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先住権原法(1993)と国家の法理

Australian "Native Title Act, 1993"

カメレオン

池田光穂

先住権原(native title)を先住民族に認めることは、コモンローにおける土地権(土地所有権)の法理と衝突しているいうのが、まず常識的な考えらしい。金城秀樹氏の解 説によると次のようになる。

「先住権原(native title)とは,「慣習法あるいは慣習にもとづき保持され,オーストラリアのコモン・ローに よって承認される土地あるいは水面に対する先住民の共同体的,集団的あるいは個人的な権利と利益」と定義される。先住権原は,慣習法あるい は慣習により決められるものであり,土地の占有をともなう場合もあれば,必ずしも占有をともなわない場合もある。/先住権原は土地の現実的占有を基礎とし ない土地上の利益の享受である。この場合,利益とは必ずしも経済 的利益を指すものではなく,むしろ土地に対する精神的関係(spiritual relation)によりもたらされる精神的利益である。 先住民は精神的関係を有する土地を「自己のもの」とする明確な所有意識を観念的に保持しているが,現実生活の中では,自己の所有と意識する土地を経済的活 動のために利用するとは限らず,場合によっては一生立ち入ることもない場合もあるとされる。したがって,先住権原を近代的意味での,少なくともコモン・ロー上の概念での土地所有権 と把握することはできない。/先住権原法は,国家 法としての土地法とは別に,全く異なる概念を土地の権利として認めたものであり,また対象者が特定の者と限定されれば,確かに法の下の平等に背理し,国家 法の整合性を失わせることにもなりかねない」(金城 2013:18-19)。

解説は前後するが、慣習法的な「土地の支配」と、コ モンローによる土地の利用(所有権、賃貸権、用役権等)とは根本的に異なるものだということになる。

「1993 年に成立したオーストラリア連邦法である先住権原法(Native Title Act)は,伝統的先住民の土地の支配をそのまま承認したものである。つまり,イギリス法上承認される土地の現実的具体的支配のしかたとは全く異なる支配 を,国家的に法的権利として認めたということである。先住民の土地の具体的支配のしかたは,西欧的土地支配のしかたとは全く異なる。先住民は,まずもって 共同体的( communal)に土地と関係する。イギリス法(コモン・ロー)は,そのような共同体的権利を制度として認めてはいない」(金城 2013:17)。

先住権原法(1993)は、そのような土地所有権 「以外」の権利の根拠を、先住民・先住民族に与えるために、法規ないしは政策として「構想」された可能性がある。法理としての適切性や土地所有法とは、ど ちらかと言えば無関係に、アボリジニーが先住民として土地との「密接な関係」をもつことが、法的にも「承認」される必要があると考えられたからである。

オーストラリアにおける先住民は、大陸におけるアボ リジニー(Aboriginies)と、クイーンズランド州北部のトレス海峡諸島民(Torres Strait Islanders)の双方である。したがって、先住権原が適用される範疇は、土地および水域(海域)における伝統的な法や慣習においてそれらの空間領域 と人びとの関係を維持している諸権利ということになる。

先住権原法に遡る四半世紀前(24年前)に、先住民 の土地権を主張したのは、個人ではなく集合的人格(あるいは法人?)としてのクラン(clan)であった。ゴーブ・ケース(Gove Case)と呼ばれる裁判例では、クランは、原告適格なしとして退けられた。しかし、これには、明らかに先住民の権利が十全に反映されていない、あるいは 先住民の「土地に関する何らかの権利」が立法されるべきだという「問題意識」が共有されていた可能性がある。

ゴーブ・ケース(Gove Case)とは。「1969 年オーストラリア北部アーネムランド内のゴーブ半島イルカラ地区の先住民が,土地に対する権利を主張して,北部特別地域(現北部準州)最高裁判所に提訴し た事件。ブラックバーン判事(Blackburn J.)は,原告がクランであることを理由に,コモン・ロー上,クランのような集団による共同体的土地所有権は認められないとし,原告適格なしとして却下し た(1971 年4 月)」(金城 2013:19n)。

「先住民が最初に土地の権利を主張し提訴したゴー ブ・ケース(Gove Case)において,北部特別地域最高裁判所は,コモン・ロー上,所有権の対象となる財産(property)の概念には,利用・享受の可能性,譲渡性, 排他性が含まれていなければならないとした。先住民の土地の支配のしかたは,観念的支配の側面からすれば,使用価値の享受を認めることができるが,現実支 配の側面,すなわち経済生活のレヴェルにおいては,他の集団の自由な立ち入りが許され,また,集団の構成も血縁の結びつきからの集団間での構成員の出入り による移動で固定的ではないから,先住民の土地の支配のしかたは,同一の集団による土地の排他的占有状態があるとは言えないと判示した。/すなわち,狩猟 採集民による一定の土地の占有は,一時的に排他性をともなう占有状態が存在しても,決して固定的なものではなく。自然条件により,その期間も定まるもので あり,このような一定の土地を構成員の固定しない集団による一時的占拠利用は,コモン・ロー上,占有として認められないと結論づけたのである。さらに交換 価値としての譲渡性は全く認められないとして,コモン・ロー上の財産概念からすれば,先住民の支配する土地は,そもそも所有権の対象たる財産にあたらない とした。こうした土地に先住民が何らかの権利を有するには,明示 的な法規あるいは明確な政策によるものでなければならないとした」(金城 2013:18)。

このような、歴史的経緯のもとで、先住民権原が立法 された。しかし、この法律の1年前の1992年に、オーストラリアでは、コモンローにおける土地所有権が構築される歴史的背景に、慣習的に自明の事実で あった「先住民による土地の占有」を法的に認めず、逆に先住民の固有の土地を略奪することにより、近代所有権法ができたことを認めた「マボ判決(Mabo v Queensland (No 2)1992)」がなされた。

「オーストラリアという国家の建設は,イギリスから の移住によって1901年に成し遂げられた。しかも,移住したときに,オーストラリア大陸には誰も住んでいなかったという虚構の上に国家建設がなされた。 1992年,オーストラリア連邦最高裁判所(Australian High Court)は,オーストラリア先住民の伝統的な土地支配が法的占有(possession)であることを初めて認めるとともに,オーストラリア領土その ものが,先住民の固有の土地を奪うことによって取得されたものであるとの見解を公式に示した。/さらに,最高裁は,「オーストラリアは無主地への移住によ る植民地である」という国家建設史の伝統理論を放棄する宣言を出し,オーストラリア土地法史を根本から覆した。いわゆるマボ判決である。この判決は,先住 民の土地に対する慣習的諸権利がイギリスの植民地下でも存続したこと,そして,あらためて先住民の伝統的土地の支配を法的に認めたもので,最高裁90年の 歴史の中で最も重要な判決の一つである」(金城 2013:22)。

このようにして、先住民の土地占有の法理は国家が認 めることになった。しかし、いずれにせよ、このままでは、慣習法的事実と、国家による土地所有制度の間は埋まらない。その矛盾を解消するために考案された のが、信託(fiduciary)法理である。

「信託は,一般的には,明示,黙示,復帰,構成信託 の4つに分類されるが,オーストラリアにおける先住民の土地の権利の承認の根拠として用いられたのが構成信託(Constructive Trust)である。構成信託は,たとえ受託者と呼ばれないとしても,信認関係(fiduciary relation)(1)の存在が基礎となる。構成信託は,法の作用により生じる他の信託とは異なり,受託者の行為の結果として,裁判所によって課せられ る,当事者の意図とは全く関係なく生じる信託である。イギリス土地法を継受したオーストラリア法では,オーストラリア全土の土地所有権は,イギリス国王に 帰属する。法理論的には,私的所有を認めるためには国王による譲与(grant),オーストラリア政府が出来てからはオーストラリア州政府による形式的な 譲与が必要であり,その結果,フリーホールド(=所有権)が設定される。すでに述べたように,広大な面積をもつオーストラリアでは,所有権者である国王に よる譲与がなされないままの土地が存在する。その際に,当該土地の国王の持つ所有権はどのような性質をもつのかである」(金城 2013:23)。

マボ判決によって、土地の占有権が先住民にもあるこ とが認められたが、土地の所有権は、その領土全土の所有権者である国王から信託を受けていると解釈するのであり、先住民も他の国民と同様に、同等の権利を 有するということで、法の下の平等に背理せず、かつまた国家法の 整合性を調整するという法理を確立するのである。

「先住権原は,基礎権原を究極の権原として組み立て られたイギリス土地法とは対極にある概念であるが,対立するものではない。基礎権原があるから先住権原がある。逆に,基礎権原という概念は,先住権原に対 応する概念として観念されるのである。コモン・ローが先住権原を認めたことは,コモン・ローに取り込まれたことを意味する。というのは,先住権原はコモ ン・ローの制度ではない。コモン・ローが先住権原を認めるのは,コモン・ローと両立しうる限りにおいてである。つまり,基礎権原の行使によりコモン・ロー 上の権利が発生したところでは,先住権原は認められない。基礎権原は,先住権原の譲与,譲渡はできない。先住権原は存続か消滅かのいずれかである」(金城 2013:25)。

このあたりの議論、つまり、コモンローの至高性 (sovereignty, 主権の意味もある)を担保したうえで、はじめて先住権原が保証されるという議論は、コモンローに馴染んだことのない、僕たちには少しわかりにくいかもしれ ない。しかしながら、「基礎権原は,先住権原の譲与,譲渡はできない」という、独特の先住民性(=「先住民であること」の本質性)を逆に(その範囲内で) 至高なものとした点では、プラグマティックな利点をもつ。

言い方を変えると、イギリス土地法が、地球の裏側 (表側?)のオーストラリアでも、法理的に機能していること、そして、先住民の権利を十全に認めたマボ判決との矛盾を解消するための暫定的な措置としての 信託法理があるということも示唆される。金城は、それゆえ、先住権原の「消失」こそが、受益的所有権の確立につながると、未来におこりえる出来事を「予 言」している。

「オーストラリアはすべて国王の所有権に帰属すると いう前提を変えずに,実は国王の権利に制限のあることを,信託理論を用いて説明する。すなわち,遠くアフリカにおける枢密院判例を引き合いにし,主権の変 更は私権に及ばず,したがってイギリスによる植民地宣言による主権の獲得が,ただちに先行する土地の権利を消滅させるものではない。土地の究極的権原であ る基礎権原を行使しなかった場合の国王の有する権利は,全てを含む絶対的所有権(plenum dominion)ではありえない。中味のない空虚な所有権にすぎないのである。先住権原が消滅して初めて受益的所有権(full beneficial ownership)となるのである」(金城 2013:26)。

《マボ判決・関連クロニクル》

Murry Island (左)とトレス海峡諸島地図(=地図クリックで拡大)

1879年 「マレー島はクイーンズランドの一部で ある」という1985年の法的認識(→Queensland Cost Island Declaratory Act, 1985

この時期の法的解釈では、英国領では、その土地(私 有地)は、各植民地政府が英国下付(えいこく・かふ;Crown grants)とし、自由保有(Freehold)や貸与保有(Leasehold)の権利が与えられた場合、土地の先住権原が抹消されるとされた (→1975年Racial Discrimination Actにより1975年以降の先住権原の抹消はできなくなくなった)。

1922年 北東アーネムランド・ミリンギンビにメ ソジスト派ミッション・セツルメント建設

1935年 北東アーネムランド・イルカラにメソジ スト派ミッション・セツルメント建設

1940年代 イルカラ近郊でボーキサイト鉱山発 見、鉱山開発申請。

1942年 北東アーネムランド・ガリウィンクにメ ソジスト派ミッション・セツルメント建設

1940-1960年代 「失われた世代(Stolen Generations)」 問題

1951年 イルカラ近郊のボーキサイト鉱山開発認 可(Wells 1982)

1968年 イルカラ・アボリジニー、州裁判所に提 訴(1970年ダーウィンでの審理開始、1971年結審、アボリジニー側の提訴棄却)(窪田 2003:128)

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1975年 人種差別法(Racial Discrimination Act 1975)を制定。

1976年 先住民土地権法・北部準州(Aboriginal Land Rights Act 1976

1980年代 「サテライト」論争——衛星放送によ りアボリジニー文化が崩壊するか否かに関する議論(窪田 2003:131)

1980年 アリススプリングカマー・プロダクショ ン(CAAMA, Central Australian Aboriginal Media Association)、ラジオ局開設

1980年 Special Broadcastng Service, アボリジニー映画製作者の雇用をはじめる。

1984年〜 ビデオ制作開始

1985年 YendemとEarnabellaに メディア会社設置

1987年 Depatment of Aboriginal Affairs (at that time),  The Broadcasting for Remote Aboriginal Communities Scheme (BRACS) 政策策定。

1989年 テレビ局 Imparja がアリススプリングに設立(Molnar and Meadows, 2001)

John Tomlinson(1993), Cultural Imperialism の冒頭で使われた有名な写真(Tanami砂漠でのアボリジニーの家族のテレビ視聴):トムリンソンはこの写真を見せた後に、テレビを先住民の文化収奪だ という主張に対して、彼らがみているテレビプログラムが Walpiri Media Association による「西洋文化から自分たちのユニークな文化を守る」ために視聴しているという《逆のメッセージ》を西洋の読者に喚起させる(Tomlinson 1993:1)[→反=文化帝国主義を実践するとは?

1982年 クイーンズランド・マレー島 (Queensland Murry island)の権利をめぐりエディ・マボを中心とするメリアンの人びとが集団権利訴訟をおこす。

1984年 Werner Herzog監督,Where the Green Ants Dream, リリース

1985年 Queensland Cost Island Declaratory Act, 1985 を制定。これはトレス海峡の先住民権を1879年に消滅したという法的判断。

1988年 オーストラリア最高裁、Queensland Cost Island Declaratory Act, 1985は、人種差別法1975(Racial Discrimination Act)に抵触するため、1985年の法令を却下する。

1992年 マボ判決(Mabo v Queensland (No 2)1992):先住権原(native title)の承認:先住権原は英国人の入植により自動的に消滅するものではなく「政府による正式で有効な交渉によってのみ抹消されうる」(窪田 2003:125)とされた。

1993年 先住権原法(NATIVE TITLE ACT 1993)制定。土地裁判所の設置。

1996年 ニューサウスウェールズ州(北東海岸 部)クレストヘッド地域のダングッチ(Dunghutti) 先住権原申請では、1840年以前からの先住の事実、現行のダングッチ語と1887年のスペンサー(Walter Baldwin Spencer, 1860-1929)の語彙との照合がなされた(窪田 2003:126——ただしスペンサーの文献は現時点では不詳)

1996年 12月ウィック判決(クイーンズランド 北部 Wik の人びとへの先住権原判決;Wik Peoples v Queensland, 1996

1997年 5月保守党ハワード連立内閣(1996 年3月〜)ウィック判決に反発

1998年 先住権原法修正案可決

1999年 3月国際連合人種差別撤廃委員会、先住 権原法修正案について、オーストラリア政府に施行を中止し、アボリジニーとの対話を勧告。

2000年 シドニー・オリンピック開催

2000年 Corroboree 2000, Reconciliation Week and National Sorry Day, On Sunday 28 May 2000 more than 250,000 people participated in the Corroboree 2000 Bridge Walk across Sydney Harbour Bridge in support of Indigenous Australians


法律

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文献


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