はまず、人間を自然から切り離し、至高の統治者とした。こうすることで人の最も疑い得ない性格、つまり生きた存在であるという性格を消去できると考え
たのだ。そしてこの共通の特性に盲目でありつ。つけることによって、あらゆる悪習に思うがままに耽ることができた。人間性を動物性から根源的に切り離す権
利を不当に手に入れ、一方から引きだしたすべてをもう一方にあたえることで、呪われた循環を始めたことを、歴史の最近四世紀の終わりにおけるほど、西洋人
が深く理解したことはなかった。同じ境界が、つねに押しやられることによって、西洋の人間たちは他の人間たちから遠ざけることになり、その結果つねに縮小
されてゆく少数民族のために、人間主義の特権が要求された。だが、この特権は、自尊心からその原則と概念を借りてきたものであったために、生まれるやいな
や腐敗した」(「構造人類学2」原著, p.53)。この言葉は、一九六二年、ジュネーヴで、ジャン・ジャック・ルソー
生誕二五O年を記念する式典で語られた。その一O年後、一九七二年、レヴィ=ストロースはアメリカのバーナード・カレッジで講演を行なったが、その演題は
「構造主義とエコロジー」だった」(クレマン 2014:84-95)。
20.「人間は一個の生物である」
「あらゆる形での人種差別に対する闘いはただちに実践すべき急務であり、この闘いがみずからにあたえる人道的目標は否定できないが、それにもかかわらず、
その闘いが、古くからある特殊性・独自性を破壊する世界文明へと人類を引きずり込むのと同じ動きの特徴を持っていることを、隠しとおすことはできない。こ
の特殊性・独自性こそ、人生にその価値をあたえる美学的・精神的諸価値を創造してきたという名誉をになっているのだが、われわれはそのような価値を生みだ
す力が日に日に表えるのを感じているために、いまやそれを図書館や美術館・博物館にうやうやしく収納しているのである」(『はるかな視線』1:34)
21.瞑想と伝達との戦い
◎消失の学問である人類学=エントロポロジー
「人間精神の創造物について言えば、それらの意味は人間精神との関係においてしか存在せず、したがって人間の精神が姿を消すやいなや無秩序のうちに溶けこ
んでしまうだろう。それゆえ、文明は、総体として把握した場合、驚くほど複雑な装置として描きだすことができるだろうし、そこにわれわれの宇宙が生き延び
る可能性を見出したい気になるかもしれないが、あくまでそれは文明の機能が、物理学者の言うエントロピー、つまり不活発さを作りだすことでなかったとすれ
ばの話である。交わされるひとつひとつの言葉、印刷された一行一行が、二人の対話者のあいだに伝達を成り立たせ、以前は情報の隔たりによって特徴づけられ
ていた水準が平板化し、組織はますます大きくなるだろう」(「悲しき熱帯」原著 p.478, 訳書2:426)」(クレマン 2014:109)。
「レヴイ=ストロースがこのように情報は体系的破壊であるという理論をただちに取りいれていることは、衝撃的かもしれない。しかし、これにはさらに続きが
ある。「この崩壊の過程を、その最高度の表現において研究することを使命とする学問の名前は、人類学(anthrolopologie)と書くより、エン
トロピー学(enthropologie:アントウロポロジー)と書くべきだろう」(「悲しき熱帯」「悲しき熱帯」原著 p.478,
訳書2:426)」(クレマン 2014:109)。
22.歴史、意味、祖先たち
「この西洋文明は、おそらくまだその歴史の累積的時期のうちにある。それゆえ西洋はさまざまな機械を自在に扱うのだ。しかし、ポリネシアのいくつかの民族
によって発明された、根を埋めない、水耕栽培についてはどうか?
息の鍛錬によって身体を完壁に制御する術を発見したのは中国人とインド人であり、内臓体操を発明したのはマオリ人である。一方ではイヌイット族、他方では
ベドウィン族とトゥアレグ族は、過酷な環境での生活に秀でている。オーストラリアのアボリジニは、経済的な面ではまったく恵まれていないが、現代の数学に
よってしか理解できない親族の体系を練りあげた。だが、発見の先行性によって優秀さを認めることが問題なのではない。「(……)それぞれの(文化)の独創
性を作りだしているものは、むしろ問題を解決し、さまざまな価値を一望のもとにおさめる特殊なやり方のうちにある。そうした価値は、すべての人間にとって
ほぼ同じものである。なぜなら、すべての人間は例外なく言葉、さまざまな技術、芸術、実証的な知識、宗教的信仰、社会的・経済的・政治的組織をもっている
からである」(「構造人類学2」原著P.401)」(クレマン 2014:118)。
23.酋長の妻の産んだ赤子のように美しい
24.白い羽根、黒い肌——スワイフウェ、クウェクウェ、ゾノクワの鬼女
25.私たちの身近なところで——サンタクロース、お年玉、狂牛病
「一九九三年、狂牛病の流行がはじまったとき、レヴィ=ストロースは『ラ・レプブリカ』誌に「われわれはみな人食い人種だ」を発表する。当時、ヨーロッパ
は、ニューギニアにおけるクールー〔ニューギニア高地人に見られる、致死性の海綿上脳疾患〕のようないくつかのヒトの病気が、食人のせいだということを知
らなかった。この考え方を拡張し、クロイツフェルト・ヤコプ病の症例に当てはめることができる。この病気は、成長を助けるために人間の脳髄からの抽出物を
投与したことから生じた。三年後、ふたたび『ラ・レププリカ』誌にレヴィ=ストロースは、「狂牛病による知恵の教え」を発表する。この論文は『田園研究』
誌に再録され、ネットで読むことができる。牛たちもまた同族喰いになってしまった。牛から作られた肉骨粉を牛に投与したのだから。ところで、動物を食べる
ために殺すことに、私たちはだんだん耐えられなくなっている。それが食人に似ているからだ。そもそも、動物をつねに仲間、さらには肉親であるとみなしてい
るいくつかの先住民もまたそのように理解している」(クレマン 2014:133)。
◎肉食をやめる日
「オーギュスト・コントが、牧畜種のなかに「栄養製造所」を見て、この草食動物を肉食にすることによって、人類の知性へと高めようと願ったことに奇妙な賛
辞を寄せた後、レヴィ=ストロースは夢見はじめる。遅かれ早かれ、人類は肉食をやめるだろう、それはあまりに穀物を消費しすぎるし、エネルギーを大量に使
うからである。「(……)専門家の見立てによれば、もし人類が完全に菜食主義者になったとすれば、こんにちの耕作面積で二倍の人口を養うことができるだろ
う。」こんにちでは有名になったこの考えは、一九九六年にはまったく知られていなかった。しかし民族学者がエコロジーを夢見たからといって、肉への好みが
禁じられるわけではなく、消滅することもないだろう。肉はたんに珍しく、高価な、危険でさえある食事となるだろう。ちょうど、日本のフグ、あのマフグ科の
魚が、はらわたを締麗に出さないと、死を招くことがあるように。屠殺がなくなると、肉はもはや狩猟からしか得られなくなるだろう。「昔ながらのヒトの群れ
は、自分たちしかいないとき、野生にかえった平原のなかでは、他の集団同様獲物となるだろう。」おそらくある日、超巨大都市に集中した人びとによって放棄
された広大な空間が、失われた多様性を取り戻すだろう。これが狂牛病による知恵の教えであり、老人が人生の黄昏に出しためずらしく楽観的な結論である」
(クレマン 2014:133-134)。
26.トロンプ・ルイユ——プッサン礼讃
「ある夜、彼の家で、手を洗わせてくださいとお願いしたところ、ヨーロッパの諸民族は、手を流水で洗う民族と洗面台の栓を閉めて手を洗う民族に分類される
という理論をその場で作ってみせた。こうした細やかな思いがけない発見は、精神分析治療で「洞察(インサイト)」、あるいは良き解釈と呼ばれるものと同じ
である。それは簡潔で、光り輝くものだが、誰もそんなことを考えたことが一度もなかったのだ」(クレマン 2014:137)。
27.音楽——自分たちのあいだだけで生きること
ギアナインディアン:オポッサム=虹
『親族の基本構造』
「世界の端と端、時間の二つの先端で、黄金時代に関するシュメール神話と未来の生活に関するアンダマン神話〔インド・ペンガ湾東部に浮かぶアンダマン諸島
の住民たちは、採取狩猟民だった〕が響きあっている。シュメール神話は、原初の幸福の終わりを、諸言語の混滑によって言葉がすべての人の共有物となった瞬
間に位置づけている。アンダマン神話は、来生の至福を女がもはや交換されない天国として描いている。つまり、未来であれ過去であれ、同じように手の届かな
い時代に、人が自分たものあいだだけで生きていける甘美な世界を押しやっているのだ、そうした幸福は、社会に生きる人には永遠にあたえられることがないの
である」(「親族の基本構造」原著:p.570, 福井和美訳,p.796)。
28.皇帝、民族学者、生きる歓び
1960年1月5日に行なわれた社会人類学講座の開講講義
(先住民に対する「負い目」)
「親愛なる同僚諸君、この講義を始めるにあたり社会人類学の巨匠たちに敬意を表した後で、最初の言葉を野生の人びとにむけることをお許しください。その理
解しがたい粘り強さは、人間的事象にその本当の広がりをあたえる方法をわれわれにまだ示してくれるのですから。その男たち、女たちは、私が話しているこの
瞬間、ここから何千キロも離れた場所の、低木叢林の熱気にむしばまれたどこかのサバンナや、雨にびっしょり濡れた森で、野営地に戻って貧しい食べ物を分け
あい、一緒に彼らの神々のことを考えているのです。熱帯地方のインディオや、世界中にいる彼らの同胞は、彼らの貧弱な知恵を私に教えてくれましたが、しか
し私が伝える使命をおびたさまざまな知識の大部分はそこにこそあるのです。やがて、悲しいことに、われわれが彼らにもたらしたいろいろな病気や生活様式の
衝撃によって、すべてが消滅する運命にあります——彼らにとって、それらはずっと恐るべきことなのです。
彼らに対して、私は負債を負っているのですが、私がその負債から解放されることはないでしょう。たとえ、彼らのあいだにいたときのままの自分、あたながた
のあいだにあっては、自分がつねにありつづけたいとねがっている者、つまり彼らの生徒であり、証人である者として自分を名乗り続けながら、みなさまにあた
えていただいたこの場所で、彼らが私にそそぎこんでくれた愛情と、彼らに私が抱いている感謝の念を申し述べることができたとしても」(クレマン
2014:147-148)。
Anthropologie Structurale II, Paris, Plon, 1973, p.44.
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