医療としての癒し/癒しとしての医療
Medicine as Healing / Healing as Medicine
医療実践(medical practice)とは、個人や集団の行動レベルにおいて病者やその家族が抱える健康上の問題(=病気)に対処することである。これに対して医療制度 (medical institution)とは、病者を組織的に管理する社会的様式ということになろう。日本語では実践の意味が含まれる医療は、管理知識としての医学と区 別して使うこともあるが、両者は密接に関連しているために、ここでは区別しない。
さて多くの近代国家では医療制度のほとんどは近代医療が担っている。近代医療は、人間の 病気の生物学的側面すなわち「疾病」(disease)の制御にたいする科学的知識の適用を中心に編成されている。ただし近代医療だけでなく、ある種のメ ジャーな伝統医療(例:中国医学、チベット医学、インドのアーユルベーダー医学など)は、国家や社会によって保護されるだけでなく、学校での医学教育や実 習を通して維持発展させられている。
いわゆる「非西洋医療」は、ほとんどの社会で見られるにも関わらず、国家から手厚く保護 されることはない。この医療の治療者養成は徒弟制度にもとづく経験主義的な修練ないしは知識や技法の相伝という方法によって行われる。文化人類学者が長年 研究してきたのは非西洋医療のほうである。近代医療は、生物学と結びついた心身二元論にもとづく要素還元主義――ある特定の病原が疾病を起こし、その病原 の除去が「治療」(curing)につながる思考――にもとづいて治療を展開する。それに対して非西洋医療は、呪術や宗教などの説明でよく登場する超自然 的な原因によって「病い」(illness)が説明され、また「癒し」(healing)の論理に対して心身の全体性調和性が尊ばれる点で対照的である。
文化人類学では近代医療で定義される病気を「疾病」、疾病に対処することを「治療」と呼 ぶ。他方、伝統医療や非西洋医療における病気とその対処法を「病い」と「癒し」とそれぞれ呼んでいる。
現在、世界の多くの国家制度は近代医療を公的なものとしている。しかし伝統医療を大学教 育で教える国があり、また非西洋医療(ただし同一なものではなく数え切れないほどの多様性をもっている)は世界に遍在するといっても過言ではない。社会の 多くでは非西洋医療の種類が単一であることは稀で、さまざまな治療体系がひとつの社会に同時に存在する多元的医療(pluralistic medical system, medical pluralism)が一般的である。したがって人々はその社会にある複数の医療を治療資源として横断的に利用する行動――多元的医療行動 (pluralistic medical behavior)――がみられる。
では医療に従事する治療者の理論や技法の習得についてはどうであろうか。先に触れたよう に近代医療やメジャーな伝統医療は学校教育制度を通して学ばれる。その場合、知識の流通はオープン(公開)におこなわれる。しかし非西洋医療では、徒弟制 における修業が重視され、治療に関する理論や技法は非公開なものが多い。治療に対する報酬は、現金や物納により、それぞれの治療セッション毎に支払われる ものから、治療が終わるまで対価が支払われないものまである。治療費の額面が厳格に定められるものがある一方で、布施のように定められていないものがあ る。治療費が現金でその場限りのものは、医療がより市場経済化されている証しであり、逆に、物納で代替でき納付の時期があいまいなものは互酬的――持ちつ 持たれつの関係が長く続く――であると言う。
どのような社会でも、病気が具体的な原因でおこり、それに対応する具体的治療によって平 癒するという意識が人々のあいだに共有されている。専門家のもの(professional)と対比してそれを「人々の病因論」あるいは民俗病因論 (folk etiology)という。専門家の病因論と人々のそれが類似することが多くて大きな差がないものから、治療の知識や技能が専門家に独占され、素人の知識 が排除されているものがある(近代医療は後者の典型である)。
病気がもたらす偶発的な不幸を説明することの中で、その社会の価値観や時間概念あるいは 因果論と関連して独自の解釈がもたらされることがある。それゆえ病因論は、その社会の災因論――不幸の来歴を説明しそこからの解放の技法を与える土着の合 理主義哲学――の体系に包摂されて説明されるべきだとする人類学者もいる。
知識や技能の独占は、専門家たちにその権力の観念に関する独特の見解をもたらす。それゆ え治療者はその権力に応じた倫理をもつことが知られている。治療のパワーという権力の偏在は、患者に対して治療者への畏怖の念をもたらすと同時に、羨望や 嫉妬さらには不信感をもたらすこともある。そのため治療のパワーをもつ専門家は、成功すれば尊敬され社会的威信を獲得するが、他方、失敗を重ねれば激しく 指弾されたり、社会から放逐されたりすることもある。医療者が宗教家と類似するのは、これらの権力の行使の様式が相互に似ているためかも知れない。
現代日本を生きる我々は、病気や不幸からの解放されることを、全体論的な概念でありかつ 宗教的なニュアンスを込めた「癒し」の中に込めようとする。それは文化的社会性を忘れた生物医療を批判する、患者の側からの静かなる抵抗かもしれない。あ るいは、近代医療の使命であった治療の概念のなかに、より積極的に文化社会的な価値が込められようとする予兆にも思える。「癒し」が文化人類学における重 要な研究テーマであるのは、このような動向を検討する試金石たりえるからに他ならない。
文献