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「反専門化」という専門化

Professionalization of Anti-Professionalization

池田光穂

エドガール・モランは、「反専門化」という専門化が 必要だという。この主張ははたして、ナンセンスだろうか? ここで考えてみよう。

「だがもっと先まで行かねばならない。既成の強固な 学問の枠組をこえ出て、多中心的ないしは反専門化とでもいうべき 新しい「専門化」ととり組むこと(生物の進化においても過度な特化が種にとって致命的な危険となるように、科学の超専門化にもこの危険があるのだから)。このことが現 象を相手とするすべての研究のなかに認められる二つの傾向、つまり、一方は特殊具体的なものに向い、もう一方は理論へと向う二つの傾向を、一貫した形で結 合させてくれよう。こう考えてみるなら、理論と具体的なものとの「中範囲」に位置しているところの現在支配的な社会学が、一方において貧しいものにとどま り、他方で断片化されたままであるというのも、偶然でないことが知られよう。したがって、現象学的な刺激から始めて、互いに他を衰弱させあい、発展を妨げ あい、窒息しかかっている理論と具体的なものの探究とを、生気づけることが問題となるのである」(モラン「現在あるものの社会学」モラン 1997:366)。

ここでの「反専門化」は、超専門化のことではない。 多中心的に考える「専門家集団」を造れという「指令」のようにも思える。そして、それは「中範囲の」理 論家になれという指令でもない。「現象学的な刺激」をまきちらし、専門家集団に「生気づける」ことが課題になる専門家=専門化なのである。

現象、出来事、危機、社会学的な時間、というキー ワードで語られる、社会学の問題構成について、モランはひととおり批判的コメンタリーをつけた後に、「臨床な社会学」を提唱する。

「これらすべてのことは、私たちに臨床の社会学を構 想する必要をせまっている。つまり、危機によって開始される出来ごとないしは事故、極端なあるいは極限的な事例などを、直接に対象とする社会学をつくるよ うに促す。そんなものは測定しようがないとか、統計的には無視しうるほどわずかなものだとして、支配的な社会学により無意味ゆえ拒否されているもの、構造 やシステムを撹乱させ障害を起させるもの、これらすべてのものは、私たちにとっては、新しい意味の告知者、新しい過程のきっかけをつくるもの、酵素的な働 き、加速者、修正者としてこの上もなく重要なものなのである。臨床の社会学は、主体(研究者)と問題=対象(研究の)との同時代性に、とくに重要な意味を 認める。これまで、人はこの関係はたんに科学的な観察を撹乱する側面としかとらえなかった。歴史家は、かれの関心と研究の対象(歴史として扱いうる「距 離」をもつ)の間で、十分な時間的へだたりをとることを、自らの研究成果の妥当性を示すものとして、正当化してきた。そして、社会学者たちも、かれの研究 素材と十分な距離を保つことを、つまり、研究者たる主体と研究される問題=対象との間での弁証法を拒否することを、研究にとってよいことと考えてきた」 (モラン 1997:373-374)。

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クレジット:「『反専門化』という専門化あるいは、 臨床社会学のすすめ」

文献

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