はじめによんでください

マーガレット・ミードとその時代

『サモアの思春期』とその作者マーガ レット・ミード

解説:池田光穂

マーガレット・ミードは一九〇一年、アメリカ合州 国のフィラデルフィアで生まれた。彼女の父親はペンシルバニア大学などで財政学を教える大学教授であった。彼女の母親は、大学で社会学を履修している。詩 作や絵画を趣味として育ったミードは「著述家になりたくて」最初インディアナ州にあるデ・ポー大学で、英文学を専攻する。しかし一九二〇年ニューヨークに 出て、コロンビア大学の姉妹校で女子大のバーナード大学に転学する。彼女は依然として、詩作を中心とした文学に情熱を注いでいたが、心理学の指導教官にす すめられたタヒチの人たちの遺伝と環境の関係についての勉強をはじめた。その時にまさに、コロンビア大学から出講してきたフランツ・ボアズ(Franz Boas, 1858—1942)と、彼の講義助手のルース・ベネディクト(Ruth Fulton Benedict, 1887—1948)に出会うことになる。

ミードがボアズから教育を受けた一九二〇年代のアメリカは、ヨーロッパ大陸が被った第一次大戦の戦災とは無縁の経済的繁栄を謳歌していた。すでに一九世 紀の最後の二〇年間からは科学的な思想としてのダーウィニズムと、他方、実証主義や唯物論と距離をおきながらカントの超越論的方法を受け継いだ新カント主 義が二大思潮をなしていた時期である。ボアズは当時、ダーウィニズムを人間社会に適用させた優生学や、その影響を受けつつ大きく発展した人種主義に強く反 対していた。そこでボアズは、優生学者フランシス・ゴルトン(Francis Galton, 1822-1911)が洗練させた身体計測法を用いて、アメリカ合州国への移民の世代間での膨大な身体計測値を収集した。その結果、身体計測値の変化が、 生活習慣の変化によるものであることを証明した。このデータは、当時の人種主義が主張していた人間の生物学的差異が本質的に重要であるという生物決定論に 対して根底から批判を投げかけたものであった。

ミードはボアズの人類学の授業に感銘を受け、コロンビア大学への転学を考えたが、当時のコロンビア大学には学部生むけのコースがなく、バーナード大学を 心理学の学位で卒業した一九二二年にコロンビア大学大学院に進学する。ミードはボアズが指導するセミナーに出席し、やがてバーナード大学の講義助手をつと めるようになる。彼女は、ボアズが関わっていたニューヨークのアメリカ自然史博物館にバーナードの女子学生たちを実習に連れてゆくことになるが、後にサモ アから帰還後、ここに就職することになり、生涯の研究生活を続ける。

当時、ボアズやベネディクトたちが開拓していた人類学理論は、文化主義ないしは文化決定論とよばれるものに特徴づけられる。文化主義によると、我々の感 情経験は我々の属している社会生活と人々の歴史の形式の産物である。つまり文化の違いとは、精神生活の違いにあらわれるのである。そのため生物学者たちが 証明を試みるような人間の心的同一性について学問上の難問を避け、人類学者は、個別の社会集団の生活とその歴史の様式について専念して研究することができ ようになるのである。ミードは、ボアズの忠実な学生として、この文化主義の考え方を徹底的にマスターした。ボアズは、当初ミードに大学院の博士課程への進 学を許可することをためらっていたが、彼女が大学院に入学した一年目の一九二三年秋に正式に進学を認めた。この時期、彼女は数年間の婚約期間を経て最初の 夫——彼女は生涯で三度結婚する——で神学生のルーサー・クレスマンと結婚している。

要求の厳しいボアズ先生の忠実な学生として、また教師として友人として生涯親交を深めたベネディクトのもとで、ミードは着実に勉強を重ねていった。一九 二五年五月に博士論文『ポリネシアにおける文化的安定性の疑問に答える調査研究』が完成し、審査に合格した。この研究は、サモアを含む五つのポリネシアの 文化におけるカヌー建造、家屋の建築、刺青に焦点をあてて、文化的要素が継承されていることの安定性を論じたものであった。

ボアズは、これまでも多くの弟子たちを文字を持たない小規模な社会いわゆる「未開社会」に送り、それらの社会が近代化の影響を受ける前に、文化の記録を とるように勧めてきた。ボアズは、ミードがそれまで心理学研究について詳しく勉強してきたので、アメリカ先住民の思春期について調べるように彼女に勧めた が、彼女は博士論文のテーマでとりあげたポリネシアへの調査旅行を希望していた。結局、二人は妥協点を見いだし、当時アメリカ合州国が一八七二年以降、海 軍の艦船を定期的に派遣し、九八年以降領有を主張していたサモア諸島の東側にあるアメリカ領サモアで調査することになった。

ボアズのつよい推薦により国立研究審議会から彼女は奨学金を受けサモアでの思春期の調査計画が認められた。さらに、ハワイにあるビショップ博物館より民 族学研究員を任命され、マヌア諸島の民族学調査を委嘱された。彼女は一九二五年八月一一日にハワイに着き、ビショップ博物館の民族学者エドワード・ハン ディからサモア調査に向けてレクチャーと受けた後、八月三一日サモアの軍港のあるツツイラ島パゴパゴに到着した。そして翌年の五月一〇日に同じパゴパゴか らオーストラリア・シドニーに向けて出発するまでの、およそ八ヶ月あまりをサモアで滞在することになる。


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