はじめによんでください

民族誌という書物と、その責任

Ethnography as a text, and its responsibilities

『サモアの思春期』とその作者マーガレット・ミード

解説:池田光穂

『サモアの思春期』において、ミードは事実におい て誤ったのだろうか、それともフリーマンとの解釈の違いを単に示すものなのだろうか。ミードがファアプアとフォフォアという同世代の少女から悪い冗談で担 がれたという証言は存在する。他方ミードは既婚者であったにもかかわらずサモアでは身分の高い処女であるタウポーを装っていた。つまり調査者の身分を偽っ ていた。サモアの少女とミードは、これでおあいこという訳である。

冒頭で「嘘」の重大さは、それから被害を被るインパクトの大きさに比例すると私は述べた。この嘘で、いったい誰がもっともインパクトを被るのか。そう考 えると、次のような問いが出てくるはずだ。ともあれ『サモアの思春期』とは誰のもので、誰のためにあるのか。

本書の扉書によれば、著者は言わずもがなミードであり「タウ島の少女」たちに捧げられている。だがこれは、外交上の形式であり、まず第一に本書はアメリ カ人のために書かれたものなのだと言える。この本はアメリカにおける大いなる啓蒙書であり、かつロングセラーであったために、論争の影響を大きく受けた。 批判の書物とともにミードの本はさらに売れ行きを伸ばし、二〇〇一年には永遠の名著版という新しい装丁で登場した。この新装版に解説を書いた人類学者キャ サリン・ベイトソン——ミードの三番目の夫グレゴリー・ベイトソンとの間にもうけた唯一人の娘——は、厳しい批判を被るのは、あらゆるパイオニア的書物の 宿命であり、「時たまの日和見主義的な攻撃」は現代のアメリカの読者には取るに足らないものであることを主張して憚らない。この娘の発言は一見何の変哲も ない正当な主張のように思える。異文化を通して自己の文化を反省的に捉える正しいアメリカ文化人類学を実践した先駆的著作だからだ。しかし、これはアメリ カ人の文化はサモア人の文化と同じではないということを前提にして、はじめて可能になる主張である。

しかしながら、アメリカ人の文化はサモア人の文化と同じではないという表現は、アメリカ人はサモア人ではないということを意味しない。ミードが調査した サモア人は、アメリカ領の住民であったし、現在もそうである。彼女がフィールドワークをしたのは、一八九九年以降アメリカ合州国が領有しているサモア(ツ ツイラ島とマヌア諸島)であり、サモアの人たちは調査がおこなわれた一九二〇年代にはハワイ諸島(一八九八年に併合のちに準州を経て州に昇格)やカリフォ ルニア州への移民がはじまっていた。

ミードは四五年間の間に版を重ねた後の『サモアの思春期』七三年版の序文には、この本がサモア人に読まれることを想定して書かなかった、祖父母たちがし ていた悪ふざけは、現在のものではないと読者に注意を促している。さらに七六年二月に書かれた日本語版の序文には、祖先のしていたこと(=性的放逸であり 悪い意味が含まれる)に子孫は責任がないのだから、それは耐え難いことではないと言う。この表現は異議申し立てをするサモア人に対するある種の懐柔に聞こ える。そして事実その通りである。この異議申し立てを行ったのは、ミードの序文では「若い何人かの批評家」とあるが、正確には「サモアの大学生たち」で あったとフリーマンはいう。人類学の定番教科書であったこの書物を読んだ時に、サモアの「当事者」として、サモア人とサモアの文化に対する根本的な誤解 を、これらのサモアの大学生たちは、ミードの著作の中に見たのであろう。その際には、ミードの言うようには世代が変わろうが、アメリカ人との関係において サモア人という当事者性が単純に異なるとは軽々しく言えないはずだ。サモアの大学生たちは、自分たちあるいは自分たちの祖父母の文化が「誤って描かれた」 ことに対する正式な異議申し立てをミードに突きつけた。しかし、ミードの反応は、その事実の真偽については答えず、その後の改訂本の序文に先のような懐柔 とも注意を促す文章をつけるという対応をしただけに終わった。

当事者たちの異議申し立ては、適当に言いくるめられてしまった。他方、プロフェッショナルの人類学者フリーマンにより、ミードの死後その問題点が指摘さ れ、学界内部で議論に値すると大騒ぎされるようになるのは、学生たちの異議申し立てがつけれらた当時から数えておよそ一〇年以上も後のことである。フリー マンの反論は、ミードが誤った結論を導くにいたった過程を、当時の社会状況とミードのデータ処理の誤りと、さらに後になって明らかになったファアプアの証 言で構成する、いわゆる実証主義的な手続き、つまり学界でひろく認められた正式な手続きに従ったものだった。しかし、ミードはもはやこの世の人ではなかっ た。そして彼女の死後の名誉と人類学界におけるミードの業績の神格化を維持したい「アメリカの人類学者たち」は当然反論した。これらの相対立する人たちの 議論はつねに平行線をたどったままだ。

あの時、もしミード自身が本書の最終章「選択のための教育」の中に書かれてある精神をもってサモアの大学生たちと接していたらどうだろうか。つまり、ア メリカ人社会の「選択の可能性」を、特殊な社会的文化的状況におかれていたと彼女が考えたサモアの社会の中にも見たとしたらどうだろうか。サモアの大学生 たちの異議申し立てを、彼女はもっと別の方向に発展させることができたのではないだろうか。例えば、彼女は、人類学者が見たサモアと後の時代のサモアの若 者が知っている文化の違いが何にもとづくものであるのかという再検証を開始したかもしれない。あるいは、サモアの中にも多様な価値観が存在し、さまざまな 選択の可能性を若者たちに提案したかもしれない。そしてミードと若者たちの間でサモア社会の未来について議論が、あの時始まっていたかもしれない。

晩年のミードは、その知的好奇心に衰えることがなく、さまざまな会合に出席し、文化人類学の社会的貢献について熱っぽく語った。他方では、自分の関心の ないことには、あからさまな皮肉を口にする人であったという。だから、生前のミードにはサモアの学生たちの異議申し立てを聞くような余地は無かったという 事は十分に考えられる。しかし、マヌスというフィールドでは社会の変化と人々の価値観のゆくえというテーマで研究していたから、この可能性は全く皆無とは 言えなかった。

ミードが当事者たちの発言に耳を傾けなかったのは、ミードの人格的性質に起因するというよりも、むしろ文化人類学の学問的成り立ちに関する当時の政治経 済的構造に根ざしたことによるものだ。つまり、現在の我々が常識としているように、調査者もまた自分たちの育った文化的偏りの中に生きており、その時代の 学問的枠組というレンズを通して社会の「事実」を理解しているということをミードは理解できなかった。だから現在の我々こそが、その時間の軸を巻き戻し、 ミードがサモアの大学生たちに対して応えることができなかった、さまざまな返答の可能性について考えるべきなのである。例えば、自国語で書かれた民族誌を 何らかの形で現地社会にフィードバックすることを通して、文化を固定的で我々の概念を縛るものとはせず、無限の選択の可能性の一つとしてとらえること。そ の可能性を現地の人たちと共に共有することなどである。


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